第6話 【回想】近衛結衣 後編
……あれからどうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。
気が付いた時にはベッドの上で朝を迎えていた。そうして昨日の出来事は全て夢だったと思いたかった。
けれど――
『お前みたいな世間知らずのガキに、こんな物呼ばわりされる筋合いはねえんだよ!』
耳鳴りのように繰り返される彼の言葉が、頭の中にこびりついて離れようとしない。
あの時、彼は私の呟きを聞いて、店の中で一番良いヴァイオリンを私に弾かせてくれるつもりだったんだ。けれど私は値札と外見だけで判断して、あのヴァイオリンに対して真摯に向き合おうとはしなかった。
楽器は生き物だ。弾き手の楽器に対する信頼や情熱が無ければ一体感なんて得られるはずもないし、向こうから拒否されるのも当然だろう。
そして彼は見込み違いとも言った。
逆に言えば、彼は私にこのヴァイオリンの真価を見抜くことを期待していたということ。それなのに、私は……私は……。
「ヴァイオリニスト失格だ………!」
その日も、またその次の日も、私はただ布団の中で一晩中泣き明かしていた。
◆
カノンをこの手で弾きたくてヴァイオリンを手にした。
誰よりも良い音色を奏でたくて夢中で弓を振るった。
聴く人すべてに感動を与えられるような世界一のソリストを目指した。
――そんな願いも、結局は空虚な妄想だったのかもしれない。
妄想の先にあったのは、ただの現実。
桂木雪弥。
悪魔に魅入られたかのような超絶技巧と、神に愛されたかのような〝光〟の手を持つ同い年の少年。
常人がどれだけ努力しても、永遠に届くことの無い領域があることに気づいてしまった。そして本物のヴァイオリンを見抜けなかった自分への嫌悪感。
……私の心は完全に折れていた。
あの日から約3ヶ月、一度もヴァイオリンに触れていない。
気がつけば中学生になっていた。
コンコン。
扉をノックする音。
「結衣、いる?」
この声の主は私の母親であり、ヴァイオリンの師でもある近衛陽子。
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
「…………うん」
今日は週末の日曜日。以前の私なら一日中ヴァイオリンの練習をしてるところだけど、いまの私はただの引きこもり。
だから、扉一枚隔てた向こう側にいる家族の声が鬱陶しかった。
「じゃ、入るわよ」
ママはそう言って部屋へと足を踏み入れた。
私はベッドの上で毛布を被ったまま壁の方を向いていたから、ママの顔は見えない。
「……話って、なに?」
「ええ。今度のコンクールの件だけど――」
コンクール。その単語に怒りで目の前が赤くなる。
「だから私はもう二度と出ないって言ってるでしょ!」
私は毛布を深く被り直し声を荒げて言った。
もう私にはヴァイオリンを弾く資格も雪弥くんに合わせる顔も無いんだ。
コンクールなんて、もうどうだっていい。
「そうじゃなくて、雪弥くんが今度の全日本コンクールの出場を辞退したらしいのよ」
「…………えっ?」
私は一瞬耳を疑った。
今度のコンクールは4年に一度開催される国内で最も権威ある大会で、一流のソリストを目指す者であれば決して避けては通れない登竜門。
本来なら中学生部門とか世代別に細かく区分される中、雪弥くんは特例で一般枠で出場できるはずだったのに――
「変よねぇ? 予選も免除されてるはずの彼が突然辞退するなんて……」
「…………」
「もしかして彼の身になにか――」
「!!!」
ママのその言葉を聞いて、私は部屋の片隅に無造作に置いてあったヴァイオリンケースを乱暴に掴み、衝動的に部屋を出た。
「やっぱり彼が原因だったのね。ふふっ、若いっていいわねぇ……」
背後からなんか聞こえたけど、今はそんなことを気にしてる余裕なんて無い。私は家の前で待機していたリムジンに飛び乗り、行き先を告げる。
◇
車で約1時間。降り立った私の見上げた先には『クレモーナ』の看板がある。
「つい勢いのまま来ちゃったけど……」
どんな顔して彼に会えばいいんだろう……? まずは謝罪……?
「…………ううん」
私はかぶりを振った。
そんなことを考えるよりも、彼の安否を確認する方が先だ。
意を決して店の扉を開けようとするも――
「あ、開かない……っ!」
よく見たらCLOSEの札が立て掛けてあった。そういえば前回もそうだったような気がする。
「ど、どうしよう……鍵も掛かってるってことは、誰もいないんじゃ――」
「そこのお嬢ちゃん」
「!!!」
おろおろと店の前で右往左往していると、不意に背後から声を掛けられる。驚いて振り返るとそこには杖をつき、立派な白髭を蓄えたおじいさんがいた。
「ワシの店に用か? 見ての通り今は休業中なんじゃが……」
「あ、あのっ! もしかして、あなたは桂木雪弥くんの……」
「なんじゃ、雪坊の知り合いか。それなら話は中で聞こうかの」
「えっ、あっ……」
私が戸惑っていると、おじいさんは店の鍵を開けどんどん中に入っていくので慌てて後に続いた。
3ヶ月ぶりに訪れた店内には、あの日と変わらない姿のままでヴァイオリン達が立ち並んでいた。
「お嬢ちゃんは珈琲か紅茶、どっちがお好みか?」
「……では、珈琲をお願いします」
確信した。やっぱりこの人、雪弥くんのおじいさんに間違いない。
私は上着を脱ぎ、前に来た時と同じカウンター席に腰かけた。やがてキッチンの方から珈琲豆を煎る芳ばしい香りがこっちまで漂ってくる。
「待たせたの」
そう言っておじいさんは私の前にカップを置くと、正面の椅子にゆっくりと腰掛けた。
「久しぶりに淹れたから少々苦みが強いかもしれん。砂糖とミルクは――」
「いえ、ブラックで大丈夫です」
私はまず香気だけを嗅いで、それからゆっくりとカップを傾け一口だけ啜った。
「……美味しい」
思わず零れた率直な感想。
上品な苦みの中に微かな甘みと深いコクが口いっぱいに広がる。
私はママに連れられて色々な一流ホテルや有名店を回ってきたけど、正直、ここまで美味しい珈琲を飲んだ記憶は存在しない。
「……ふむ。お嬢ちゃんはなかなかにいける口じゃな」
おじいさんは少し驚いた様子を見せた後、しわしわの顔を綻ばせて微笑んだ。
「そういえば名乗るのを忘れておったな。ワシはこの店のマスター、桂木勇二じゃ」
「あ、こちらこそ自己紹介が遅れました。私は近衛結衣といいます」
私は席を立ち、慇懃に頭を下げた。
「若いのに礼儀正しい子よのぅ。……雪坊とはえらい違いじゃ」
「あ、あのっ、雪坊って、もしかして……」
「うむ、雪弥のことじゃ。そういえば結衣ちゃんは雪弥を訪ねてきたのであったな」
「は、はい……」
「残念じゃが雪弥はもうここにはおらん。孫夫婦と一緒に引っ越してしもうたわい」
「そ、そうだったんですか……」
事故に遭って腕が不自由になったとか、そういう事情でコンクールを辞退したわけじゃなかったみたい。私はひとまず安堵した。
でもよく考えたら、別に引っ越したからって今回のコンクールを辞退する理由にはならない。ということは……
ある程度予測をつけながら、私は引っ越し先について尋ねた。
「すまぬが本人から固く口止めされておってな……ワシの口からは遠い場所としか言えん……」
「……いえ、それだけで十分です」
海外。アメリカ、あるいはヨーロッパに活動の拠点を移したのだろう。彼が羽ばたくには日本は狭すぎると思っていた。けれど――
一言、ちゃんと謝っておけばよかったな……。
今さらになって私の心に深い後悔の念が押し寄せてくる。
遅かれ早かれ遠い場所へ行ってしまう人だってことは分かっていたはずなのに。
「……ふむ。どうやら訳ありのようじゃの。老い先短い身で良ければ、話だけでもしてみぬか?」
雪弥くんのおじいさんは、まるでこちらの心を見透かしたように、そんな言葉を掛けてくれる。
「実は――」
私の口は自然と動き出していた。
結局、私は誰かに聞いて貰いたかったのかもしれない。
この三ヶ月、ママを含め家族の誰にも話したことのない自分の罪と悩みを。
◇
「あ、あやつめ……! 前途ある若人に何たる仕打ちじゃ!」
約30分後、全てを話し終えた私の目の前には、白髪を逆立てて激昂するご老体の姿があった。
「ち、違うんですっ! 悪いのは全部私で――」
「いや、雪弥が全部悪い! 生意気にも人を試すような意地の悪いことをしおってからに……!」
「ちょ、お、落ち着いてください……!」
私は必死になって雪弥くんのフォローに努めるのだけれど、それがかえって火の油を注ぐ結果となり、おじいさんの顔つきはどんどん険しくなっていく。
「今からニューヨークに行ってあの馬鹿曾孫をどやしつけてやるわ! 首を洗って待っておれよッ……!」
「お、おじいさん……」
引っ越し先がだだ漏れです……。
さらに30分後。
「はぁ……はぁ……」
「お、落ち着きましたか……?」
「う、うむ……年甲斐もなく取り乱してしもうたわい……」
肩で息をしながら椅子に座り直すおじいさん。
なんとかパスポートセンターに駆け込む前に引き留められてよかった……。
「それにしても度し難い曾孫じゃ。70近くにもなってまだ悪ガキのままとは――」
「……えっ?」
なんかいま、聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がするんだけど……。
というか、雪弥くんって私と同じ12歳だよね?
私はなんとなく今の発言について深く訊いてはいけないような気がして、その言葉をぐっと飲み込んだ。
「ごほん。では話を戻そうかの」
「は、はい」
私は改めて居住まいを正す。
「結衣ちゃんはこのままヴァイオリンを捨ててしまうのか?」
「…………」
『結衣、1日弾かないと、周りから3日分遅れるのよ』
ママの言った懐かしい脅し文句が、脳裏によぎった。
私はこの3ヶ月、一度もヴァイオリンを弾いていない。
1日が3日になり、2日が6日になる。
あれから3ヶ月が経って――私は今、どこにいるのか。
「雪弥を見返してやりたいと思わんのか?」
「…………っ」
もうヴァイオリンを弾きたくないという気持ちと、彼を見返してやりたいという気持ち。
その両方が、私の中で相反する二つの感情として同居している。
誰よりも良い音を奏でたい。
一人の演奏家として、私の胸には常にその想いがあった。
「私に、出来るでしょうか……?」
「……ワシに秘策がある」
おじいさんは、にやりと不敵に笑った。




