第1話 『イル・カノーネ』
『イル・カノーネ』
それは前世の俺、ニコロ・パガニーニが終生愛用したヴァイオリン、グァルネリ・デル・ジェスのことだ。
カノン砲を思わせる爆発的な音にちなんで、俺がそう名付けた。
それまで使用していたヴァイオリンを賭博――いや、不幸な出来事によって失ってしまったのだが、リヴロンという商人がそんな俺のために家宝ともいえるこの名器を無償で譲ってくれたのだ。俺はその恩義に報いるため、このイル・カノーネは俺以外の奏者には絶対に弾かせないという誓いを立てた。
そして演奏家として引き際を悟った頃、俺は生まれ故郷であるイタリア・ジェノヴァ市に『他人に譲渡、貸与、演奏をしない』という条件でこのヴァイオリンを寄贈した。
だが俺の死後、約70年後にその遺言ともいえる約束は突如として破られた。聞けば現在に至るまで多くのヴァイオリニストに貸与・演奏されてきたという。
……ふざけんじゃねえ。
その昔、人間が天まで届く塔を作らんとしたとき、神もいいかげんキレた。それぐらい俺も怒っている。
◆◆◆
20XX年3月某日。ミュンヘン国際音楽コンクール。
『ニコロ=パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第2番 鐘のロンド』
俺はかつて自身で作曲した曲の演奏を終え、優雅な仕草で右手に持ったヴァイオリンと、左手に持った弓を下ろして一礼をした。
ほんの数秒の静粛の後、ひとりの観客が席を立ち上がると同時に拍手をする――
そしてそれは徐々に会場全体へと広がり――
雷鳴の如く木霊した。
吹き荒れる嵐のような拍手の中、俺は今一度聴衆に向けて小さく一礼。そして舞台袖に向けて歩き出した。
「ニコロ様、お疲れ様でした。それから、おめでとうございます」
バックヤードを抜け、控室に戻った俺に英語で話しかけてきたのは、アメリカ・ニューヨーク市に本部を置き、音楽に関する教育機関としては、世界一とも評されるジュリアード音楽院のクリストファー・ワトソン学長だ。
「まだ結果は出てないけどな。最後の一つくらい取りこぼすことだって可能性としてあるんじゃないのか?」
「それがありえないことは、あの万雷の拍手が証明しているではありませんか」
肩をすくめ、らしくもない謙遜をする俺に、クリス(クリストファーの通称)は真顔で返した。相変わらず冗談の通じないおっさんだ。
「ま、前世の俺からすれば素人に毛が生えた程度の連中が相手だからな。天に二つの太陽が昇らないように、俺が生きている限り、等しく落日のようなものだ」
「に、ニコロ様……その言い方はあんまりでは……」
「事実なのだからオブラートに包んでも仕方がないだろう?」
「はぁ…………」
俺の尊大な態度にクリスは諦めたようにため息を吐く。
とまあ、俺は見ての通りの俗物だ。数々の歴史資料に書かれているように、最高の技巧と最低の人格に偽りはない。しかも俺はそれを自覚したうえで改める気が毛頭ないというのだから、さらに救いようがねえのだ。
そんな俺は訳あってこの数年、世界中の音楽コンクールに出場し続け、その全てにおいて優勝を収めてきた。
そして今日、その総仕上げともいえる最後のコンクールに臨むべく俺はこのステージに立ったというわけである。
「やれやれ。長かったが、これでようやく故郷へ帰れるってもんだ」
「……ニコロ様、本当にこのまま学院を辞めて日本にお帰りになるつもりなのですか?」
「ああ、今の俺は日本人だし、目的も果たしたからな。イル・カノーネを受け取ったらすぐにでも帰るつもりだ」
そう、今の俺はイタリア人ではなく、生粋の日本人である。
俺は今から約18年前、それなりに有名な日本人考古学者夫妻の双子兄妹の長男として生を受けた。
そして10歳の誕生日を迎えた日、俺は過去の記憶に目覚めたのだ。
それから2年後、12歳になった俺は小学校卒業を機にイル・カノーネを取り返すため、家族を引き連れ海を渡った。
「あれからもう6年ですか……あなたと初めてお会いした時は驚いたものです」
クリスは過去を偲んで苦笑いする。だが俺には一つ納得がいかないことがあった。
「ちょっと待て。あれは驚いたというよりも信じてなかっただろ?」
「ええ、当然です。12歳の子供が警備の目をかいくぐって学長室に飛び込んで来た挙げ句、『俺はニコロ・パガニーニだ。イル・カノーネを取り返すのに手を貸してくれ』だなんて頭がイカれているとしか」
まあ、多少強引だったのは否定しないが……。
「ですが子供――いえ、同じ人間とは思えない、あの神がかり的な演奏を聴かされては信じないわけにはいきません」
「神がかり的な、ねえ……。最近、パガニーニについての資料を読んで知ったことだが、当時の俺は神どころか悪魔に魂を売り渡した代償に得た演奏技術だと噂されてたらしいな?」
道理であの頃、俺の演奏会で十字を切るヤツだの足が地から離れていないか足下ばかり見るヤツがいたわけだ。
「それだけ迷信深い時代だったということです」
「違いない。異端審問にかけられなかっただけ俺はまだマシな方だな」
俺たちは顔を見合わせて笑い合う。
死没時の年齢でいうと俺のほうが年上なのでフランクな英語を多用する俺に対し、俺をニコロ・パガニーニの生まれ変わりと受け入れて以来、俺と2人でいる時に限ってだが、クリスは丁寧な言い回しをする。それは傍からすれば異質な関係に見えるだろう。世界的に地位と名誉あるジュリア―ドの学長が、自分より遥かに年下の青年に対し、一生徒のように振る舞っているのだからな。
そして俺はクリスのジュリアード学長としてのコネを使い、ジェノヴァ市から世界に名だたる国際音楽コンクールで全て優勝するという条件で、イル・カノーネを生涯貸与する約束を取り付けた。だが――
「……ニコロ様、私の力不足で譲渡ではなく貸与という形になってしまい、本当に申し訳ございませんでした」
そういってクリスは慇懃に頭を下げる。もう何度同じ光景を見たことか。
「お前もいい加減しつこいな。大の男がそう簡単に頭を下げるんじゃねえよ」
「に、ニコロ様……」
お、なんだか知らんがクリスが珍しく俺を尊敬する眼差しを向けているぞ。
なればここは一番、もう一つばかり言葉を添えてさらに株を上げてやろうではないか。
「いいか、クリス。俺の経験上、男が謝っていいのは女に浮気がバレた時だけだ。よく覚えておけよ」
「……………………」
「なんだよ、その目は」
「い、いえ……なんでもありません……よく覚えておきます……」
人生の大先輩たる俺がせっかくいいことを言ってやったというのに、クリスの顔は何故か引き攣っていた。風船の萎む音と共に何かが下がったような気がするのは俺の気のせいだろうか。
しかしまあ、クリスが言うように譲渡ではなく、あくまで生涯〝貸与〟。俺に真の所有権はなく、俺がこの時代で死ねばまた再びイル・カノーネはジェノヴァ市に手に戻るということになる。って、そんな馬鹿げた話があるかボケ。寝言は寝ていえ。
「……なあ、ところでクリスよ。ジェノヴァの苔石どもは生涯貸与などと舐めたことを抜かしたらしいが、俺がそんな約束を守る義理なんて微塵も無いとは思わないか?」
「ホワァイッ!?」
アメリカンなリアクションで驚くクリス。
ちなみにジェノヴァには俺が元の所有者であるニコロ・パガニーニ本人であるとは伝えていない。
俺の正体を知っているのは今、この世界でクリスただ一人だ。
世上、人が何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わることを輪廻転生と云うらしいが、俺の知る限りそれを万人が納得する形で証明した人間は誰一人としていない。ましてや俺のように過去の記憶を引き継いだうえに、ヴァイオリンにおける唯一無二の技巧を以て立証し得る人間がいるとなれば、それはもう世間は大騒ぎだろうし、そもそも俺の本意するところではない。
俺は黒髪のカツラと顔の上半分を覆っているマスク(仮面舞踏会などで使われるヤツ)を外した。
「俺がこんな品の無いカツラと仮面で変装している理由が分かったか?」
「つ、つまり……持ち逃げすると……?」
「勘違いするな。俺はただ、返して貰うだけだ」
「そ、そんなぁ……」
大仰に頭を抱え、うなだれるクリス。きっと俺が死んでも返ってこないイル・カノーネについて責任を取らされる未来の自分を想像しているのだろう、が。
「おい、そこのジジイ。そもそもお前は俺より長生きするつもりなのか? ああん?」
「!!! そ、そうでしたね……」
びくりと肩を震わせて冷や汗を流すクリスだったが、次の瞬間には老いた面もちに安堵の色が浮かぶ。
俺はあと数日で18歳。クリスはあと数年で還暦。つまり順序からいって俺より先にこの世をオサラバするであろうクリスには関係のない話ってことだ。
まあ死後の名誉については知らんがな。
というか、そもそもこの時代の平均寿命は何ですかと。人生50年代表の信長的にはキミらは大幅にキャリーオーバーしてんのよと俺は声を大にして言いたい。
医学の進歩に真正面からケチをつける俺。かかる不満は何故か? 現代と比較するなら子供が無邪気にメスを握ってるような時代で俺はヤブ医者どもに梅毒と診断され、水銀療法とアヘンを投与され続けていたのだ。
今の医学的見地からすれば考えられないような自殺行為だが、当時はそれがまともな医療行為と本気で信じられていたのだから恐ろしい。くそっ、あのヤブ医者どもめ、今からでも探し出して墓でも暴いたろうか。
器の大きさにおいてはペットボトルのキャップ以下を自認する俺は、先進医療を享受する甘ったれた現代人への嫉妬も含め、心の中で、ぐぎぎ、などと歯ぎしりをたて怒りに悶えていた。
さらに追い打ちとばかりに控室のモニターには、病気とは無縁そうな充実ライフを送るコンクール・ファイナリストたちが皆一様に互いの健闘ないしは健康を称え合っている。
「……くそっ、どいつもこいつもやりきったような健康ヅラしやがって。この温室育ちのおきあがりこぼしどもが……(日本語)」
「な、なにを言っているのか私には分からないが……表情を見る限り、汚い言葉ということは容易に想像がつきますな……」
「ケッ、死んだことのないテメーも同類なんだよこんちくしょうが(日本語)」
「???」
その後も頭上にハテナを浮かべるクリスを相手に延々と日本語で愚痴をいっていると、モニターの映像が慌ただしく動き出した。
「そろそろ審査結果が出ますね」
「へえ。今回もまたえらくお早いことで」
「前回までは発表は後日、ということが通例だったんですけどね」
「古くさい慣習や風習に縛られないキミたちが好きだ」
通例を無視するとは、実にけしからんヤツらだ。
「あの、本音と建前が逆になってませんか……?」
「気のせいだろ」
「……まあ実際のところ、今回の一連の音楽コンクールは色々な意味で世界から注目を浴びておりまして、それを反映した結果ではないかと……」
クリスは奥歯に物を挟んだような曖昧さで言葉を濁した。
「なるほど。つまり、世界中の権威ある音楽コンクールを謎の覆面野郎が荒らして回ってるせいだと、お前は言いたい訳だな?」
「そ、そこまでは……」
「前々から思っていたんだが、実はお前、敬ってる振りして内心では俺をちょっと小バカにしてるだろ? 正直に言ってみ、絶対怒らないから」
「それ、絶対に怒るときのフラグですからっ!」
「やかましいわ。いいから俺の目を見て正直に言え」
「あっ、そんなことよりもモニターを見てください! 結果が出ましたよ!」
「……………チッ」
クリスの野郎、上手く逃げやがったな。こちとら結果なんざ分かりきってんだよ。
1st――Unknown〝Anon〟
2nd――nicht vergeben
3rd――nicht vergeben
4th――Maria Watson
5th――Yui Konoe
『Unknown〝Anon〟』
アンノウン。通称〝アノン〟とは俺の登録名のことだ。
読んで字のごとく名前も国籍も不明。唯一確かなのは、年齢制限という出場資格は満たしているということだけ。
この無法ともいえる異例中の異例が許されたのは、クリスの周到な根回しのおかげだ。まあ別の意味で注目を浴びる羽目にもなってしまった訳だが。
ちなみに『nicht vergeben』はドイツ語で、英文に直すと『Not awarded』。つまり、2位と3位は授与該当者無しということになる。
このコンクールでは1位該当者無しの2位が優勝することが多いことで知られてるとはいえ、1位がいるのに2位と3位がいないというのは過去に例が無い。
おそらくだが審査員は1位である俺と次点では評価点に隔絶の差があることを2位と3位を空位にすることで表明しているのだろう。
「マリアは準優勝か。予想通りとはいえ、よかったなクリス」
次点である4位のマリア・ワトソンとはクリスの娘で、俺の数少ない友人の一人だ。
「ありがとうございます。ですがそれは本人に直接言ってやってください」
「やだよ。あいつは俺が褒めると調子に乗ってなにをやらかすか分かったもんじゃない」
「それは……否定できませんな……」
俺は渡米して約6年の間、クリスとは家族ぐるみの付き合い――というか、クリスの家に居候している。
当然、マリアとも同じ屋根の下で暮らしていたわけだが、遠慮やら配慮といった慎みを母親の腹の中に忘れていって誕生したような彼女から、俺は自分のプライバシーを守るために毎日が必死だった。
とにかく会ってみれば分かるだろう。猪突猛進とはマリアのためにある言葉であると。
「よし。結果も出たことだし、今からジェノヴァに向け出発だ」
「また授賞式を辞退されるのですか!?」
「当然だ。顔も声も出せない俺が棒立ちしたって時間の無駄だろ。賞金さえ貰えれば授賞式なんてどうでもいい」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
俺はヴァイオリンと弓をカーボンの楽器ケースにしまい込み、出口の方に向かおうとすると、クリスがドアを遮るように立ちはだかった。
「なぁんだよ。お前は年長者の言うことを素直に聞けんのか」
「い、いえ……そうではなくて、実はもうここに届いているんです……。ジェノヴァ市も『アノン』の優勝は揺るぎないものと確信していた様でして……」
クリスが俺の背後に目配せをした先には、大きな木箱が置いてあった。
おそらくあの中に――
「お、おいおい……そういうことは先に言いたまえよ……まぁ、なんだ……ジェノヴァも少しは殊勝になったというわけか」
記憶を取り戻して8年、イル・カノーネの現状を知った瞬間から金平糖のようにやさぐれていた俺の心が、ゴルフボールのような丸みを帯びてゆく。
俺はこのとき、旧地元住民と自治体との心温まるコミュニケーションを実感した。
「さあ約200年ぶりの再会を目の前に緊張してまいりました。この日本のアルデバランことニコロ・パガニーニ、気持ちの上では1秒間に地球を7周半しております(日本語)」
「??? 今なんと?」
うるせえぞクリス。今いいところなんだから邪魔すんな。
「では、そろそろ感動のご対面――」
コンコンコンコン。
「「!!!」」
扉をノックする音に反応した俺は瞬時にカツラと仮面を手に取り装着。
クリスは……まずいな。面の割れてるコイツと一緒にいるところを見られたら、俺がジュリアードの関係者だとバレる可能性が高い。
俺は手短にイル・カノーネと感動の再会を済ませ、そのまま木箱の中身を全部取り出した。
「(おい、クリス。お前はこの木箱に隠れていろ。ちょっと狭いかもしれんが少しくらい我慢できるだろ?)」
「(こ、この木箱にですか!? これはあまりに狭すぎま――)」
「(ごちゃごちゃ言わんとはよ奥詰めんかい! ※日本語)」
「(んーー! んーー!)」
嫌がる56歳の初老アメリカ人を無理やりに木箱に押し込む元57歳のイタリア人。
『あのぉ……入りますね~……(英語)』
なんとか闖入者が押し入る前にクリスを木箱に詰め込むことに成功する。その際、関節の節々からあまりよろしくない音が聞こえたような気もするが、まあいいか。
そして控えめにゆっくりとドアを開き、こちらを少し覗き込んでから遠慮がちに入室して来たのは、アジア系の長い黒髪の女。
「あっ、いきなり入ってすみません……返事がないので、てっきり空部屋かと思いまして……」
「………………」
「ぐ、偶然ですね……わ、私は、日本の近衛結衣といいます……」
「………………」
あまり流暢とはいえない日本人らしい片言の英語で一方的に話しかけてくる目の前の莫連女(あばずれの意)は、5位入賞者の日本人だった。
「あ、あの……わ、わたし……アノン様の演奏に感動して……その……」
「………………」
極度の緊張のためか、近衛と名乗る女はしどろもどろになっている。だがそれは俺を油断させる演技という可能性も捨てきれず、俺は一切の声を発することができない。
何故ならアノンの肉声は世間には知られていないため、万一、ICレコーダーなどの録音機を身体のどこかに忍ばせてでもしていたら後々に厄介なことになる可能性が高いからだ。例えば――
『アノン様と話してみた』
そんなタイトルで某動画サイトに載せられでもしたら、「あれ? この声、あいつにちょっと似てね?」などと、俺の正体に辿り着く可能性がなきにしもあらず。
綻びというのは、えてしてこういう些細なところから――
「わ、私をアノン様の弟子にして戴けませんか!?」
……は、はい?
いかんいかん。保身に頭がうなりを上げているところに、あまりに見当違いの言葉が返ってきたもんで、思わず素で声を出しそうになっちまったぜ……。って、俺の耳が正常なら、この女は今、俺に弟子入りを求めてきたように聞こえたのだが……。
「…………………」
「あの……もしかして英語は駄目でした……?」
俺は前世の記憶によって日本語と英語の他に、かつて母国だったイタリア語、それにドイツ語、フランス語と完璧に話すことができるのだが、俺はあくまで終始無言、無表情に努める。
だが、女はいっこうに退出する気配はなく、俺はハンドジェスチャーであっちへ行け、しっしっ、とでもやってみるか? そんな考えが頭によぎる中、女はカバンから手のひらサイズの手帳を取り出した。さては俺の身体的特徴でも書き留めておく算段か?
「私をあなたの弟子にして下さい!(ドイツ語)」
「……」
「これは違う……と(日本語)」
ページをめくる。
「私をあなたの弟子にして下さい!(イタリア語)」
「…………」
「これも違う……と(日本語)」
ページをめくる。
「私をあなたの弟子にして下さい!(フランス語)」
「………………」
「ま、まだまだ……(日本語)」
ページをめくる。
「私をあなたの弟子にして下さい!(スペイン語)」
「……………………」
「そ、そんなぁ……(日本語)」
ページをめくる。
「私をあなたの弟子にして下さい!(たぶん中国語)」
「…………………………」
手製の外国語手帳だった。
「お、終わった……(がくっ)」
女は万策尽きたとばかりに肩を落としうなだれる。
それと同時に俺は最良の策を思いついた。何故こんな簡単にことにすぐ気が付かなかったのだ。
俺がこの部屋からさっさと退散すればいい。ただそれだけの事だった。
クリスをこのままここに捨て置くのは多少なりとも気が引けるが、まあ仕方がない。
というわけで。
(さいなら)
――スッ。
俺は無言で女の横を通り抜け、出口へと向かうところで背後から声が聞こえた。
「こんなことならもっと他の言語も練習しておけば良かった……(日本語)」
いや、そういう問題じゃないから。世界共通語があったとしても無視してるから。
「私のバカ……もう死にたい……(日本語)」
「――っ!」
俺はその言葉につい反応してしまい、ドアに手を掛けた状態で立ち止まってしまっていた。
「えっ……?」
それまでとは明らかに違う俺の反応に、女が困惑している。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「アノン様が……日本人……?」