第4話 【回想】桂木雪弥 後編
「で、どうだ? 俺が淹れた珈琲の味は」
「…………うっ」
急遽『クレモーナ』の臨時マスターに就任した俺は渾身の一杯を提供したつもりだったのだが、ほのかな湯気の向こうに見える少女の顔は明らかに引き攣っている。
「……チッ。やっぱ爺さんみたいにはいかないか」
爺さんとは俺の曾祖父、桂木勇二のことで、この店のオーナー兼マスターだ。
残念ながら当人は半年前から体調を崩していて、ここ最近はずっと休業中である。
「……それで?」
「えっ?」
「俺と話がしたかったんだろ? 早速だが小粋なトークを進めてくれ」
少女が座るカウンターの対面に腰を下ろした俺は、頬杖をつきながら言った。
この俺が貴重なスケジュールを割いてまで付き合ってやってるのだ。相応の対価があってしかるべきである。
「い、いきなりそんなこと言われても……」
「おい……お前はまさか本当に無計画で俺を引き留めたのか……?」
「…………(こくん)」
少女は小さく首肯する。やはり何かを期待した俺が馬鹿だった。
「無精卵を温めるがごとき有意義な時間をどうもありがとう。お帰りはあちらです」
「ちょ……待って! い、いまちゃんと考えるから……」
「いいから500円置いてとっとと帰れよ」
「お金取るの!? こんなマズい珈琲に!?」
「当たり前だろ」
ただでさえこっちは月々3千円の小遣いでやりくりしてんだ。ギラついた若者のあれやこれやを満足させるには金がいるんだよ。
「うぅ……」
「な、なんだよ。いま金が無いならツケ――」
待てよ。ツケ払いにするってことはまたやって来るってことだよな?
「やっぱタダでいいわ。帰ってくれ」
そう冷たく言い放つと、少女は小学生にはおよそ不釣り合いな高級ブランドっぽい長財布からお年玉以外では滅多にお目にかかれない1万円札を取り出し、バンっ! とカウンターの上にそれを叩きつけた。
「もうっ! これで良いんでしょ!」
「お、おう……持ってるなら持ってるって最初からそういいたまえよ……」
俺は万券を受け取ろうとした瞬間、はたと気づく。
しまった。休業中でレジの中身は空っぽだった。つまり、釣りが出せないのだ。
ちなみに俺の今の手持ちは約2千円弱……全然足りない。
「……千円札とか、もっと細かい金はないのか?」
「あるけど……」
あるんかい。
それなのにわざわざ万券出すってことはただの嫌がらせかこのクソガキ。
いい加減ブチギレそうになるが、そこは元・大人として堪えざるをえなかった。
「……今500円用意するから千円札に代えてくれ」
「そうじゃなくて、このお金であと19杯注文するのっ!」
「……は?」
「だから全部飲み終わるまではここにいても問題ないでしょ!」
「いや……お前さっき不味い珈琲って……」
「なんか言った!?」
「いや、なんでもない……」
子供らしからぬ剣幕に圧されてビビった俺は渋々折れることに。
……とはいえ。
◇
「なあ、いい加減無理しないでさっさと帰れって。今なら半額にまけてやるからさ……」
「む、無理なんてしてないからっ……!」
あれから約1時間。既に少女の顔色は相当に悪くなっている。
互いにまともな会話の糸口も掴めぬまま、少女は8杯目の珈琲に口をつける。
「うぷっ……」
その光景がかつてヤブ医者に飲まされた水銀を彷彿とさせられ、金にがめつい俺が自ら割引を申し出る始末だ。
しかし少女は全く聞き入れる様子はなく、死人のような青ざめた顔でカップを傾け続けるのだから難儀である。
「ね、ねえ……ちょっとお手洗いに行きたいんだけど……」
「奥行って右だ……」
「……ありがと。すぐに戻るから」
そろそろ限界か。
俺は少女が席を立った隙を見計らってカウンター上のカップとドリップポットを片付ける。そしてキンキンに冷えた氷水をコップに注ぎ、それを代わりに置いた。
……まったく。俺はこんなにもナイチンゲール精神に溢れているというのに、あのヤブどもときたら。
え? 冷たい水はお腹に良くないって? 俺は平気なんだから大丈夫だろ。
それから約10分後、トイレで何かしらのアウトプットをしてきたであろう淑女が戻ってきた。
「よう、スッキリしてきたか?」
「~~~ッ!」
俺のセクハラ紛いの一言に、少女は耳まで真っ赤にしてプルプルと震える。
子供とはいえ、さすがに羞恥心はあるらしい。
「あれ……? 私のカップが無くなってる……」
「悪いがドクターストップだ。色々と制御出来ているうちにやめておけ」
「でも私はまだ……」
「分かった分かった、もう帰れとは言わん。だがせめて会話を広げる努力はしてくれ」
「う、うん……じゃあ、お互いの学校生活とか……」
ふーん。学校生活、ねえ……。
過去、しかるべき時期にしかるべき教育を受けてこなかった俺からすれば、遠い異国のような環境である。ゆえに学校生活というテーマにおいて、俺と少女の価値観の差は埋めようがなく、話が噛み合うはずもないことは容易に想像できた。
「すまんが別の話題にしてくれ」
「えっ? どうして?」
「俺のように将来の目的が定まっている人間には、学校などもはや監獄でしかない」
義務教育はバカを減らすには有効な手段だと思うし、将来の選択肢を広げるという点においても一定の合理性はある。だが、音楽に限らず芸術家を目指す人間にとって必要不可欠な感性を磨く場所として、学校が適しているとは言い難い。何より教師という出鱈目な定規が生み出す『比較』によって個性を失うことを恐れる。だからこそ俺は特定の師を持たず、独学にこだわって自分を磨いてきた。
しかし少女は俺の『監獄』という表現に納得がいかなかったようで、たいそう不満げな表情を浮かべる。
「……そんな言い方ってないんじゃないかな」
「なら逆に訊くが、お前にとっての学校とは何だ? 何を目的に通っている」
「えっと……勉強したり、お友達と話したり……」
「ほほう。それは学校に通わなくては出来ないことなのか?」
「そんなことはないけど……」
「お前もコンクールに出てくるってことはプロのヴァイオリニストを目指してるんだろ? せぇのでゴールするゆとり運動会を楽しんでる場合なのか?」
「…………」
少女は押し黙った。
お金持ちで、クラスメイトにも恵まれて。きっと彼女にとっての世界は揺り籠の中で優しく包まれているのだろう。
別に皮肉を言っているのではない。俺が理解しようとしないだけだ。
「俺と話しても面白くないってことはもう十分解ったろ? このまま不毛な会話を続けるより、少しは俺を唸らせる演奏を聴かせてみろよ。お前も一端のヴァイオリニストならな」
「えっ……?」
「店に並んでるヴァイオリンの中からどれでも好きなヤツを選べ。俺は松脂と弓を用意してくる」
「ちょ、ちょっと待っ――」
長ったらしい言葉よりも分かりやすい旋律がある。
俺は少女の制止を無視して席を立った。