第10話 エピローグ
「車、置いてくるので先に中で待っていてください」
「分かった」
俺は車を降り、静けさの宿る街の一角にある楽器店を見上げる。
懐かしさに、自然と頬が緩む。同時にこの店の佇まいが、今は亡き爺さんの顔や声、性格までも容易に思い出させた。
爺さん――桂木勇二は、2年の闘病生活を経て、4年前帰らぬ人となった。それは俺がアメリカに渡り、ようやく向こうの生活に慣れた頃のことだった。
俺が記憶を取り戻す前、ヴァイオリン職人である爺さんの影響を受け、ヴァイオリンを弾くようになったのは、前世と同じ5歳の時だった。ぶっちゃけ爺さんはあまり上手くはなかったが、それでもその腕前には遠く及ばなくて、それが悔しくて必死に努力したのを今でも覚えている。
そして俺は出国前、この〝イル・カノーネ〟を取り返すまで日本には帰らないと固く誓い、今日までここに戻ることはなかった。
情けないことに爺さんの最後の弟子は、その忙しない生活にかまけて手紙の一つも書かなかった。そんな不肖な弟子を、師は何と言って叱るだろう。
爺さんは怖い人だったから、そう簡単には許してくれないだろうな……。
「…………ふう」
改めて深呼吸を一つ。俺は店内に入った。
カラン、と乾いた音が響く。
『クレモーナ』
その店内の装いは5年前に見たままで、今でも記憶に新しい。
俺は今日からこの亡き爺さんの形見ともいえる、この店を継ぐことになる。
そう、ここが俺の選んだ終の棲処。
もっとも、ここはすでに役目を終えた廃墟のように、時が止まっているようだが。
ひと時栄華を誇り、その在りし日の残滓を未練がましく漂わせたままに。
なんだか、笑ってしまいそうな気分だった。
一人の人間が積み上げてたきた物のあまりの脆さに。
捨て置かれた廃墟に残るのは思い出という、ただ美しいことだけが取り柄の足枷だけだ。感傷に浸るなんて、それこそ俺らしくもない。
俺は大きなため息をついた後、ガタつく窓を無理矢理にこじ開け、空を眺めた。
上空には厚い雲が広がり始めていて、あれは果たしてどの方角か、かなりの速度で風に流されていた。
――これから少し荒れるかもしれない。
ぼんやりと考えながら窓を閉めようと手をかける。
閉めきる直前、強い風に乗って白い欠片が俺の胸元に飛び込んで来た。手に取るとわずかに薄紅色をした桜の花びらだった。
今年は例年より遅咲き、という気象予報士のコメントが漠然と思い出される。
桜なんて日本のどこにだって生えているし、今さらそうありがたがるものでもない。
満開の桜の後に残るのは、泥にまみれた死骸の山。この廃墟と同じように、時が来れば咲き、時が来れば朽ちる、ただそれだけの物だ。
手を開く。
花びらはひらり、と店の入り口に吸い込まれるように舞い落ちていった。
「ゆ…………雪弥、くん…………?」
ああ、そうだった。爺さんの残した形見は、もう一つだけあったんだ。
――俺の物語は、まだ終わってはいない。
これで一章が終わります。
現在、二章の半分くらいまで書き終えておりますが、出来るだけ毎日更新で進めていきたいので、完成するまでの間、少しだけお休みを頂きます。
再開後も引き続き、当作品をよろしくお願いします。




