第40話
紅月は、早速その夜、凌雲に新たな呪いの気配があることを伝えた。
「凌雲様、くれぐれも気をつけてください」
「またか……きりがないな」
凌雲がため息を吐く。
「蠱術はそう簡単に扱えるものではございません。違う者が呪いを行っているのかもしれません」
「わかった。警戒を怠らぬよう伝え、祈祷も絶やすなと申しつけておく。そして紅月は余計なことはするな」
凌雲は紅月の言いたいことを先回りして苦言を呈した。
そうは言われても、じっとしていられないのが性分である。その場でははい、と返事したものの、紅月は凌雲が寝てしまうと、さっと窓辺に立った。
『玄牙』
『よし、行くぞ』
するり、と音もなく窓が開き、大猫の姿の玄牙が現れる。玄牙は寝ている凌雲に近づき、ふっと息をかけた。
『これで朝までぐっすりだ』
「にゃあ」
紅月は玄牙の背によじ登った。そのまま玄牙は天穹殿から空に飛び上がる。
『いいのか。お前らはこの時間だけが夫婦の時間だろう』
『あやかしに心配されたくないわ。それより不届きものがまだうろちょろしている方が問題よ』
玄牙の動きが止まった。後宮を見下ろせる高さまで昇ったのだ。
『上から見ても分からんかもしれないぞ』
『いいの……何かしていたいのよ』
それから紅月はじっと目を皿のようにして下を見張っていた。
「くしゅん」
夜風が冷える。玄牙は寒さを感じないのか平然としているが。もぞもぞと玄牙の背中をかき分けて風を避けようとしていると、玄牙の長いしっぽが紅月を包み込んだ。
『ねえ、玄牙。私、いいお妃様にんれるかしら。ううん……そういうお妃になることがいいことなのかしら』
『なんだ藪から棒に。人の番のことなど俺には分からんぞ』
紅月は誰かに聞いて欲しかっただけだった。今の紅月の周りの誰に聞いても、皇帝を立て、他の妃とも友好的な良い妃であれと言うだろう。
『生き物なのだから番って子孫を残せ』
『そういう風に思えたらいいんだけど……何か思いきりがつかなくて。お父様に相談でもできたらいいんだけど』
ただ、手紙に書くとしても、誰かに中身を見られないかと躊躇してまう。
『なんだ父親がいるのか。では会いに行くか』
『な……何言っているのよ』
そう言いながら紅月は気がついた。恵照にいた時ならともかく、鴻臚寺は近くだ。
『後宮の外よ』
『何、猫が一匹出て行っただけだ。誰が咎める?』
玄牙は白い牙を剝き出しにしてにやりと笑った。
――とは言え、紅月は後宮の外の宮殿のつくりなど知らない。ましてや父がいる鴻臚寺の官舎など分かりようがない。そのことを玄牙に言うと「全く問題ない」と言って、後宮の門の外に降り立った。
『ちょっと! 門番がいるわよ』
紅月は茂みに逃げ込んだが、門番はすぐそこにいる。
『それに聞けばいい』
玄牙は門番に近づく。その姿は彼には見えていないため、じっと立ったままだ。玄牙はその門番をいきなり殴った。
「なんだ!?」
驚きの声を上げた門番の元に、他の警備が近寄ってくる。
(なにやってんのよ!)
紅月は悲鳴を上げそうになったが、いきなり全員の動きが止まった。
『紅月、来い。幻術をかけた。場所を聞いてもこいつらは何も覚えていない。聞け』
『えっと、人間になれってこと? 服がないのよ?』
紅月がそう答えると、玄牙は面倒くさそうな顔をして門番の上着を剥ぎ取って紅月に投げて寄越す。
『もう!』
紅月はその服の下に潜り込んで人の姿になった。
「あの~。鴻臚寺の官舎に行きたいんですが」
「はい……」
答える門番は焦点の合わない目で事細かに場所を教えてくれた。
『もうこんなのは沢山よ!』
紅月は文句を言いながらまた猫の姿に戻り、玄牙の背に揺られていた。念の為門番の服は持っている。
やがて、説明されたあたりに辿り着いた。問題はここから紅月の父がどこにいるかということなのだが……。
『こっちだ』
『え、分かるの?』
『お前に似た匂いがする。縁者だろう』
そうして滑り込んだ官舎の中の一角を二人が覗き込むと、ぼんやりと灯りの点った部屋で紅月の父、天明は書簡を読んでいた。
「にゃあん」
懐かしい父の顔を見た紅月は、たまらず部屋の中に駆け込んだ。
「おや、猫が。お前はどこの子だい」
父は紅月の姿を見ると、両手を広げ紅月を抱き上げた。
久々の父のぬくもり。紅月はその胸に顔を擦り付ける。
「なつっこい子だね」
大きな手が、紅月を優しく撫でてくれる。その隙に、玄牙は天明の後ろに回ると、その目を塞いだ。そして手を離した時には、天明はとろんとした目をしていた。
『これで、時が経てば今日のことはこの男には夢幻だと思うだろう』
『ありがとう……』
紅月は再び人の姿になり、天明に語りかける。
『お父様……』
『紅月……?』
天明の目が紅月の姿を捕らえると、彼の目には大粒の涙が浮かんだ。
『ああ……紅月……会いたかった……会いたかった!』
ぎゅっと紅月を抱き締め、嗚咽しながら彼は再会を喜んだ。
『これは夢なのだな』
『そうよ、お父様。これは夢よ。でも、私も会いたかった』
紅月も父の背中を強く抱き締め返した。




