「現実の歪み」
夜の底、風の唸りが山肌をなぞっていた。
白雲ゲレンデの上空を、一機のドローンが静かに旋回している。
雪が絶え間なく降り、レンズに触れるたび、白い粒が光を散らした。
眼下には、広がる白一色の世界。
リフトは止まり、ロッジの灯りもすべて消えている。
人の気配はどこにもない。
だが、世界中の視線だけが、そこに集まっていた。
風の音に混じって、微かに電子のざらつくノイズが響く。
まるで雪片のひとつひとつが、電波を帯びて落ちてくるようだった。
空と地の境が曖昧になる。
吹雪の向こうに、ゲレンデの曲線がぼんやりと浮かび上がり、
それが現実のものか、映像の歪みか、誰にも判別できない。
今、この無人の雪原が――
ネットの海の中心に、静かに浮かんでいた。
夜の闇は、底なしの静けさをたたえていた。
吹きすさぶ雪の粒が、カメラのレンズに触れるたび、微かな光を弾く。
ドローンの赤いランプが、暗い空気の中でゆっくりと瞬いた。
無音のまま上昇していくその機体は、まるで夜を切り裂く小さな心臓のようだった。
視界の下、白雲ゲレンデが広がっている。
照明は落とされ、リフトは止まり、ロッジの窓にも光はない。
人の影はどこにもなく、世界はただ雪に覆われている。
降り積もる雪の音さえ、吸い込まれるように消えていく。
映像の中では、時間が止まっているかのようだった。
――誰もいない。
けれど、無数の目が、この場所を見ていた。
暗闇の中を、白い雪が静かに舞い続けていた。
だが次の瞬間、ドローンの映像の上に――
光の文字列が、ふっと浮かび上がる。
最初は、いくつかの短い投稿だった。
「まもなく配信スタート」
「雪の動き、やばくない?」
「フェイクじゃなかったらニュースになるぞ」
文字は次々と重なり、薄い霧のように画面の上を流れていく。
#白雲ゲレンデ雪崩予告
#現地取材予定
ハッシュタグが列をなし、まるで雪の結晶のように散らばった。
コメントの数は一気に膨れあがり、映像を埋め尽くしていく。
青白い光の粒が雪片と混じり合い、現実と情報の境界がゆらめく。
雪が降っているのか、文字が降っているのか――
もう判別がつかない。
画面の向こうで、世界そのものが“情報”に飲み込まれていくようだった。
音が、途切れた。
それまで流れていたBGMがふっと消え、
代わりに――“ズズ……”という、低い震えが混ざり始める。
最初はただの風の唸りだと思った。
あるいは、ドローンのマイクが拾った電波ノイズ。
だが、その音は、確実に“近づいて”いた。
画面の下、雪原の一部がかすかに揺れている。
カメラのレンズが焦点を合わせようとするたび、
その白い面が、呼吸のように波打った。
――ズズ……ズズズ……。
低音は腹の奥を震わせるほど重くなり、
雪の静けさが反転するように、不穏な響きを孕む。
そして、通信の向こうから、誰かの声が割り込んだ。
「……動いてる……? 雪……?」
音声はノイズに呑まれ、言葉の輪郭が崩れていく。
それでも確かに、“何か”が地の底で目を覚ましていた。
画面に、突如ノイズが走った。
ドローンの映像がぶれ、ピントが合うたびに雪面がわずかに“膨らんだ”。
まるで、山そのものが呼吸しているかのように。
吸い込み、吐き出し――白い世界が生き物のようにうねる。
SNSのコメントがその映像に重なり、
流れる速度が次第に狂っていく。
文字列が滲み、歪み、溶け合い、
やがて――雪片のように崩れ、消えた。
画面全体が、白に埋め尽くされる。
その白の中に、ただひとつの字幕が浮かぶ。
「言葉が、山を動かす。」
――ズズズズ……。
低い地鳴りのような音が再び響き、映像が震えた。
雪面が、ほんのわずかに、形を変える。
崩壊寸前の均衡。
だが――完全には落ちない。
白い世界は、ぎりぎりのところで“現実”の形を保っていた。
その静けさこそ、最も危うい歪みだった。
すべての音が、ふっと消えた。
風も、地鳴りも、電子音も――一瞬にして吸い取られたように。
モニターの中には、ただ“白”だけが残っている。
境目も影もなく、世界が輪郭を失う。
雪なのか、光なのか、それさえもう分からない。
やがて、その白の中央に、淡い文字が滲む。
《#白雲ゲレンデ LIVE接続中……》
ほんの数秒の沈黙。
そのあと、文字がノイズに崩れ――ゆっくりと切り替わる。
《――signal lost――》
再び、無音。
かすかに、風が遠くで鳴った気がした。
それもすぐに、深い雪の中へと吸い込まれていく。
画面が、静かに暗転した。




