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第8話 近衛陽子(42歳・未亡人)


ややあって。


「――分かりました。では、また後日お会いしましょう」


近衛はきっと表情を引き締めたまま、弾丸みたいに部屋を飛び出した。

この部屋に平穏無事が戻ってくる。


「いやあ」


近衛が部屋を去ると、クリスが舐めた感じで木箱から出てきた。

ギュウギュウに丸めてやったはずだったが、乾燥ワカメ並の復元率だな。


「まさかニコロ様が弟子をお取りになるとは。これは歴史が動きましたな」

「毎月150人の諭吉に囲まれりゃ、悪魔だって飛び込みたくなるものだ」

「お金ならもう腐るほど持ってるじゃないですか」

「……まあな」


俺は『アノン』名義で配信を中心に楽曲や楽譜をいくつも出版し、これまでに多額の報酬を得ている。ぶっちゃけ、一生を慎ましく生きていける分の貯金は余裕であるが、金は使ってナンボだ。いくらあったって困ることはない。


ちなみに俺が彼女――近衛に出した条件は主に三つ。


①アノンの正体について詮索しない。

②指導は月に2回。近衛の自宅で行う。

③イタリアから日本までの航空券代を負担する。


③はアノンのイタリア人設定に整合性を持たせるための条件だ。

実際は俺も日本に帰るわけで本来は必要のない経費だが、貰えるもんはなんでも貰っておく主義なので授業料に50万ばかり上乗せさせてもらった。


いやー、お金持ちっていいですねぇ。


「……って、そういえばクリス。俺と雪花(せつか)の転入先についての話はどうなってんの?」


雪花とは俺の双子の妹のことで、彼女もまた俺と同じくジュリアードに籍を置いていた。俺は別に日本の高校に通うつもりなんて無かったんだが、雪花に学歴社会の厳しさについてこんこんと説かれ、渋々ながら通う羽目になったのだ。


クリスは思い出したかのように手を叩く。


「ああ、その件でしたら――」


コンコン。


「「!!!」」


またしてもノック。

性懲りもなくあのバカ弟子が戻って来たのかと俺は再度クリスを木箱に詰めようとするが、こっちの都合もお構いなしにドアはすぐに開かれた。


「お疲れさま、雪弥くん……って、学長も一緒になって何やってるんですか?」


クリスの頭を押さえつけている場をバッチリと目撃され、フリーズする俺たちだったが――


「な、なんだ、陽子さんか……驚かせないでくださいよ……」


俺はすぐにクリスを解放し、居住まいを正した。


思わず目のやり場に困りそうな露出度の高い黒のドレスを着こなすこの美女は、ジュリアード音楽院の臨時講師を務める長谷川陽子(はせがわようこ)。見た目はどうみても20代後半くらいにしか思えないが、これでも42歳の未亡人である。

俺がちょうどアメリカに移住した頃にやってきた日本人の彼女は〝アノン〟の正体を知る数少ない一人だ。


「ごめんね、雪弥くんの偉業を少しでも早く祝いたくて来ちゃった」

「それでわざわざニューヨークから来てくれたんですか。俺、感動で涙がちょちょぎれそうです。ハグしていいっすか?」

「ふふっ、ダーメっ」


両手を広げ、口をタコにしてスタンバってる俺を軽くいなす陽子さん。お茶目な性格に似合わず身持ちが固い。でも、そういうところが素敵です。


「…………」


そんな様子を横でクリスが白い目で見ている。


「どうかされましたか、ワトソン学長?」

「……いえ、なんでもありませんよ」


気心知れた菩薩(ぼさつ)のように優しい俺が訊ねると、クリスはすぐに視線を逸らした。


陽子さんは俺がアノンだということは知っているが、ニコロ・パガニーニの生まれ変わりだとは伝えていない。従ってこの場での俺とクリスの関係は、あくまで学長と一生徒、という体裁が必要なのだ。


「……こほん。Ms.陽子、ちょうど彼に転入先の話をしていたところです。貴女の口から本人に説明して差し上げなさい」

「はい。ワトソン学長」


そうしてジュリアード学長とその講師としての体面を整えるクリスと陽子さん。

こういう切り替えの早さが、アメリカで出世するコツなのかも知らんな。よく覚えておこう。


「雪弥くん。貴方と雪花さんは、東京のご実家近くの『聖応(せいおう)学園』に、4月から転入できるように手続きを進めています。かねてからの希望通り、音楽コースの無い一般校ですが……ねえ、本当によかったの?」


日本語で付け加えた最後の一言は、ジュリアードの講師としてではなく、陽子さん個人の言葉だろう。


「いいんです。〝アノン〟は今日を以って引退しましたから。残りの人生はヴァイオリンだけに縛られず自由に生きてみようかと」

「ふふっ、まだ若いのに枯れたお爺さんみたいなことを言うのね」

「お、お爺さん……ですか……」


他ならぬ陽子さんに言われ、雷鳴のように実質アラウンド・セブンティの老人だという事実が浮かび上がった俺は、がっくりと肩を落とす。


ちなみに彼女との出会いは8年前、ちょうど俺が前世の記憶に目覚め、初めて日本の音楽コンクールに出場したときだ。陽子さんは審査員の一人として参席し、当然優勝した俺は直接彼女に声を掛けられ、そして当然のように一目惚れ。

これが日本人・桂木雪弥としての初恋だった。


「冗談よ、冗談♪ でも、本当にいいのね、()()()()で?」

「なんかやたらと念を押してきますけど、陽子さんが選んでくれたのならブタ箱でも喜んで行きますよ」

「ふふっ、じゃあ結衣のこともお願いするわね」

「……………………はい?」


とんでもないことをしれっと言う陽子さんに、俺の目が点になる。


「さっきまでここにいた結衣ちゃんだけど、実は私の娘なの♪」


いたずらがバレた子供のように、てへっと舌を出す陽子さん。とても魅力的な仕草ではあったけれど……。


「い、いや……だって陽子さんの苗字は長谷川じゃ……」

「それは旧姓よ。独身時代、ソリストとしてそれなりに名前が売れてたから芸名としてそのまま使ってるんだけど、本名は近衛陽子なの」

「…………うそーん」


ってことは、俺は初恋の人の娘を、生涯で初の弟子にしたってわけか……。


「ちなみにアノンくんこと、結衣には内緒にしてるからその辺は安心してね?」

「どの辺を安心しろって言うんですか……俺にはもう不安しかありませんよ……」


しかもさっきの陽子さんの言い方だと、近衛もその聖応とやらに通っていることになる。日本に帰って、あまつさえ地獄のような学校に通ってまで俺は一人二役を演じ続けなくてはならんのか。


いっそのこと近衛に正体を明かしたら――なんて考えが一瞬浮かんだが、師を引き受けたのはあくまで〝アノン〟である。あれだけ偉そうなことを抜かしておいて、すぐにバラすというのはあまりにもカッコ悪い。


「今からでも他の学園にするっていうのは無理っすか……?」

「うーん……今の雪弥くんの学力だと英語以外はきっと壊滅的だから、他の普通校はちょっと厳しいんじゃないかなぁ……」

「――――」


俺はその場に崩れ落ちる。


……なんてこった。

この歳まで勉強をサボってきたツケが、まさかここにきて回ってくるとは……。


「……ふむ。これが例のDOGEZAですか。なるほどなるほど」


クリスがすぐ横で、うなだれる俺をまじまじと観察している。


この野郎。後でもっかい木箱に詰め込んで、そのままアメリカに送り返してやる。カルロス・○ーン2世として歴史に名を刻めば、お前も本望だろうよ。


――と、クリス会長の密出国チャレンジについて検討していると、はたと気づく。


「そういえば、なんで聖応学園なら大丈夫なんですか?」


俺の学力が壊滅的なら、そもそも聖応だって転入は厳しいんじゃないのか、という疑問である。


「実は私、臨時講師の傍らで聖応学園の副理事長を務めてるの。だから学業も優秀な雪花さんはともかく、雪弥くんは裏口ってことになるわ。ちなみに聖応はそれなりの進学校だから、勉強も頑張らないとすぐ留年だから気をつけてね?」

「…………まじすか」


次々と明らかになる新事実と重責に、俺は泣き笑いの気持ちでいっぱいだった。

陽子さんのミステリアスな人物像を大事にして、過去や私生活についてあまり深掘りしてこなかった俺に非があるのは確かなんだが……。


まあともかくだ。言質は取った、外堀も埋めた。となれば、仕方あるまい。当面はアノンのまま近衛を指導するとして、桂木雪弥としての俺は、可能な限り距離を置くことで対応するか。どうせ過去、あれだけ憎まれ口を叩いた俺だ。見返してやると言っても、俺個人と積極的に関わり合いたいとは思ってないだろう。


こうして俺は、向後の不安に気を遠くしながら日本へ帰国することとなった。


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