第42話
父と話をしたことで、紅月の胸のわだかまりは解けていた。紅月は紅月のあるがままに、凌雲を愛せばいい。後悔をするならその後。紅月の中にはもう覚悟が出来ていた。
「それはそれとして、やることはしなきゃね。白瑛、準備は出来た?」
「万端です、紅月様」
そう返事した白瑛の顔色はあまり良くなかった。元々色白だが、今日は髪のように白い。
「……具合が良くないの? こっちで待っていた方がいいんじゃない?」
「いえ、行きます」
紅月は白瑛を気遣ったが、白瑛はきっぱりと首を横に振った。
「紅月様、失礼ですが鏡をお借りしてもいいですか」
「え? ええ、構わないけど……」
紅月が鏡のところに向かい、白瑛にそれを進めると、白瑛は懐から紅を出して唇に差した。
「皇太后様に見苦しいところは見せられませんので」
ずいぶんと責任感の強いことだ。と紅月は思った。
「……ありがとうございます。私は紅月様にお仕えできて良かったです」
「大げさよ」
「ふふ、そうかもしれませんね」
急ぎましょう、と白瑛は手土産を持つ。紅月はまだ少し心配をしていたが、立ち上がり皇太后の宮殿へと向かった。
「よう来てくれたの」
「皇太后様、先日の祈祷会はありがとうございました。改めて御礼を申し上げたく」
紅月は膝を床に付き、深く頭を下げた。
「よい。こちらこそ、そなたには感謝をしている」
「いえ、もったいないことにございます。ただ……皇后様には嫌がられてしまいました」
紅月がそう言うと、皇太后はしかたのない子だと笑い、気にすることはないと紅月に伝えた。
それから紅月と皇太后は他愛のない話をしていたと思う。
「そなた、何やら顔つきが違ったの」
ふいに皇太后がそう言った。
「それは……私は急に貴妃となったので、どうするのがいいのか迷ってまして……」
「では気持ちが定まったのだな」
「……はい」
紅月は多くは語らなかったけれど、皇太后には何か伝わったようだった。
「あ! そうだお土産を渡しそびれておりました」
紅月が振り向くと、白瑛は頷き、土産の酒の甕を手にした。
「白瑛、こちらに持って来てちょうだい」
「はい」
白瑛が甕を持って近づいてくる。その様は少々ぎこちなく、紅月は白瑛の体調を案じた。
「五年ものの薬草酒でございます」
白瑛がそう言い――にこりと微笑んだ。それは極上の笑顔で、見る者の目を惹きつけた。紅を差した唇が開く。
「皇太后陛下には……苦しみ抜いて死んでいただきます」
白瑛はそう言うと、甕を床に叩き付ける。ガシャーンという大きな音に紅月たちは方をすくめ、白瑛が今、なんと言ったのか耳を疑った。
「え? 白瑛――何を」
そう、紅月が言い終わらぬうちに、黒い霧が甕のかけらより這い出し、蠢きながら形を作る。それは巨大な百足であった。あれには見覚えがある。後宮の東を襲おうとした蠱毒に似ている。
それが、白瑛を取り巻くようにして這い回っている。
「白瑛! どうしたの?」
あの真面目な白瑛が、見た目のせいで損ばかりしていた白瑛が、蠱毒を使ったというのか。紅月はいまだに自分の目の前で起こっていることが理解できないでいる。
「夏貴妃、一体何が起こっているのだ?」
皇太后の目にはこの禍々しいものが何も見えていないらしい。ただ、白瑛の異変に驚き、身をすくめている。
紅月は彼女を守るようにして、前に立ち塞がった。
「どいてください。紅月様、あなたは殺したくない」
「なぜ……なぜこんなことをするの?」
紅月が聞くと、白瑛は口の端をつり上げ、笑い出した。
「あはははは! その女を女を殺すために私は今まで生きてきたんだ!」
狂ったような笑い声が広間に響く。
(今まで? ずっと? 皇太后様の命を狙っていたというの?)
紅月は信じられないものを見る目で、白瑛を見つめた。




