華代の発言 ―「炎上マーケティングの香り」
午前五時。
白雲ゲレンデの休憩室は、夜と朝のあいだに取り残されたような青白さに包まれていた。
窓の外では、雪が淡く光を返している。空の端がわずかに白み始めているが、まだ「朝」と呼ぶには早すぎる。
天井の蛍光灯は半分ほど落とされ、自販機のライトだけが壁をぼんやりと照らしていた。
その機械音が、この時間帯特有の虚ろな静けさに小さく震える。
テーブルの上には紙コップがいくつも並び、ぬるいコーヒーの香りが漂う。
徹夜明けのスタッフたちは言葉少なに、それぞれのスマホやテレビ画面を眺めていた。
誰もが眠気に包まれながら、同時に――
何かがじわじわと「現実味を失っていく」瞬間を、無意識に感じ取っていた。
音の少ない空間。
ただ、紙コップに注がれるコーヒーの音だけが、やけに鮮明に響いていた。
窓の外、夜と朝のあわいがゆっくりと溶け合っていた。
青白い光が雪面を撫で、休憩室の窓ガラスにぼんやりと反射する。
壁際では、自販機のライトが淡く点り、
その光を受けて、丸いテーブルを囲む数人の従業員たちの顔がぼんやりと浮かび上がる。
眠気と疲労を抱えたその輪の中に、湯気の立つ紙コップがいくつも並んでいた。
テレビでは、朝のローカルニュースが静かに流れている。
画面下の赤いテロップが、雪の降る映像の上を横切った。
《ネットで“雪崩予告”拡散中 現地関係者は否定》
その文言に、誰かがふっと笑い、
他の者も釣られるようにして口元を緩めた。
「なんか有名になってるよ、うちのゲレンデ。」
由紀がカップを両手で包みながら、冗談めかして言った。
笑い声は短く、まるで息を吐くように消える。
誰もが“それ以上の言葉”を持たないまま、
再びテレビの光だけが、無言の雪のように部屋を照らしていた。
華代はスティックシュガーをくるくると回し、紙コップの中でカチャリと音を立てた。
その音が、静まり返った休憩室の空気をわずかに揺らす。
「むしろチャンスじゃない?」
軽い声色でそう言いながら、華代はモニターのニュース画面を顎で示した。
「“話題のゲレンデ”ってことで、逆に人が来るかもよ。」
雪夫が苦笑いを浮かべる。
「冗談きついって、炎上だよ炎上。」
「炎上って、暖かいじゃん?」
華代の返しは、まるで広告コピーのように軽やかだった。
その瞬間、誰かの笑いが小さく弾けた。
それが伝染するように、数人が曖昧な声で笑う。
だが、笑いはすぐに途切れた。
残ったのは、自販機の低いモーター音と、
コーヒーの湯気が静かに立ちのぼる気配だけ。
笑いのあとに残る沈黙が、
逆にこの場所の“現実感の薄さ”を際立たせていた。
ミホは、スマホを握る指先に力を込めた。
画面には、淡いブルーのカウントダウンが無表情に点滅している。
《LIVE開始まで 00:07:45》
わずかに喉が動く。
言葉にならない息が、胸の奥で行き場を失う。
「“雪崩見物ツアー”とかどう?」
隣から聞こえた華代の声は、まるで会議のアイデア出しのように軽い。
「“現場でしか見られない瞬間をあなたに”。……ほら、キャッチコピーできた。」
雪夫が苦笑を漏らす。
「いやいや、広告屋の発想だな、それ。」
しかしその笑いは、どこか乾いていた。
同調でも、皮肉でもなく――ただの空気の逃げ場。
誰も、本気で否定しない。
否定するほどの“実感”が、もうこの部屋には残っていなかった。
ミホの視界の端で、スマホのカウントが進む。
00:06:58、00:06:57――
雪のように、静かで、冷たい数字だった。
窓の外では、夜明け前の雪が淡い光を帯びて降り続いていた。
白い粒が、静かに、まるで空気の密度を変えるように降り積もっていく。
テレビのスピーカーから、無機質なニュースの声が流れる。
《視聴者急増・現地配信予定――#白雲ゲレンデ》
部屋の空気が、わずかに揺れた。
自販機のランプが青白くテーブルを照らし、
眠気をまとった誰もが、無言のままその音声に耳を傾ける。
華代が、ストローをくるくると回しながら笑った。
「これ、もしかして――バズるわね。」
その声は冗談めいていたが、笑みの奥に宿ったものは、
ほんの少しの“期待”だった。
雪夫が一瞬だけ眉をひそめるが、何も言わない。
誰も笑わず、誰も否定せず――ただ、空気が変わった。
降り続く雪の音が、
ゆっくりと、現実と虚構の境を覆っていった。




