表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『雪崩注意報発令中(人間に)』:白雲ゲレンデ騒動記  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/31

田嶋記者の目線 ―「現地特ダネの匂い」

午前三時すぎ。

地方新聞《白雲日報社》の編集室は、もはや「夜」というよりも“静止した時間”の中にあった。


蛍光灯の三本のうち、一本だけが点いている。

白い光がデスクの紙束と冷めたコーヒーのカップを照らし、他の二本は沈黙したまま。

ガラス越しの窓には、吹雪がぼんやりと映り、時折“ゴウ……”と遠い獣のような音がする。


ファックスがひと息つくように「ピッ……ガシャ」と鳴り、

奥ではコーヒーメーカーが湯気を吐きながら、まるでため息をつくようにポコポコと泡を立てていた。


古いモニターのブラウン管が、低く唸っている。

青白い光が、散らかった机と壁の古びた記事を幽霊のように照らし出す。


壁際の時計が、3:07を指して止まりそうな秒針を刻むたび、

この部屋にいる誰もが――夜の底に沈んでいく音を、どこかで聞いている気がした。



田嶋慎吾――五十代。

記者歴は三十年を越え、白雲町の雪と同じくらい長くこの町の空気を吸ってきた男。

くたびれたダウンの襟を立て、コーヒーを片手に記事原稿をにらむ姿は、まるで戦場を離れられない古兵のようだ。


彼の鼻は、ただの比喩ではない。

“匂いがする”と口にしたとき、十中八九、何かが起こる。

それは火事であり、事件であり、人間の心の綻びであった。

ただ――この数年、その嗅覚が紙面の外では通じにくくなっている。


SNSのトレンドが、町の噂よりも速く燃え、冷める。

紙面の存在感は薄れ、編集長は「ネットも意識してくれ」と言う。

そのたび田嶋は、タバコを我慢しながら心の中で悪態をついた。


「記事は足で書く。指先じゃねえ。」


――それが、彼の矜持であり、時代遅れの旗印だった。


一方の新藤。二十代前半。

モニターの前に座り、指を止めることなくスクロールを続ける。

ツイート、動画、まとめサイト、情報が洪水のように流れ、

彼はその流れに呑まれながらも器用に泳ぐ。


「ネットは現場より速いっすよ」と軽口を叩きつつ、

田嶋が書いた古新聞の山を、ほんの少しだけ誇らしげに眺めている。

古臭いが、かっこいい。――その感情を、彼はまだ言葉にできない。


そんな二人の間を、ファックスの紙が「ピィ」と鳴りながら通り抜ける。

その上に浮かぶ一行――


《#白雲ゲレンデ雪崩予告》


田嶋は鼻を鳴らし、椅子をきしませながら呟いた。


「……匂うな。」



編集室の壁時計は、午前三時七分を指していた。

夜勤明けの蛍光灯が、古びたデスクと原稿用紙の山を無機質に照らしている。

コピー機の低い唸り、ファックスの吐息、そして――誰かのあくび。


パソコンのモニターの光に顔を照らされながら、若手記者の新藤がつぶやいた。

「またバカッターじゃないですか?どうせネタですよ。」


田嶋は返事もせず、冷めきったコーヒーをすすった。

苦い液体が舌に触れるたび、どこか遠い場所で風が吹くような気がする。

彼は、半分開いたブラウザのタブを指で押し、ぼんやりとタイムラインを見つめた。


#白雲ゲレンデ雪崩予告

――そのタグが、モニターの端でかすかに瞬いていた。


「……字面がいいな。」

田嶋の口から、呟きのように言葉が漏れる。


新藤が顔を上げる。「字面?」


田嶋は苦笑し、目尻に皺を寄せた。

「“予告”って言葉は、人を止める。理屈じゃなく、本能でな。」


マウスを滑らせながら、彼はタグのツイートを一つずつ開いていく。

その指の動きは、まるで鉱脈を探る職人のように慎重だった。


「ネタでも構わん。火がついた瞬間がいちばん匂うんだ。」


新藤が小さく肩をすくめる。

「また“匂う”ですか。田嶋さんの勘、時々ホラーなんですよ。」


だが、田嶋の目には、眠気の欠片もなかった。

モニターの青白い光が、その瞳にゆっくりと吸い込まれていく。


――外では、雪が静かに降り続いている。

編集室の窓を曇らせるその白は、まるでまだ誰にも知られていない記事の原稿のようだった。



田嶋は湯気の消えかけたマグを片手に、

古びたキーボードをカタカタと叩き始めた。


検索欄に指が走る――

「白雲ゲレンデ」「積雪警報」「交通規制」……

ディスプレイの光が、夜更けの編集室に白く滲む。


彼の机の上には、取材途中の紙束が無造作に積まれている。

「観光客激減の白雲町」「閉鎖寸前のスキーリゾート」

太字で印刷された見出しが、蛍光灯の下で鈍く光る。


ページをめくる指が止まった。

どの資料にも同じ地名――白雲町。

そして、画面のトレンドにも――《#白雲ゲレンデ雪崩予告》。


田嶋の脳裏で、線が引かれるように二つの言葉がつながる。


「……観光地の衰退。そこに“雪崩予告”か。」


静かな独り言。

だが、その声には微かに高揚の響きがあった。


「これは……ストーリーになる。」


モニターの明滅が、まるで火種のように田嶋の目に映る。

吹雪の夜、眠る町の裏で――

ひとりの記者の“勘”が目を覚ました。


田嶋はマグを机に置き、

スクロールを続けていた新藤の背に声を投げた。


「確認しとけ。投稿元、地元の人間かもしれん。」


新藤は振り返らずに言う。


「……え、今からですか? 雪、やばいですよ。

 それに、これバズりネタっすよ。ニュースってほどでも――」


田嶋は椅子の背からコートをつかみ取った。

その仕草は、熟れた職人のように無駄がない。


「現場はいつだって“やばい”もんだ。」


立ち上がりざま、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。


「記事になるのは、そこだけだ。」


蛍光灯の白に照らされ、田嶋の横顔が一瞬だけ浮かぶ。

その目は眠気も理屈も通さない、

“匂い”に取り憑かれた動物の目だった。


外では風が唸る。

白雲町へ続く国道の方角に、吹雪が低く鳴っている。

田嶋は椅子を蹴るように立ち上がり、

机の上の散らかった資料を手早く仕分けた。


取材パスをジャケットの内ポケットに滑り込ませ、

胸ポケットには年季の入った記者手帳。

カメラバッグの中には、古い一眼レフ。

レンズのキャップには無数の傷。

何度も現場の雪に埋もれ、

また掘り出されてきた道具の証だ。


デスクの片隅では、去年の特集紙面が風に揺れる。

〈観光再生の兆しはあるか――白雲町のいま〉


そのすぐ隣のモニターには、青いトレンド欄が映っていた。

《#白雲ゲレンデ雪崩予告 トレンド4位》


田嶋は手袋を引き締めながら、

スクリーンに浮かぶ文字を見つめ、低くつぶやく。


「ニュースが追うんじゃない。

 ニュースが、現実を呼ぶんだ。」


外の風が一段と強く吹き、

窓の外で、雪が斜めに叩きつける。


蛍光灯の明滅が、田嶋の背を一瞬だけ照らした。

その影は、すでに“現場”へ向かって歩き出していた。


編集室の蛍光灯が、ひとつ、またひとつと落ちていった。

白い光が途切れるたびに、部屋の輪郭が闇に沈む。


残されたのは、モニターの青白い光だけ。

冷えたコーヒーの湯気が、そこに薄く漂い、

外の窓では、吹雪が絶え間なくガラスを叩いていた。


田嶋は厚手のコートの襟を立て、

記者手帳を胸に押し込み、

玄関のドアノブを握る。


――ギィ。


ドアを開けた瞬間、

吹雪の音が編集室に雪崩れ込んだ。

その一撃で、机上の紙束がふわりと舞い上がり、

モニターの青白い光が、それを一瞬だけ照らした。


田嶋の背中が雪の闇に溶けていく。


残された編集室では、

机の上のモニターが無人のまま点滅していた。

タイムラインが滝のように流れ続ける。


「【速報】白雲ゲレンデで異常な雪の動きとの情報」


投稿が重なり、スクロールが加速し、

その動きはまるで雪崩そのもののようだった。


――報道という名の“第2の雪崩”が、

静かに、音もなく動き出していた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ