第21話 黒ユリの初ステージ※
メンバー全員が会場入りし、最終打ち合わせが始まった。すでに頭に入っていることばかりなので今さら戸惑うことはない。
「バレンタインデーということで、途中のMCの時にこのチョコレートを客席に撒いてもらいます。難しいでしょうけど、なるべく遠くに投げるつもりで」
と、個包装された小さなチョコレートが山と盛られたカゴを見せられた。
たくさんあるように見えるけど、来場者の数分の一でしかない。全員に行き渡ることがないのは残念だ。
それに、どんなにがんばっても後ろの席まで届くことはない。前の方の一部の人が複数個手に入れる一方で、誰も手に入れられないエリアが必ず生まれる。
しかたないことなのだけど……運ゲーにさえなっていないのは心苦しい。
「それと今回の投票システムについても説明してもらいます。入場時に配るチラシにQRコードがあるので、お客さんにはそれをスマホで読み取ってサイトに飛んでもらうことになります。十一人の中から二人を選んで投票。QRコードの有効期限は明日まで。大事なことなので、MCではわかりやすく説明してください」
この辺は姐さんの役割だ。
予定では、MCの時にステージ後ろのモニターにパワーポイントの画面を映して説明することになっている。その時、姐さんにはスーツを着てもらう。衣装ではなく、私物のスーツでの登場だ。ちょっと前にSNSでバズっていたので、それに乗っかるわけだ。
社員モードでファンの前に出ることはほとんどないため、姐さんは少し緊張しているっぽい。しかし、そこはベテラン。しっかりやってくれるだろう。
一方、新人の方はどうか? ……どうやらまだ緊張が解けていない。
「黒川」
「…………」
「聞いているか、黒川」
「あっ! は、はいっ」
プロデューサーの声が聞こえていなかったらしく、何度か呼びなおされて黒川さんはようやく返事をした。
「黒川の出番は後半になる。出番は短いが、その分爆発力を期待している。最初から最後まで全力疾走できるように、みんながステージにいる間にエンジンをしっかり温めておくように」
「はいっ」
プロデューサーは簡単に言ってくれるが、それは簡単なことじゃない。
最初から最後まで出続けるなら、スロースタートでもいい。客席と一緒に温まっていけばいい。それもまた一体感だ。
だけど、途中から、しかも後半からの参加は話が違う。
すでに出来上がった熱気の中に飛び込んで行かなくてはいけないのだ。
熱量を読み間違えると、空気について行けずに暗く見えたり、逆にハイテンション過ぎて空回りしすぎたりする。
途中参加が複数人いれば“途中参加者の空気”というものを作ることもできる。しかし、一人でやる場合、それは簡単なことではない。ましてステージに初めて上がる新人だ。
まぁ一曲目からいきなりってわけにもいかないのはわかる。どこで出るのがベストかと考えば、やっぱり後半になるのはしかたない。
「まぁなんだ、黒川、気負わずにやってみろ。なにかあっても先輩たちがフォローしてくれるから」
またも簡単に言ってくれる。
何千人ものお客さんの前に気負わずに出られるなら、それはもう達人の域なのだ。私にだってできやしない。
でも、他に言いようがないのも事実。
私たちは仲間で、みんなで力を合わせてお客さんを楽しませなければいけない。
それでも、やっぱり深い部分ではひとりなのだ。
心の奥底にある不安や恐怖とは、自分だけで向き合って乗り越えなければいけない。
ステージが始まった。
流れは順調そのもの。会場の盛り上がりもいい。
単独ライブは私たちのファンしかいない。だから盛り上がるのは当然ではある。
だけど、単独ライブを開催し、そのチケットがソールドアウトするというのは当然のことではない。
世の中には数えきれないほどのアイドルがいる。アイドル以外にも楽しいことはたくさんある。
ましてや今日はバレンタイン。遊びに行く場所なんていくらでもあるはずだ。
その中から私たちを選んでくれた。
その意味をちゃんと理解し、パフォーマンスで返さなくてはいけない。
どれだけ客席が盛り上がっていても、十分すぎるということはない。
ああ、それにしても、ライブってどうしてこんなに楽しいんだろう。
音楽に合わせて踊り、歌い、客席がそれにノッてくれる。この瞬間、私は他のすべてを忘れてライブにだけ没頭することができる。
ここには“初瀬莉莉”という存在はなく、純粋に“初瀬リリ”だけがいるように感じられる。
私は今、追い求めた理想のアイドルになれているのではないか? そんな感覚に震え、陶酔しながら歌い続ける。
いろいろな仕事をしているが、やはりライブこそアイドルの主戦場。
もっとも楽しい場所だ。
楽しい時間は過ぎるのが早く、曲はどんどんと消化されていった。
衣装替えのタイミングになり、私たちは一度舞台袖に引っ込んだ。
姐さんは一人だけみんなより先に袖に戻り、スーツに着替えて入れ違いでステージに戻った。今はランキング投票についてパワポで説明している。
スタイリストさんたちが総出で私たちの着替えを行う。これがかなり大変なのだ。
汗っかきのメンバーは、次の衣装で透けないように、汗を吸って濡れた下着を交換する場合もある。
このスペースは男子禁制で、スタッフさんも含めてすべて女性だが、だとしても下着の湿り具合を他人にチェックされいきなり脱がされる光景はなかなか壮絶だ。
だが、そんなことが気にならないくらい慌ただしい。
衣装を着せてもらいながら、メイクさんがお化粧を直してくれる。合間を縫って、ジュースを口に含む。
普段はジュースなんて飲まない私だが、ライブの最中は別。速攻でエネルギーになってくれる砂糖たっぷりのジュースは、今だけは味方だ。
姐さんが戻ってくるのと入れ違いでステージに戻る。姐さんはこれから着替える。その時間を繋がなくてはいけない。
MCがずっと続いて曲をやらないな、とお客さんに思われてはいけない。この時間もちゃんと楽しんでもらわなければいけない。
だから、ここが黒川さんの出番だ。
「姐さんが戻って来るまでの間に、みなさんお待ちかねのあの子を呼んじゃいましょうか。どうしよっか、せーので名前呼んでみようか。せーのっ、黒ユリちゃーーーんっっ!!」
ここのMC担当のメンバーに合わせ、会場全体が黒川さんのあだ名を呼ぶ。
何千人もの……地響きのような迫力ある声量だ。
これだけ大勢に待ち望まれているということは、アイドル冥利に尽きる。だけど、今の黒川さんは?
ステージに出てくる直前の黒川さんの表情は印象的だった。
怯えている。
本当に自分がこのステージに上がっていいの? と言わんばかりに委縮しているのが見て取れた。
だが、それはほんの一瞬のこと。ライトに照らされたエリアに足を踏み入れた時には、笑顔になっていた。
そう、それでいい。
いつも笑っていて、アイドルって楽そうな仕事……世の中にはそんなことを言う人もいる。
でもそれは真実じゃない。
みんなに楽しんでもらうのが私たちの仕事で、そのために私たちはいつも楽しそうな“フリ”をしなければいけないのだ。
もちろん本当に楽しい時もある。
でも、私たちだって人間だ。ちっとも楽しくない時もある。
それでも、みんなが私たちに笑顔を求めてくれる場所では、何があっても笑顔でいなければいけない。
震えるほど怖くても笑顔を作れる……黒川さんもアイドルらしくなってきた。
「みなさん、はじめまして。“すべてを飲み込む黒きユリ”こと黒川ユリでーすっ! ここからあたしも参戦するから、さらに盛り上がっていきましょうっ!」
声も出ている。ちょと揺らいでいて不安定ではあるけれど、初ステージでこれだけボリュームが出るなら十分合格だ。
それから黒川さんを交えてトークを少しする。この辺は黒川さんの得意分野。
強気で、挑戦的な発言で会場を沸かせる。
そうするとだんだん自信が出てきたようで、朝からの緊張がここに来てようやく解けたらしくリラックスした表情を見せ始めた。客席の反応を受けてテンションが上がり、さらに口が回るようになる。とても楽しそうだ。
うまいことお客さんたちがイメージする“黒ユリ”を演じられている。
そう、あなたは“黒ユリ”。ステージの外でどれだけ震えていても、お客さんの前では“黒ユリ”であり続けなさい。
続いてチョコを投げるパートに移る。カゴから適当な量を掴み、客席に投げる。他のメンバーが投げていないところを探して、なるべくまんべんなく行き渡るようにしたいが……残念ながら私の肩では遠くまでは届かない。
意外な才能を発揮したのが黒川さんだった。妙に肩が強く、メンバーの誰よりも遠くまで投げた。おかげで、私たちでは届けられなかった人にもチョコを届けることができた。
チョコ投げの途中で姐さんが戻って来て、いよいよ黒川さんがガデフラの現メンバー勢ぞろいの曲披露となった。
なったのだが……。
一曲目は何事もなく無事に終わった。
黒川さんの初のダンスや歌を、お客さんたちは楽しんでくれた。
それが“黒ユリ”に期待した通りの完成度だったかは別として、お金をもらうのに恥じないだけの出来であったとは思う。
問題が起きたのは二曲目の途中だった。
間奏の間の振付で、少し複雑な動きをする部分がある。メンバーそれぞれが互い違いに交差しながら何度も位置替えをしていくのだが、そこで黒川さんが動きを間違えた。右に行くべきところを左に行ってしまい、後ろから私にぶつかってきた。
せめて前を塞ぐ形で動いていたのであれば、回避もできた。でも、後ろから来られたのではどうしようもない。
後ろから衝撃がきた瞬間、トラブル発生を理解した私は必死で対策を考えた。
体勢の立て直しはできない。確実に転ぶ。
どうする?
ライブはその名の通り生き物だ。
何が起こるかわからない。
トラブルは付き物。それこそシャレにならないトラブルを何度も経験してきた。音源がなくて、ずっとアカペラで歌い続けた時に比べれば、こんなのたいしたことない。
地面に倒れるよりずっと前に答えは出た。その瞬間、声が出ていた。
「きゃあっ♡」
あざとくかわいらしい悲鳴を上げた。
ウソっぽくて、わざとらしい悲鳴でいい。
その方が、これがガチのトラブルではないという印象をお客さんに与えられる。そして、トラブルが起きたことを、素早く他のメンバーに伝達できる。
――後は任せた。誰かなんとかこれを収めて。
私の意図はちゃんと伝わったようで、サクラが私に手を差し伸ばしてくれた。片膝を着き、お姫様の手を取る王子様のような仕草で優雅に私を起こしてくれる。
さすがっ。今はランキング最下位でも元三位、状況判断が的確で対処が速い!
黒川さんがぶつかったのが私で良かった。私にぶつかったのなら、不仲営業の一環として映ることだろう。
それにしてはやりすぎと思うお客さんもいるだろうけど、他のメンバーにぶつかっていた場合よりはずっとマシだ。
黒川さんの方も、別のメンバーが手を差し伸べ起こしていた。
しかも、それらの動作が音楽に乗っている。まるでここまで含めて、最初から予定されていた振付のようだ。
客席から拍手が起きる。
良かった、本当のトラブルと認識されなかったようだ。
乗り切った。
と、思ったのだが……。
立ち上がった黒川さんは、そこから崩れていった。
一度途切れてしまったリズムを立て直すことができず、結局最後までズレたダンスを続けてしまった。隣を見て修正しようとしているが、どうしても半拍遅れてしまう。
もがけばもがくほど泥沼から抜け出せなくなっていく。その苦悩は間違いなく客席にも伝わっているだろう。
だけど。
それでも最後まで笑顔を貫き通していた。




