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第5話

 紅月が次に目を覚ましたのは昼前だった。


「ふう……」


 あれは悪い夢だったのか、それとも未だ夢の中なのか。紅月はじっと己の手を見つめる。毛もなくて指は五本。どうやら人の身であるらしい。


「お支度を」


 紅月が起きた気配を察して、雪香が洗面盆を持って現れた。そして紅月が顔を洗い、口をすすぐのをじっと見ている。


 雪香が言いたいことは分かる。紅月は手早く身支度をして、部屋の長椅子に座った。


「雪香。今朝のことだけど……」


「はい……あの……大変失礼しました」


 雪香の頬が赤らんでいる。だが、部屋に入り込んできた猫の正体が主人だなんて思う人間はいないと思う。


「猫……好きなの?」


 紅月がそう聞くと、雪香の肩がピクリと動いた。


「は、はい。郷里でも飼っていまして……その……」


 そう言うと、雪香はぽろぽろと涙をこぼしたので、紅月はぎょっとした。いつもの憂鬱そうな陰った表情からは考えられない反応だ。


「夫が亡くなり子もおりませんでどうにもならず官女になったものの、猫は連れてこれず、知人に預けるしかなかったのです。元気にしているのか……」


「そうなの。辛かったわね」


 紅月も郷里を思い出して目頭が熱くなった。父は元気で居るだろうか。


「――で、なぜ紅月様は猫の姿に?」


「あっ! ……それなのだけれど」


 紅月は昨夜のことを雪香に話した。散歩の途中で火球を見たこと。それが天穹殿に向かっていたこと。近づくとそれは協力な呪であったこと。それを祓おうとしたこと。


「で、気がついたら猫の姿になっていたの」


「そんなことってありますか……ありましたわね」


 雪香は自分の手のひらを見ている。この手にあったくにゃりとした毛玉が人の姿に確かになったのだ。


「呪を祓った時、こうお腹に、体の中を呪が突き抜けていったような感じがあったわ。そのせいかもしれない」


「でも、元に戻ってよろしゅうございましたね」


「本当よぉ……」


 紅月はこんなことはもうこりごりだと椅子にもたれかかった。


 その時である。おずおずと下働きの少女が顔を出した。


「あのぉ」


「こら、こちらに来てはなりません」


 雪香が少女を叱った。


「でも……お客様が来てて」


 紅月と雪香は顔を顔を見合わせた。




 慌てて紅月が部屋に駆けつけると、そこにはしおしおの干し棗のようにしおれた燕禹がいて、その後ろにはあの糸目の宦官が立っていた。


「お待たせいたしました」


 紅月が声をかけると、燕禹はにやっと気味の悪い笑みを浮かべた。


「紅月様、こちらに見覚えはございますかな」


 燕禹は桶を差し出した。それは濡れて、泥にまみれてはいるが、紅月の服だった。


「このお色に刺繍、昨夜の宴に紅月様がお召しになられていたものではないかと存じますが」


「え……ええ」


 燕禹には宴の席で会った。とぼけても無駄だろう。紅月がそう答えると、燕禹はさらに顔をくちゃくちゃにした。


「これがどういう訳か、皇帝陛下のご寝所の、天穹殿の前の池に落ちていたのです。……紅月様、説明をしてくださいませ」


「あ……そうね。そう、それは……散歩に出ていて……それで……」


「夜に、でございますか?」


「そう。えっと……酔っていたの。風に当たりたくて……そしたら池に落ちてしまったのよ」


 燕禹がちらりと後ろを気にする。


「だ、そうでございますよ。内侍少監」


 へらへらとした笑みを浮かべ、燕禹がそう報告すると、糸目の宦官は首を傾げた。


「だとしたらこのお妃様は裸で後宮を闊歩したことになりますな」


 どういうことだ! と燕禹は紅月を睨み付けた。紅月の背中にじっとり汗が湧き出る。その時は猫になっておりました、などとはとても報告できない。どう誤魔化そうか、紅月が頭を押さえたくなった時だった。


「もちろん服を着ていたに決まってますわ」


 そう口を開いたのは雪香だった。


「私がお供をしていたので、着替えを持って戻ったのです。泥まみれの服をその場に置いていってしまったのは申し訳ございませんでした」


 きっぱりとよどみのない雪香の口調はどこにも嘘が無いようであった。


「……なるほど。そういうことならば。これからは報告は速やかにするように」


「はっ」


 糸目の宦官は納得をしたようだ。思わぬ力添えをしてくれた雪香に、紅月は心の内で感謝した。


「申し遅れました。私は王安と申します。皇帝陛下の身の回りのお世話をしております。玉体に何かあってはとのこと。失礼をお許しください」


「はい。もちろんです」


「では……あ、この宮では猫を飼っていますか?」


「いいえ」


 猫、という言葉にどきりとしながら紅月は微笑む。


「そうですか。ではまた」


 王安はつかつかと宮を出て行き、燕禹もそれに付き従っていった。


「はあああ……」


 紅月は気が抜けてその場に蹲った。


「本当にもう、こんなことはごめんだわ……」


 だが、紅月の災難はこれで終わりではなかったのである。



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