第7話 二挺のヴァイオリン
――近衛結衣。
思い出した。
5年前のあの日、俺のナンパを邪魔した挙げ句に爺さんのヴァイオリンを辱めた世間知らずのクソガキだ。
俺は改めて目の前のヴァイオリンを検分する。
……やはり間違いない。コイツは今から半世紀以上前、俺の曾祖父である桂木勇二がヴァイオリン職人を志し、海を渡り、そしてイタリア・クレモーナの工房で製作した最初の一挺だった。
爺さんは生涯で100以上のヴァイオリンを製作したが、最高傑作として名が付けられたものが二挺ある。
始まりを意味する〝エゾルディオ〟
終わりを意味する〝イル・フィーネ〟
俺が今、アノンとして使用している〝イル・フィーネ〟は、爺さんがヴァイオリン職人としての人生で、最後に製作したものだ。
生涯最後のヴァイオリンを何故、レフティー用に製作した理由は教えてくれなかったが、名前の響きからして俺は運命的なものを感じ、今日まで愛用してきた。
〝エゾルディオ〟と〝イル・フィーネ〟
その二挺で左右一対の片割れが、どうして今、俺の目の前にあるのか。そしてあの時のクソガキがどうして自分の所有物のように扱っているのか。俺には全く理解できなかった。
あの爺さんがこの〝エゾルディオ〟を誰かに託したなんて話を俺は聞いちゃいないし、今さら本人に聞こうと思っても死人に口無し――もう4年前に亡くなっている。
そして俺は迷った。唯一の生き証人である近衛結衣。コイツに事情を訊こうにも、これは〝アノン〟ではなく〝桂木雪弥〟に深く関わる事案であり、なるべくその情報は与えたくないというのが本音であった。俺はこの女を信用していない。
俺は正体を明かさず、あくまで〝アノン〟として話を進めることにした。
「失礼ですが、このヴァイオリンを入手した経緯を話して戴けませんか?」
「はい。実はアノン様にも関係する話なので、ぜひ聞いてほしいと思います」
「私に関係する話、ですか……?」
って、おいおいおいおいおい! まさかあのジジイ、死出の旅に道連れを増やそうと俺を売ったんじゃねえだろうな!?
「少し長くなりますが、大丈夫ですか?」
「……どうぞ」
もはやこれまでと清水寺、俺は覚悟を決めた。
◇
あ、あんのクソジジイ……! とんでもねえ置き土産残して逝きやがった!
20分後、俺は全てを理解した。
「もしかしなくても気分を害されましたよね……? 本当は同い年のライバルを見返したいからという理由であなたの教えを請いたいだなんて……」
しかもライバルって俺かよ。
俺なんて今、お前からそのヴァイオリンを見せられるまで過去に会ってたなんて記憶の片隅にも残ってなかったぞ。そもそも好敵手ってのは実力が近い者同士が意識し合って使う言葉じゃなかったか? そりゃ一方通行だろ。
「……とりあえず、桂木勇二氏の差し金だということはよく分かりました」
「あのっ、失礼ですがアノン様と雪弥くんのおじ――……桂木さんとはどのようなご関係なのですか……?」
「私への詮索は無しです。不公平に思われるかもしれませんが、見ての通りこちらには事情があります」
「……っ!」
俺が指先で仮面を軽く叩きながら言うと、近衛は慌てたように口を噤んだ。
「ではもう一度確認します。彼はあなたにそのヴァイオリンを託したうえで、私――〝アノン〟に弟子入りするようにと言い残した。……それで間違いないですか?」
「……はい。桂木さんは具体的にアノン様の名は挙げませんでしたが『世を席巻するヴァイオリニストが必ず現れる』と断言しておられました」
なるほどな。爺さんはもう4年前に亡くなっている。だから〝アノン〟という存在については知らない。だが、俺がかつてニコロ・パガニーニであったこと、そして〝イル・カノーネ〟を取り返すために海を渡ったということは知っている。
察しの良いあの爺さんだ。俺が素性を隠してこうする事くらいはあらかじめ予期してたってことか。
唯一救いがあるとすれば、桂木雪弥として国内のコンクールに出ていた頃、駆け出しのガキを相手に本気出すのが馬鹿馬鹿しくて、俺はあえて不慣れな右用のヴァイオリンしか使わなかった。だから、近衛はアノン=桂木雪弥とは認識していないのだろう。その辺は爺さんが上手く誤魔化してくれてたらしい。
……さて、どうしようか。
爺さんの形見となってしまったこの〝エゾルディオ〟。
自分が認めたヴァイオリニストでなければ絶対に売らないと言っていたあの爺さんが彼女に託したということは、俺に対する遺言のつもりなんだろうか。彼女を弟子に取れ、と。
――この俺が弟子を持つ。
柄にもない。鼻で笑ってしまう。
前世でそのことを周りから散々言われてきた俺だが、結局誰一人としてまともな弟子を取ることをしなかった。そうして俺のヴァイオリニストとしての系譜は一代で絶たれてしまったわけだが、別にそのことで悔やんだことは一度もない。むしろ唯一無二の存在として歴史に名を刻んだと、誇りにさえ思っている。
そもそも弟子を取ったところで俺にメリットはなく、バカンスも尻尾を巻いて逃げ出すような無益な労働だ。しかも俺は〝イル・カノーネ〟を完全に我が物とするため、そしてジェノヴァの追跡から逃れるため、今日を最後に〝アノン〟としての活動を終わらせ、隠遁生活に入るつもりだった。
つまり、そんな俺が弟子を取ったとして、それで彼女の名が上がるとしよう。すると、同時に師匠である〝アノン〟までがいつまでも世間の目に晒され続けるということになり、それでは本末転倒だ。俺は死んでもコイツを手放すつもりはない。
「申し訳ないですが、やはり私の考えは変わりま――」
「授業料として、月100万円でいかがでしょうか?」
ぴくり。
「……今、なんと?」
「もし私を弟子にして頂けたら、謝礼として毎月100万円をお支払いいたします。また、アノン様が素性を隠したいということであれば、私はあなたの弟子とは一切公言しません」
「…………」
俺の確かな英語力によると、彼女はいま、ワンミリオンイェンと言った。
そういえばあの時、珈琲代として分厚い財布から諭吉をポンと出し、もしやとは思ったが資産家階級だったのか(こういう所はしっかり覚えている)。
そして最後、近衛から〝アノン〟の弟子を名乗らないという言質も得た。となると、ここで彼女の意向に従っても俺(桂木雪弥)に累の及ぶことはないわけだ。
ククク。なんだそうだったのか。王手飛車取り、この一手を逃すのはむしろ阿呆というものである。