三日月湖
ウェールス国の最も古い家系の一つが、マクスウェル公爵家だ。
それは、かなり異質な家だった。
皇室に絶対の忠誠を示し、従う。当主の婚姻相手でさえ、皇室の指名によるものだった。そしてその相手は、家柄よりも魔力が優先された。
それでいて、魔力が最も強い者が次期当主になるわけでもないようだった。
事実、セオドア・マクスウェルは、マクスウェル家の嫡男であり、存命の直系一族の誰よりも魔力が強いと言われているが、後継者からは外されていた。
代々の後継者のことはよく知らない。ただ、セオドアの気性を目の当たりにして、後継者から外されたのは至極当然なことだとも思った。
彼は、私を縛り、声を奪った。貴族の当主にふさわしい人物とは、到底思えない。
だが、彼は約束を違える男ではないようだった。「最低限の生活は保障する」と言った通り、私には客間が用意された。
「この部屋を使ってね。服は明日までには用意するけど、他にも必要なものがあったら、メイドに言って……あ、いや、メモ帳でも用意しておくよ」
「ギル」と呼ばれた男が、私を部屋に案内してくれた。古いながらも、整えられた部屋だった。
それからギルは、白髪交じりのメイドを連れてきた。
「彼女が君の面倒を見てくれるから」
「アンと申します。よろしくお願いいたします」
アンは、私のことを何と聞いているのだろう。彼女は、丁寧なお辞儀と共に挨拶をしてくれた。
私は、こくりと頷いた。
ギルも、アンも私に良くしてくれた。
特に、アンは、愛情深い人だということが見て取れた。
初日に顔を合わせた後、彼女は、私があちこちにこしらえた擦り傷を、丁寧に手当てしてくれた。それから、彼女の私物と思われる、だぼだぼとした簡素なワンピースを貸してくれた。
最近は立襟の服ばかりきていたので、そのワンピースは、襟首がとても心許なく感じた。それが表情に出ていたのだろうか。彼女は、着替えた私の姿を見ると、はっとしたような顔で部屋を離れ、戻ってきた時には彼女の手にはスカーフが握られていた。
彼女は、そのスカーフを私の首に巻いてくれた。
その日だけではない。毎日、きれいなドレスと一緒にきれいなスカーフを用意してくれた。
ギルはギルで、お菓子や本を差し入れてくれた。
時々部屋を訪れては、「何か必要なものがあったら遠慮なく言ってね」とそればかりを繰り返していた。
二人は、私を客人のようにもてなしながら、囚人のように扱った。暴力を振るわれた、とかそういうことではない。明らかな申し訳なさを顔に浮かべながらも、決してそれを口にしなかった。この女は囚人である、という筋書きに綻びが生じないようにしているようだった。
彼らは私を気遣ってくれたが、絶対的なセオドアの味方だった。
この屋敷は人の気配が薄いから、きっと、信頼のおける者しか置いていないのだろう。
南京錠のかけられたすりガラスの窓の向こうで、陽が落ちかけているのを感じた。
本を膝の上に置いたまま、ぼんやりと、見えない窓の向こうを眺めていると、ガチャリとドアが開いた。
ノックをせずにドアを開けるのは一人だけだ。
目を向けると、案の定セオドアが入ってくるところだった。
セオドアは私の近くまで来ると、黙って右手を差し出した。
初めてこの手に触った時は、掌に血だらけの大きな傷があった。繰り返し傷つけたであろうその掌は今でも沢山の傷跡が残っているが、当初よりはだいぶ薄くなっている。
治療魔法の形跡はなく、自然と薄くなっていったようだった。彼は、多分、回復力がとても高いのだろう。
私は、差し出された彼の右手を、両の掌で挟むように受け止めた。そして、いつものように、魔力を受け止める――。
それが終わると、そっと手を離した。
「……」
「……」
二、三秒の間があった。訝しみ、顔を上げると、彼の金色の目と目があった。
彼は、何か言いたげにしていたが、結局何も言わずに部屋を出た。
私は、ほっと詰めていた息を吐き出した。
窓の外はすっかり暗くなっていた。