第5話 【回想】近衛結衣 前編
「ど、どど、どうしよう……!」
雪弥くんがいなくなった瞬間、私は頭を抱えてカウンターに突っ伏した。
最初はお話でもしてちょっとは仲良くなれたらなぁ、なんて軽い気持ちだった。
大人たちの誰しもが口を揃えて100年に1人の〝神童〟と呼び、そして私自身この世界で最も憧れるヴァイオリニストである桂木雪弥。
確かにコンクールでは過去何度も顔を合わせてるし、実際彼も私の演奏を聴いている。けれど、まさかこんな形で本人の目の前で独奏を披露する羽目になるなんて――
「……!」
顔を上げ、はたと気づく。
これは雪弥くんに私を認めて貰うチャンスなのかもしれない、と。
顔も名前も覚えられてないような私だけど、せめて一度くらいは彼の心に響くような演奏をこの手で奏でてみたい。『お前』ではなく、ちゃんと名前で呼んでもらいたい。
「……よしっ!」
拳を固め、私は覚悟を決めた。
本当ならいつも愛用している〝シュタイナー〟を使いたかったのだけれど、あいにくと今日の私は手ぶらで来てしまった。私は1挺ずつ壁に掛けられたヴァイオリンを手に取り、指先で弦を軽く弾きながら音の響きを念入りに吟味する。
おそらく試験はもう始まっている。私がこの中からどのヴァイオリンを選択するのか、彼は試しているのだろう。
そうして私が選んだのは――
「なるほど、〝アマティ〟か」
彼が戻ってきた。その手には弓と松脂が握られている。
『Nicolaus 〝Amatus〟 Cremone Hieronymi filii fecit. An 1654』
16~17世紀のオールド・イタリアンの代表作。
「……これ、本物だよね?」
「そんなことよりもさっさと聴かせろ」
雪弥くんは相変わらずぶっきらぼうに応えて、弓と松脂をカウンターの前に置く。
彼は結局答えなかったけど、これはレプリカなどではなく、おそらく本物。何故ならこのヴァイオリンだけ値札が付いていなかった。本来なら一挺数千万円の値がつく名器。
そんな名器を非売品として飾っておくくらいだから、彼はいったいどんなすごいヴァイオリンを愛用しているか気になったのだけれど、今はそんなことを考えている暇はない。私は弓毛に松脂を塗り、〝アマティ〟の調弦を始めた。
「必要ならチューナーも用意するが?」
「……馬鹿にしないでよね」
私は自分の耳を頼りに弓を動かしながらペグとアジャスターを回して、基準となる442ヘルツに合わせる。
「ふう…………」
そうして全ての準備が整い、瞳を閉じ深呼吸をひとつ。気持ちを落ち着かせると、私はゆっくりと弓を構え、そして奏でる。
『Pachelbel - Canon in d』
パッヘルベルのカノン。私が一番得意とする曲。
初級者向けの簡単な曲ではあるけれど、だからこそ余計に、弾き手の腕が素直に音に表れる。
この曲の美しい音色に憧れて、私は5歳の時にヴァイオリンを始めた。
それなりに上達した今でも、毎日欠かさず数時間――いや、手が疲れるまで、夜が明けるまで弾くことも珍しくない。
だからこの曲に関しては、同い年の子であれば他の誰よりも練習してきただろうし、絶対に負けない自信がある。
それにしても……。
弾いている私ですら感動するレベルの〝アマティ〟のフィッティング。
おそらく高度な技術を持った職人が、弦の選択から駒や魂柱の位置の調整など、長い時間を掛けて完璧に仕上げたのだろう。この名器に助けられてる部分もあるかもしれないけれど、今の私は間違いなく過去最高の演奏が出来ている。
私は渾身のメロディを紡ぎながら片目でちらりと彼を見た。
「…………」
頬杖をつきながらではあるけれど、目を閉じ真剣な表情で耳を傾けている彼のその横顔に、私は思わず見惚れてしまいそうになる。
(ダメダメ……今は自分の演奏に集中しなきゃ……!)
一層強く瞼を閉じる。
今日の私は今までで最高の音色を響かせなければならないんだ。
◇
「…………ふう」
最後まで弾ききった私はゆっくりと弓を下ろし、小さく息を吐く。
ほんの4、5分の演奏だったけれど、私にとっては今までの人生で一番長く感じられる時間だった。
「どう……かな……?」
会心の演奏だったという自覚はあるけれど、それでもやっぱり訊かないではいられなくて、私は雪弥くんに問いかける。まあいつものようにダメだしされるんだろうなぁとは思いつつも。
「……悪くない」
すると私の予想に反して、彼はあっさりそう答えた。
「ほ、本当!?」
「ああ、今の演奏は悪くなかったぞ」
「ほんとにほんと!?」
「……お前もしつこいな。あくまでも悪くはないっていうだけだ」
――悪くはない。
私はその言葉にすっかり舞い上がってしまう。
それは彼にとって最大級の賛辞であることが容易に理解できたから。
今まで表彰式で散々彼にダメ出しされ続けてきた私だけど、ようやく彼に存在を認められたような気がする。
「そっかぁ……そんなに私の演奏が良かったんだぁ……」
「良かったなんて一言も言ってないだろ。及第点だ及第点――って、何にやけヅラしてんだ、調子のんなコラ」
「ははっ」
悪態を吐きながらもなんだかんだで褒めてくれてることが嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。
そんな私に呆れたのか、彼は大きなため息を吐いた後に言った。
「今の評価がまぐれではないと証明するためにも、もう一曲ぐらい聴いてやろうじゃないか」
「えっ!? 今度は雪弥くんの番だよね!?」
「……雪弥くん?」
「あ、いや、その……な、馴れ馴れしかったかな……?」
「……好きにしろって言ったのは俺だしな。まあ自由に呼んでくれ」
「う、うんっ!」
やった! お墨付きを貰った。これでお友達に一歩前進かな?
私はさらにだらしない表情を浮かべていると、彼は席を立った。
「うん? どこに行くの?」
「どこって、今度は俺の番なんだろ? ちょいと部屋戻って自分のヤツ取ってくるわ」
それを聞いてやっぱり彼の本命は〝アマティ〟じゃないんだと改めて理解した。
というか、そもそもこの〝アマティ〟だってストラドにも劣らない名器なはずだから、これ以上のヴァイオリンってなると私にはちょっと想像がつかない。
「この子より良いヴァイオリンなんて本当にあるのかなぁ……」
「…………」
手元にある〝アマティ〟を眺めながら思わず口をついて出た本音。それを聞かれてしまったのか、彼は足を止めて振り返る。
私は何か雪弥くんの機嫌を損ねることを言ってしまったのかと慌てて口をつぐむ。
しかし彼は私の横を無言で素通りしたかと思えば、店内の目立たない位置に掛けられてあったヴァイオリンを手に取ると、そのまま私の目の前にそれを置いた。
「コイツでさっきの曲をもう一度弾いてみろ」
「えっ……?」
「二度は言わんぞ」
「で、でも……これって……」
さっき店内のヴァイオリンを一通り吟味したばかりだからよく覚えている。印象でいえば、〝アマティ〟と同じくらいに強烈だった。何故なら、このヴァイオリンだけ妙に造りが荒く、値札に書かれた価格も5万円と桁違いに安い。
一流の楽器ばかりが並ぶなかで、このヴァイオリンだけが明らかに浮いていた。
「見ての通り、コイツはこの店で一番安いヴァイオリンだ。これを〝アマティ〟と同じように弾いてみろ」
「そ、そんなの絶対無理だよ!」
「無理かどうかは弾いてみないと分からないだろう?」
確かにその通りかもしれないけど……。
私は恐る恐る差し出されたそれを手に取り調弦する。
何故かは分からないけど、私は一番良い楽器から一番悪い楽器を弾かされる羽目になってしまった。
「……ふぅ」
深呼吸をしながら〝アマティ〟と同じ感覚で構えるがやはり違和感を覚えてしまう。
それでも、先ほどの最高の演奏を思い出しながらゆっくりと弓を引いた。
「――っ!」
私は序盤から早々に音程を外してしまう。それを修正しようとフォームや運弓に意識を持っていくとさらに乱れていくという悪循環。
〝アマティ〟を弾いていた時に感じられた一体感が、まるで私を拒否しているかのように、この楽器からはまったく伝わってこない。
ああ、やはりこのヴァイオリンは駄目なやつなんだと、心の中で言い訳をしながら惰性のまま弾いていると――
「……もういい」
私の演奏を断ち切った彼のその声は、落胆だけではなく、どこか怒りを含んでいるようにも聞こえた。
そして私の手からヴァイオリンと弓を取り上げる。
「俺の見込み違いだった。もうお前に用は無い、帰れ」
「えっ……」
突然の宣告に私は呆然としてしまう。
さっきまでの〝帰れ〟とは明らかに異なる、あまりにも冷たい声音。そして明確な拒絶の意志。
確かにいまの私の演奏は酷かった。けれど――
「誰だってこんな安物のヴァイオリンで上手く弾けるわけないじゃない……」
私は思わずそう反論の言葉を口にしていた。
「………………」
すると彼は、どこまでも冷めた表情で私を一瞥した後、取り上げたヴァイオリンと弓を構えると、流れるような動作で弾き始める。
――パッヘルベルのカノンを。
「………………っ!」
その瞬間、私は声にならない声を上げ、全身から湧き上がる震えを抑えることができなかった。
弦を押さえる彼の指先に、まばゆいばかりの〝光〟が宿っていたから。
そして私が安物と見下したその楽器が――
彼が一つ指を動かせば、弦の上を滑る弓が絹の様な滑らかな音色を生み出す。
彼が一つ腕を動かせば、私の演奏からは想像のできないような威厳のある力強い低音から、高貴で張りのある美しい高音を生み出す。
――まるで彼の放つ光に共鳴するようにして、ヴァイオリンが歌を歌っていた。
彼の演奏はコンクール会場で何度も聴いたことがある。
一流のプロヴァイオリニストを寄せ付けない、圧倒的な超絶技巧。
けれど、表現力……いや、『カノン』なら――いずれは彼に勝てるかもしれないと、心のどこかでそう思っていた。
そんな自惚れは一瞬にして打ち砕かれる。
努力したら追いつけるとか、そういう次元じゃない。
どうやったら、こんな歌声のような旋律を紡げるのか。
どうやったら、ひとつの音色にこれほどまでの深い感情を込められるのか。
私も同じヴァイオリンを弾いていたはずなのに……。
◇
「…………」
やがて4分の曲が終わりを迎え静寂の中、雪弥くんはゆっくりと顔を上げた。
呼吸すら忘れるほどに聴き入っていた私は、彼にどんな言葉を掛けたらいいか分からず固まってしまう。
彼はヴァイオリンの弦を半音だけ緩めると、慎重な手つきでそれを元の位置へと立て掛ける。
「…………」
そして彼は私に背を向けたまま、そのヴァイオリンを無言で見つめていた。
「ゆ、雪弥……くん……?」
彼のただならぬ雰囲気にようやく絞り出した私の声は、ひどく震えていた。
「……このヴァイオリンは今から約60年前、とある男が初めて製作したものだ。お前の目には粗悪品に見えたのかもしれんが、コイツにはヴァイオリン職人としてこの世界を生きていく一歩目の覚悟と魂が込められている。それを――」
彼はそこで言葉を切り、そして振り返る。
「それをお前みたいな世間知らずのガキに、こんな物呼ばわりされる筋合いはねえんだよ!」