第2話 日本語、分かりますよね?
「アノン様が……日本人……?」
よりにもよって最も知られてはいけない類の人間に、アノン=日本人かもしれないということを匂わせてしまった。くそっ、どこで誰が野たれ死のうが、俺に迷惑さえかけない限りどうぞご自由にがモットーだというのに、あんな一言で心を乱されるなんて。
……いや、落ち着け。今の俺は水銀やアヘンで脳はやられていない、バイタリティあふれる若者だ。きっとまだ何か手があるはず。
「アノン様……日本語、分かりますよね……?」
「…………」
しかしこのまま無言で立ち去りでもすれば、この女はまず確実に俺を日本人と断定するだろう。そしてそれを世間に向けて吹聴して回ることがあれば、俺は中東あたりに身を潜め、鉢植えとして一生を終えるハメにもなりかねん。
俺は悩んだ末、口を開くことにした。
「……Sono italiano(私はイタリア人です)」
「!!!」
日本人と断定されるくらいなら、イタリア人に思われた方がまだマシという寸法である。
俺は振り返ることなくイタリア語でそう答えた。
「アノン様はイタリアの方だったのですね……」
「……ええ」
「では、先ほど私の言ったことは……」
「聞いていました。しかし申し訳ないですが、私は弟子を取らない主義なのです」
弟子は取らない主義。必ずしも嘘ではない。
「えーと、『discepolo』は弟子で『Non ho』は否定的な意味だから……それってつまり……弟子は取らないってことじゃ……(日本語)」
単語の意味は理解出来ているようで一安心。
ここで「それってどういう意味ですか?」なんて、日本語で返されたらイタリア語で適当にキレて帰るしかなかったぞ。
何度も言うように俺は教科書やら伝記に書かれてある評判通りの男で、悪魔と呼ばれる所以である。伊達に各地で埋葬を断られてヨーロッパ中を防腐処理されたミイラで旅したわけじゃねえ。って、それは自慢にならないか。
まあとにかく話は済んだわけで、俺はさっさとこの場から去ろうと一歩を踏み出す。
「ま、待ってくださいっ!」
「あなたもしつこい人――っ!?」
いい加減キレて帰ろうと思い、振り返った瞬間、俺の身体は再び硬直した。
何故ならそれは、決して日本人が見てはいけないものだったからだ。
「お願いですっ! どうか、私を弟子にっ!」
いわゆる〝土下座〟というヤツだ。
DOGEZA。その歴史は古く、魏志倭人伝から――って、それは今はいいか。
とかく法に触れない範囲であれば何でも聞き入れなければならない、あるいは許さなければならない、という日本人固有の最終兵器である。
これを持ち出されると日本人としての俺はひどく弱かった。
「聞き届けて戴けるまで私はここで〇※▽◇――」
イタリア語を話しているつもりらしいが、後半は何を言ってるのかさっぱり分からない。単語並べりゃいいってモンじゃねえんだよ。
……ったく、しょうがない。
その土下座に免じて少しだけ真面目になってみるか。
俺は長いイタリア語は通じないか理解するまで時間がかかると判断し、面倒なので結局彼女に解りやすいように英語で話すことにした。なるべく本来の自分から遠い存在を演じるため、普段なら絶対使わないような丁寧語で。
「ご存じのように私はレフティー(左利き)です。右と左でヴァイオリンの構造も弾き方も全く違うことはあなたにも理解できますね?」
「……はい」
左利き用のヴァイオリンは単に顎当てと弦の配置を逆にしただけではない。内部構造からして魂柱やバスバーの位置、弓の木取りから、何から何まで違う。
俺はかつて右利きであったが、この時代で記憶を取り戻す前、左利きとして10歳まで過ごした影響で、ヴァイオリンも自然と左利き用に慣れてしまっていた。
前世の記憶と経験があるからして右で弾けないこともないのだが、良くも悪くも左利きで形にはまってしまった俺は、利き手を持ち替えても、かつてのように弾くことが出来なくなっていた。
「趣味で弾く程度にならレフティーの私でも教えることは出来るでしょう。ですが、奏者として身を立てたいと思うのであれば、私から学ぶべきではありません」
「それでも……あなたは……私の〝目標〟であり、〝憧れ〟なのです……」
「…………っ」
ちっ、という舌打ちは慌てて飲み込む。
「あなたにヴァイオリンを教えたのは誰です? 尊敬する師の教えと支えがあって今日のあなたがいるのでは?」
「そ、それは……その通りですが……」
「見ての通り、私の奏法は人と全く違います。私から学ぶということは、それまでの教えを全否定することになりかねません」
「それでも……私は……」
彼女はまだ何か言いたそうにしていたが、結局そこで口をつぐんだ。
俺はというと、一見してまともなことを言っているようにも思えるが、その実ただの皮肉である。何故なら俺は彼女とは違い、前世において尊敬する師はおろか憧れと思える人物もいなかったからだ。
当時、家が貧乏で初等教育すら満足に受ける余裕が無かった俺は、芸は身を助くという信念の下で、5歳から独学でただひたすらにヴァイオリンの練習をした。それこそ寝食の時間を惜しんでまで。
全ては地獄のような日常を生き抜くためだった。
自分がかつてそうだったから。なんて説教をするつもりはないが、人の手を借りて己を高めようとする甘えきった精神が気にくわない。
弱者は問答無用に踏みにじられる。それはいつの時代も不変の掟である。
だから、極限の貧困や忍耐を知らない人間が口にする〝憧れ〟や〝目標〟などという生ぬるい言葉に対し、俺は舌打ち以ってするのだ。
自然と俺の口調は刺々しいものになっていく。
「正直に言いましょう。私から学び、あなたの才能が上に伸びるか停滞するか――系統樹のように可能性云々を論じるつもりはありません。今のあなたに割く時間は、私にとって無価値だと思える、ただそれだけです」
「そんな……私はただ、ヴァイオリンが上手くなりたいと……」
「上手くなりたい、で止まってしまっている時点であなたにヴァイオリニストとしての価値が無いと言っているのです」
「!!! ご、ごめんなさい…………」
やべ。つい、イラっときて言葉が直球になってしまった。
「うぅ……せっかくアノン様とお話ができたのに……私ってほんとバカ……(日本語)」
「…………」
下を向いてそんなことを呟いている彼女は、今にもぽろぽろと泣き出しそうな顔をする。
そんな彼女を見て、俺はめずらしく罪悪感を覚えた。悪魔にも聖水や十字架などといった弱点があるように、俺は女の涙にも弱いのだ。
無論、弟子を取る気など毛頭ないが、俺が原因で進むべく道を外れるというのは流石に夢見が悪い。せめて何か希望くらいは持たせてやってもいいのかもしれない……などと、俺はついそんな空気に流されてしまい――
「……あなたは本当に私の弟子になることを望んでいるのですか?」
次の瞬間にはそんなことを口走っていた。
「えっ……?」
ポカン、と。半開きの口でだらしのない表情を浮かべる彼女。
俺の演奏を初めて聴いたヤツが大体そんな顔をするのだが、間近で見ると中々にシュールな光景ではある。
「聞き取れませんでしたか?」
「い、いえっ!」
はっと我に返った彼女は慌てて口を閉じ首を横に振る。そして期待を滲ませたその瞳は真っ直ぐに俺を映した。
「はい! ご迷惑でなければ是非お願いします!」
彼女は力強くそう答えると、深々と頭を下げた。
「……分かりました。では、少々お待ちください」
俺は長距離の移動では常に二挺のヴァイオリンを持ち歩いているのだが、その内の一挺をケースから取り出した。
生前、イル・カノーネの予備として俺が所有していたヴァイオリンだ。
「これをあなたに差し上げます」
「えっ? あっ、は、はい……」
彼女は訳も分からずと言った感じでぎこちなく顔を上げて返事をすると、おそるおそると差し出されたそれを受け取った。
そしてヴァイオリンのF字孔からラベルを確認した彼女は、驚愕のあまり声にならない悲鳴をあげる。
「お、おお、お師匠さま!!! こ、ここ、これはストラド(ストラディヴァリウスの略)ではありませんか!?」
「…………」
誰がお師匠さまだよ。俺は弟子なんざ取らねえつってんだろうが。
「あ、あのあの……! し、失礼を承知でお聞きしたいのですが……!」
まあ彼女の言いたいことは分かる。ラベルが偽装されたストラドモデルなんて世に溢れかえってるからな。
「レプリカではありません。正真正銘正本物です」
「そ、そうですよね……」
「ちなみに名を〝クァルテット〟といいます」
「〝クァルテット〟……あの伝説のヴァイオリニスト・パガニーニが所有していたとされる……(日本語)」
彼女は小声で呟いた。
音楽に携わる者ならば誰もが知る名とはいえ、クリス以外の口からそれが出てくると途端に背筋が凍り突く感覚がある。
「も、申し訳ありませんが、この様な高価なヴァイオリンを無償でお譲りして頂くわけには……。あの、せめて購入させてください!」
購入って……お前コレいくらすると思ってるんだよ。軽く5億だぞ。
俺は基本的に臓器と身内以外、金になるものは何でも売るタチだが、ヴァイオリンだけは唯一の例外として心に誓っている。
「誤解をなさっている様ですが、私はあなたに差し上げると申し上げたのです」
「そ、そんな!!! お師匠さまにはこちらから謝礼を払わなければならない立場なんですよ!?」
「…………」
もしかして俺は遠回しに喧嘩でも売られてんの? あるいは受け答えにおける俺のアタマの回転でも測ってんのかコイツは。
「お師匠さま……?」
彼女は上目遣いになりながら俺の顔を伺う。
俺はすでにこの不毛な会話を投げやりに締め括りたくなっていた。
「……もう一つ誤解があった様ですね。何度も言うように私はあなたの師匠になるつもりはありません」
「えっ……」
「私が言いたかったのは、この〝クァルテット〟を師匠だと思って練習をしなさい、ということです。名器は人を育てると言うでしょう?」
投げやりといえ、俺は言った後に後悔した。自分自身に反吐が出るような思い。
「名器は人を育てる……」
そして彼女はポツリと、俺の反吐を日本語に訳したうえで反芻した。
もっともらしく聞こえるし、実際、世の指導者たちがよく使う言葉ではあるが、それは断じて否だ。楽器の良し悪しなど育成に何ら関係無い。自分の能力以上を求められる環境でこそ人は成長する。
……もっとも、生死に関わる状況にでもならなければ、人は己の限界を超えることはないのかもしれないが。
「……よく分かりました」
そして彼女は静かに頷き、言った。
理解したということは、やはり彼女もその程度――名を口する価値もない女であったという訳か。
まあ何にしても覆水盆に返らず。一度吐いた言葉は飲み込めないのだ。その〝クァルテット〟は下らないことを言った自分自身への戒めと勉強代としてくれてやる。
「……では、私はこれで失礼いたします。もうあなたと会うことは――」
「アノン様」
捨て台詞を言いかけたところで彼女の声がそれを遮った。
「やはりこのヴァイオリンは受け取れません」
は? いやだってキミ、さっき分かったって……。
「……理由を、お聞かせ願えますか?」
「名器は人を育てる。というアノン様のお言葉でしたので。だから、私にこの〝クァルテット〟は必要ありません」
「…………」
俺にはまったく理解出来なかった。
育てる云々を抜きにしてもこの〝クァルテット〟は〝イル・カノーネ〟には及ばないものの、名器であることには違いなかったからだ。
「……アノン様、これを見てください」
そう言って彼女は自前のヴァイオリンをケースから出し、俺に差し出してきた。
「こ、これは……」
表面に塗られたニスの色合いで、比較的新しいヴァイオリンだということはすぐに解った。
この時代、ヴァイオリンは何処の工房にしろ得てして世界三大ヴァイオリンと評されるグァルネリ、ストラディバリウス、アマティを模倣した物が製作される。
しかし彼女から渡されたのは、それらの造形的特徴を持たないヴァイオリン。
「見ての通り、安物のヴァイオリンです。造りも荒いですし、お世辞にも良い楽器とは言えません。ですが私は幼い頃、このヴァイオリンに心を奪われ、そして5年もの間、肌身離さず愛用してきました。つまり、私はこの〝名器〟によって育てられ、ここまで来ることが出来たのです」
彼女は何か言っているが、全く耳に入ってこない。
この女はいったい何者だ? 何故お前がコイツを持っているんだ。
「…………」
「アノン様……?」
「名前を……」
「えっ?」
「……貴女の名前を、もう一度お聞かせください」
「私は、近衛結衣といいます」
「近衛、結衣……」
俺は昔から興味の無い人間の顔と名前を覚えるのがすこぶる苦手だ。
しかしその名にはなんとなく聞き覚えがあり、俺は記憶の大海へと網を投じた。