第47話
天穹殿へと向かうのは久方ぶりのことだった。紅月が寝室に入ると、凌雲はさっと立ち上がった。
「紅月、大事ないか」
「……はい」
凌雲はゆっくりと紅月に近づくと、その顔をそっと撫でる。
「ひとりの時間も必要と思って、呼ばなかったのだが……」
「はい。もう大丈夫です」
「……会いたかった」
凌雲は紅月を抱き締めた。それは思いのほか力強くて、紅月は驚く。
「本当ですか?」
「ああ。無事で良かった」
「玄牙が蠱毒から守ってくれました。こんなことおかしいとお思いになるかもしれませんけど、私は玄牙を友人だと思っております」
紅月がそう言うと、凌雲は目をぱちくりとさせたが、「そうか」と言って紅月の頭を撫でた。
「そなたがそう思うのならそうであろう。私は心が広いのだ。妃が猫に変わってもかまわんしな」
「確かにそうでございますね」
紅月は思わず微笑んだ。
「では、玄牙をここに呼べるか?」
「今でございますか?」
「他に何がある。我が妃を守ってくれたのだ。礼を言わねば」
「え……ええ」
紅月はしばし躊躇した。白瑛が死んでから、紅月は玄牙に会っていないのだ。玄牙のことが嫌いになった訳ではないが、その姿を見たらみっともなく取り乱してしまうのではないかと怖かったのだ。
「友には礼を尽くさねば」
紅月の不安な気持ちがなんとなく凌雲にも伝わったのだろう。凌雲は紅月の手を握りながら優しく言った。
「では……玄牙!」
紅月の呼び声に、窓から黒い突風が入り込む。それが長身の男の姿を形作った。
『ようやく俺を呼んだな』
黒い耳と尻尾と背まである長い髪が揺れる。髪の間から除く金の目が紅月を睨んだ。
「玄牙、陛下が玄牙にお礼をいいたいそうなの!」
紅月がそう言うと、玄牙がちらりと凌雲を見る。
「紅月、そこにいるのか」
「はい」
紅月が答えると、凌雲は頭を下げた。
「蠱毒の呪を倒したと聞いた。私の義母と紅月を守ってくれて……ありがとう」
「凌雲様! そんな」
皇帝が誰かに頭を下げることなどとんでもないことだ。紅月は慌てて凌雲の顔を上げさせる。
「いいのだ。人の世の者ではないんだろう?」
「そうですけど……」
「玄牙とやら。お前の好みは分からんが、また酒を用意した。持って行くがいい」
凌雲が卓の上に酒瓶を置くと、ようやく玄牙の顔色が変わった。近づいて封を切り、鼻を近づけて口をつけると一気に呷る。
「酒瓶が動いておるな。これは強い蒸留酒なのだがな」
凌雲の目にはそのように見えるらしい。ともあれ、何かが酒をがぶ飲みしていることは分かるようだ。
「凌雲様、玄牙は酒は好きですが、酒精は分からないみたいです」
「ふうむ……酒を飲んで酔わぬとは……酒のどこが良いのだろう」
凌雲は不思議そうに首を傾げている。紅月はそれが可愛らしく見えて、口元を隠しつつ微笑んだ。
『……まあまあだな』
「あら玄牙。残らず飲んでおいて」
『それより、なんで今まで俺を呼ばなかった』
玄牙は不機嫌そうだった。紅月は少し考えた後、あやかしの言葉で答えた。
『……怖かったの』
『俺がか』
玄牙は目をすがめた。紅月は首を横に振った。
『白瑛のことがずっと飲み込めなくて。自分が悪かったって思ってしまって』
『そんなのお前のせいではない。包丁を持って料理をするやつも人殺しをするやつもいる。それだけだ』
『玄牙は……そう言うと思ったから……呼べなかったの』
お前は悪くないと、正しいという言葉だけ耳にして、かわいそうな自分になりたくなかった。白瑛の恨みも無念も、紅月は簡単に忘れたくなかった。
『ややこしい人間だ』
『人間はややこしいのよ』
とはいえ、そっけない玄牙との会話はどこかほっとする。紅月は酒瓶を振って最後の一滴を舐め取っている玄牙を見ていた。
『俺がお前に会いたかったのは、伝えることがあるからだ』
『……え?』
急に切り出され、紅月はきょとんとした顔をした。
『呪縛が切れん』
『……どういうこと?』
『蠱師は死んだ。で、あれば俺との呪縛も切れるはず。そうすれば俺はそこの間抜け面の命を狩る命から完全に自由になる。だが……相変わらず俺はどこかに繋がれている』
『そんな……!』
紅月は愕然とした。紅月の表情が変わったのを見て、凌雲が声をかけてきた。
「紅月、どうしたのだ」
「凌雲様、この玄牙の蠱師の呪縛が外れないそうです」
「……どういう意味だ」
「玄牙を使役している蠱師が別にいるということになります。最初に凌雲様のお命を狙った蠱師と、この度皇太后様のお命を狙った蠱師は……別人ということになります」
なぜ、気づかなかったのだろうか。白瑛が蠱術を知ったのは紅月が蠱毒を祓ってから。白瑛は蠱毒が狙う対象を正確に定めることができなかったが、天穹殿に向かった蠱毒は初めから皇帝を狙っていた。
「後宮には……まだ、蠱師がおります」
そして今度こそ凌雲の命を狙う。紅月は全身の血の気が引いた。




