夜の静寂 ―「雪の音と通知音」
ミホは、ひとり監視室の椅子に腰を下ろしていた。
蛍光灯はすでに消され、残るのはモニターの青白い光だけだった。薄闇の中で、その光は雪のように冷たく、彼女の頬を淡く照らしている。
外では、吹雪が続いていた。窓の向こうはすべて白く、世界の輪郭が溶けてしまったようだった。風が建物の壁をなぞるたび、低い“ゴウ……”という音が鳴り、暖房の唸りと重なって、奇妙な呼吸のように室内に響いた。
> 「雪って、こんなに音がするんだっけ……」
心の中で、ミホはそっと呟いた。雪とは、もっと静かなものだと思っていた。だが今夜の雪は、何かを訴えるように、絶え間なく音を立てている。
モニターの中では、無人のゲレンデが映っていた。
スロープもリフトも、まるで時間が止まったかのように動かない。降りしきる雪が、光を吸い込みながらゆっくりと積もり、黒い鉄骨や標識を覆い隠していく。
まるで世界そのものが、白の下に埋められていくようだった。
机の上で、スマホが小刻みに震えた。
その振動はまるで、遠くの地鳴りのように、一定のリズムでミホの手元に伝わってくる。
画面には次々と通知が点滅していた。
《#白雲ゲレンデ》《#カレン潜入》《#雪崩予告》――同じ言葉が何度も、何千もの声に姿を変えて押し寄せてくる。
> 「現地ライブ始まるぞ!」
> 「ほんとに行くの?命知らずw」
> 「白雲って、あの閉鎖寸前のスキー場?」
文字が雪片のように流れ落ち、画面の白に溶けて消えていく。
通知音が一つ鳴るたびに、室内の空気が震えた。二つ、三つ、五つ――音が重なるうちに、それは単なる電子音ではなく、“雪崩の轟音”のように膨らんでいく。
ミホは堪らずスマホを裏返し、音を遮った。
だが――止まらなかった。
風が窓を叩く音と、建物の軋みが、まだどこかで同じリズムを奏でている。
まるで、外の雪とネットのざわめきが、同じ深層で響き合っているかのように。
彼女は息を潜め、ただ耳を澄ませた。
その静寂の中にさえ、音があった。見えない情報の雪が、確実に積もり続けている音が。
ミホは、ふと、モニターへ視線を戻した。
そこには、変わらぬはずの雪原――。
風も人影もない、ただ白一色の静止画のような映像。
……のはずだった。
ほんの一瞬、画面の奥が、かすかに“揺れた”気がした。
照明の反射か、カメラのノイズか。それとも、外の風が強まったのか。
彼女は瞬きをし、もう一度見つめ直す。
雪面が、わずかに膨らみ、沈む。
それは呼吸のようで、脈動のようで――。
> 「……?」
ミホは無意識にマウスを動かし、拡大表示に切り替えた。
ピクセルの粒が粗くなり、光と影の境界が震える。
静止しているはずの映像の中で、白がわずかにうねり、形を変える。
まるで雪そのものが、生きているみたいに。
その揺らぎは、錯覚のようでもあり、警告のようでもあった。
モニターの前の空気が、ひやりと冷たくなる。
机の上のスマホが、また短く震えた。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴る通知音が、やがて暖房の唸りと重なっていく。
外では風が“ゴウ…”と唸り、窓ガラスを微かに震わせる。
音が層になっていく。
情報の波と、自然の静けさが、境を失ってひとつに溶ける。
電子の鼓動と雪の息吹が、同じテンポで世界を刻んでいる。
ミホは、顔を上げたまま目を閉じた。
耳の奥で、風と通知音が区別をなくしていく。
> (……世界のどっちが“動いてる”んだろう。)
画面の中の白と、現実の白。
どちらも静止しているようで、どちらかが確実にざわめいていた。
モニターの中で、白い世界がわずかにざわめいた。
何かが、雪の帳を裂くように――細い影が横切った。
風が舞い上げた雪煙か、それともカメラの誤作動か。
判別できぬほどの一瞬だったが、ミホの呼吸は止まった。
次の瞬間、机の上のスマホが震える。
画面には、冷たい青の文字。
《LIVE開始しました:#カレン潜入ライブ》
通知音が室内の静寂を割り、窓の外の吹雪が応じるように“ゴウ…”と鳴った。
ミホは顔を上げ、モニターを見つめる。
そこに映るのは、青白く揺れる雪の斜面。
その光が、彼女の瞳に映り込む。
きらめく白が、ゆっくりと“ひび割れ”の形を描き出していく。
まるで、雪崩がまだ眠っている場所の下で、
最初の微かな裂け目が息をしているかのように――。
監視室の窓の向こうには、ただ、白。
雪と風が混じり合い、境界を失った世界が広がっている。
音と呼べるものは、低く唸る風の音と、
どこか遠くで鳴り続けるスマホの通知音だけ。
ミホはカーテンを少しだけ開けた。
夜が、ゆっくりと終わろうとしている。
だが、その夜明けは“光”ではなく――
濁った白が、世界を覆っていくようだった。
ゲレンデの上に、朝が降りてくる。
冷たく、無音で。
それはまるで、
何かが静かに目を覚ます前の――“白い警告”のようだった。




