カレンの配信 ―「現場で“何かが起こる予感”」
朝の光は、どこか現実離れした白さを帯びていた。
空はまだ灰色で、山々の輪郭はぼやけ、雪面と雲の境が曖昧だ。
白雲ゲレンデの最上部――そこに続く道の手前には、黄色いロープが張られていた。風に揺れる立て札には、赤い文字で《危険・雪崩警戒区域》とある。だが、その警告すらも雪に埋もれかけ、まるで無力な祈りのように見えた。
雪の斜面は、ただ黙ってそこにあった。
崩れることもなく、静かに積もり続ける。
しかし、よく見ればその表面がわずかに波打つ――息をするように、膨らんでは沈む。風がそのたびに白い粉を舞い上げ、朝の光が散乱して、どこか幻想的な輝きを生んでいた。
その冷たさは、実際に肌を刺すような温度を持っている。
だがスマホのカメラ越しでは、それが“美しすぎるリアリティ”として映っていた。
画面の中の世界は、危険よりも「物語」を感じさせた。視聴者が求めるのは恐怖でも現実でもなく、“映える臨場感”だったからだ。
その場の空気がぴんと張りつめ、どこかで風が鳴る。
スマホのレンズがゆっくりと斜面をなぞり、ロープを越える直前で止まる。
まるで“境界”を意識しているかのように――。
風が頬を切るように吹き抜ける。
カレンはそんな寒さをものともせず、いつもの“開幕テンション”でスマホを掲げた。
カメラのレンズ越しに映る自分の顔を確認し、明るく笑う。
「はい、みなさん! 白雲ゲレンデ、現場に来ちゃいました〜!」
その声は、凍てついた空気を弾き返すように響いた。
背後では黄色いロープがぱたぱたと揺れ、立て札の《立入禁止》の赤文字が、朝の光を反射してきらめいている。
雪の白に囲まれたその一角だけが、まるで舞台のように“映える”構図になっていた。
スマホの画面には、すぐにコメントが雪崩のように流れ始める。
> 「マジで行ったw」
> 「さすがカレン、行動力の化け物」
> 「ニュースより早いじゃん!」
カレンはにやりと笑い、レンズにウインクしてみせた。
その瞬間、視聴者数のカウンターが跳ね上がる。
「昨日の映像、見た人も多いですよね? あの“動く雪”!」
声に合わせて、彼女は後ろを振り返り、真っ白な斜面を指差す。
「――あれ、本当に起きてたのか、確かめに来ちゃいました!」
カメラのマイクが風を拾い、微かに“ゴウ……”という低い音を立てる。
カレンの耳にはそれが、まるで雪が呼吸している音のように聞こえた。
しかし、彼女は気づかない。
その音が、BGMの裏で確かに“現実のざわめき”と混じり始めていることに。
画面の中では、笑顔のままのカレンが風に髪をなびかせ、
いつもの軽快なテンポで、視聴者を“物語”の中へ引き込んでいった。
カレンはスマホを胸の高さに下げ、ポケットからドローンの送信機を取り出した。
「じゃあ、ちょっと上から見てみましょうか」――軽い口調で言いながらも、その指先はかすかに震えている。
雪上に置かれたドローンが静かに回転音を上げ、四枚の羽が白い粉雪を巻き上げた。
機体がふわりと浮かび上がり、レンズ越しに斜面をなぞるように上昇していく。
画面が切り替わる。
スマホの中には、どこまでも白く続く傾斜。朝の光を浴びて、雪面が鈍く光っている。
コメント欄の動きが急に早くなり、数字が跳ね上がった。
> 視聴中:5,340 → 9,820 → 17,503
「やば、増えてる……!」
カレンが息を弾ませて笑うと、同時にコメントの奔流が画面を覆った。
> 「雪、まだ動いてる?」
> 「静かすぎて逆に怖い」
> 「ちょ、これ音聞こえない?」
彼女の笑顔がわずかに固まる。
BGMがいつのまにかフェードアウトし、マイクの奥に“風の声”だけが残った。
その風の底に、何かがこすれるような、重く湿った音が混じっている。
――ズズ……。
カレンは反射的に息を止め、耳を澄ませた。
風か。雪か。それとも、地面の奥で鳴っている何かか。
「……今の、聞こえました?」
彼女の声が小さく震えた瞬間、コメントが止まる。
数万人の視聴者が同時に息を呑むのが、まるで画面の向こうから伝わってくるようだった。
雪の斜面は、依然として静止している。
だがその静止が、次に訪れる動きを待っているようにも見えた。
カレンはレンズをじっと見つめた。
頬をかすめる風の冷たさが、ようやく肌の奥にまで染みてくる。
ドローンの低いプロペラ音が遠ざかり、代わりに空気の張り詰めた気配が支配した。
「……今、現場で“何かが起こる予感”がします。」
声は囁くように小さく、それでいて、異様なほど真っ直ぐだった。
カメラのレンズの向こう、数万人の視聴者がその言葉を飲み込む。
コメント欄が一瞬、爆ぜるように動き出した。
> 「やばいやばい、やめとけ!」
> 「この演出、神!」
> 「フェイクじゃないよな?」
> 「#白雲ゲレンデLIVE #カレン現地」
文字が滝のように流れ、画面の右端を覆い尽くす。
それはまるで、無数の声が雪崩の前兆のように押し寄せてくるかのようだった。
風が、突然強くなった。
警告ロープがひゅっと鳴り、立て札がかすかに揺れる。
カレンの髪が舞い上がり、頬に貼りつく。
ドローンの映像が一瞬、乱れた。
ノイズの向こう、雪の斜面が“呼吸”するように膨らんで見えた。
ほんの一瞬――それでも確かに、白い世界が動いた気がした。
カレンは言葉を失ったまま、スマホを握りしめる。
視聴者数のカウンターが、無音のうちに跳ね上がっていく。
風、雪、そして、何かの気配。
そのすべてが“映像”の枠を越えて、現実を侵食していくようだった。
コメントの奔流は、もはや文字ではなく「音」だった。
スマホの画面を覆い尽くす言葉たちは、互いにぶつかり、砕け、増殖する。
> 「画面の奥で何か動いた!」
> 「音が変わった、誰か録画して!」
> 「今の、雪の目が開いたみたいだった」
その断片が、まるで群衆の叫びのように、カレンの耳の奥にこだまする。
彼女は思わず息を詰めた。
風の匂いが変わった――そんな気がした。
冷気の中に、何か“生きているもの”の気配が混じっている。
カレンの瞳がかすかに揺れる。
その揺れを、カメラは逃さない。
> 「……皆さん、もし何かが起きたら、
> その瞬間を、一緒に見届けましょう。」
声は静かだった。けれど、その静けさが逆に、炎のような熱を帯びていた。
次の瞬間――映像が、真っ白に弾けた。
光の爆発。ノイズが画面を切り裂く。
風の唸りがマイクを満たし、誰かの悲鳴にも似た音が混じる。
視聴数カウンターが、狂ったように跳ね上がっていく。
> 視聴中:45,000 → 83,000 → 120,000
数字の増加が止まらない。
コメントは洪水となり、映像の輪郭を飲み込んでいく。
カレンの姿は、その渦の中心で――
まるで情報という雪崩の中に、呑み込まれていくかのようだった。
画面には、ただの雪しか映っていなかった。
どこにも、人の影も、動くものもない。
それなのに――コメント欄は、叫びで埋め尽くされていく。
> 「今、動いた!」
> 「音、したよな? 低く……ゴォって」
> 「来る、来るって……!」
視聴者たちは、同じ幻を見ていた。
互いの言葉が、信念のように重なり合い、ひとつの「真実」を形づくっていく。
数万人の想像が、雪面を震わせる。
その熱が、冷たい現実をわずかに歪めていく。
> 「信じた時点で、それは現実になる。」
誰の声でもない、けれど確かに“語り”が、映像の奥で囁いた。
風が答えるように鳴り、雪面の一角が、わずかに息をする。
白――静――そして、ゆっくりと。
一本の筋が、斜面をなぞるように滑り落ちていく。
それはまだ“雪崩”ではない。
けれど、世界がかすかに傾いたことを、誰もが理解していた。
コメント欄が爆ぜる。
> 「やばい、来た!」
> 「マジで現実動いてる!!」
その瞬間、配信の中と外の境界は、ひと息に溶けて消えた。
“予感”が現実を侵食し始めていた。




