空っぽの令嬢の心を満たすまで
東の砦から屋敷までの道は、昨日までの雨でぬかるんでいた。普通の貴族の女性に歩かせるような道ではない。
だが、エレノアはそれを見越したように、この門出の日に、立襟のシャツとズボン、という服装を選んでいた。
彼女は俺の隣で、他愛のない会話をしながら、危なげない足取りで、屋敷へと向かっていた。
エレノアを伯爵家のタウンハウスに迎えに行ったのは、ほんの二時間程前のことだった。
彼女の荷物はあらかた運び終えていたため、後はエレノアを迎え入れるのみ、となっていた。
エレノアは、彼女の家族全員に見送られて、伯爵家を出た。彼女は今回の家移りについて、「問題なく」両親からの許可を得られるだろう、と言っていたが、本当にそうであったのか、些か疑問だった。彼女の弟妹は、威嚇する小動物のような目で俺を見ていたし、伯爵夫人は不自然なくらいニコニコと笑っていた。伯爵は、丁寧なふるまいではあったが、どう見ても目が笑っていなかった。
きっと彼女の家族の誰もが、彼女のことを深く愛し、心配しているんだろう。
「必ず幸せにする」と伝え安心させたかったが、またプロポーズのようだと思われたら面倒なことになりそうなので、やめておいた。
「まあ……。随分と雰囲気が変わりましたね」
間もなく屋敷に到着する、というところで、エレノアはそれまでの談笑をぴたりと止め、驚いたような声を上げた。
彼女の視線は、屋敷のドア周辺に向けられている。そこはかつては雑草に覆われていたが、今は様々な花が咲き誇っていた。
何しろ急ごしらえだったので、洒落た庭園とはほど遠く、レンガで囲ってどうにか花壇の体裁を保っているような空間ではあるが、花の種類だけは豊富だった。寂れた屋敷とは似つかわしくない色鮮やかさが、遠目にもわかる。
「前に、草花が好きだという話をしていたから、植えてみたんだ。こんなものしか準備ができず申し訳ないが……」
「いいえ、とても嬉しいです。素敵な花壇なので、良かったら私にもお世話させてください」
「そ、そうか……? でも、エレノア嬢の手を煩わせるようなことではない。いずれは庭師も呼んで、もっとちゃんとした庭園を作ろう」
彼女の顔がほころぶのを見ていたら、ついそのようなことを口にしていた。浮ついた気持ちになっていた。
だが、彼女の笑顔にうっすらと陰りのようなものが見えた気がして、はっと現実に引き戻される。
「そこまでしていただく必要はございませんよ……」
「いや、俺にとってそんなに負担なことじゃないから、エレノア嬢もそんな、恐縮しないでくれ。ああ、それに、エレノア嬢が花壇を触りたいのであれば、植え替えでもなんでもしてくれて構わないから。だから……」
困惑とまではいかないが、苦笑を浮かべる彼女を前に、臍を噛む気持ちになる。
彼女に喜んでもらえるよう、気を付けていたはずなのに。何度も見舞いを重ねるうち、遠慮がちな彼女のことを、分かったような気持ちになっていたはずなのに。気を抜くと、すぐに自分の希望が前に出てしまう。
言い訳めいたものを並べているうちに、花壇の手前に差しかかっていた。すると――
「坊ちゃん、ご令嬢に土いじりさせるつもりですか」
ふいに、アンが建物の陰から現れて、ぎょっとした。
「アン! お久しぶりですね。今日からまたお世話になります」
「お久しぶりでございます、エレノア様。またお嬢様のお世話ができると聞いて、アンは幸せでございます」
「いつからいたんだ、アン……」
「最初から外にいましたよ。二人が盛り上がるものかと思って、気を遣って隠れていたのです」
アンは普段耳が遠いくせに、何故か地獄耳だった。そして、良くも悪くも俺を怖がらない。なんとなく、これ以上口を開かないで欲しい、という気になった。
そんな俺の願いは叶わず、アンはペラペラとお喋りを続けた。
「坊ちゃん、あんなつまらないこと言わず、君のために頑張った、くらいは言っても良いのに。坊ちゃんったら、花の図鑑まで買って、エレノア様が喜びそうな花を一生懸命選んでいたんですよ」
「アン!」
アンが今日を待ち遠しく思っていたことは、知っていた。それにしても、まるで少女のようなはしゃぎようだった。俺の怒号にも全く動じる様子がない。
たしかに、アンの言う通り、つまらないことを言ったのかもしれない。でも、メイドにこんなことを暴露される情けなさに比べたらましなのではないか――。
変な汗が出るのを感じながら、エレノアを覗き見ると彼女は俯き気味で「そ、そうですか……」と答えるところだった。
アンは目を一層キラキラと輝かせ、お喋りはなおも止まらなかった。
「それに使用人達も一生懸命準備したんですよ。みんな、エレノア様を歓迎しています。エレノア様がいらっしゃると坊ちゃんが上機嫌になって、仕事がしやすいですからね」
「あはは……そんな風に歓迎していただいて、私も嬉しいです……」
エレノアは、アンに気圧されているようだった。声から、いつもの落ち着いた調子が抜けかけている。
俺のせいではないはずだが、なんとなく申し訳ない気持ちになる。彼女はこの屋敷に不快感を感じていないだろうか、大丈夫だろうか、と心配になり、顔を覗き見た。
――その頬には、足元のマーガレットの色を反射したように、紅がさしていた。
「……」
――バタン!
勢いよく屋敷のドアが開いた。
「三人とも、いつまで外にいるの。中で待っていたんだけど!」
出てきたのは、ギルバートだった。
空気をかえるような軽い声に、救われたような、名残惜しいような気持ちになる。
「エレノア嬢、先に入っていてくれ。内装の方は変えていないんだが……知らない部屋も沢山あると思うから、ギルに案内してもらってくれ」
俺が促すと、エレノアははにかみながら、「わかりました。では、失礼します」と答え、屋敷の中へと入った。
奥でギルバートが不思議そうな顔をしているのが見えたが、そのうちドアが再び、バタン、と閉じた。
「申し訳ございません、坊ちゃん。アンの老婆心が過ぎましたね」
言葉とは裏腹に、アンがニコニコとした顔でこちらを見ていた。
「でも坊ちゃん、女性の心は刻一刻と変わるものです。アンにはわかります。坊ちゃんが思っているよりも、エレノア様は、坊ちゃんのお気持ちを理解しておられますよ。これからもっともっと、変わっていきます。今はまだ戸惑っておられるかもしれませんが、それでもお坊ちゃんの気持ちは、好意的に受け取っているはずですよ」
アンの自信ありげな言葉に、ふっと笑いが漏れた。
「……だといいな」
「さあ、坊ちゃんも熱が引いたようですし、早く中に入りませんと。ギルバート様にいいところを持っていかれてしまいますよ」
ドアを開けると、エレノアがこちらに気が付き、微笑んだ。
――こんな自分勝手な男に笑いかけてくれるなんて、彼女はどうかしている。
彼女は多分まだ、気付いていないのだ。周りから与えられるものが、対価や社交辞令ばかりではないことを。
自分が皆から愛されていることを、彼女自身がまだ知らない。
彼女の優しさは、俺だけでなく、沢山の人を救ってきたのだろうけど、まるでそれが当然の義務であったかのように涼しい顔をしている。
彼女は、俺の荒んだ心をいとも簡単に癒し、満たしてしまった。
だから今度は俺が、彼女の心が満たされるまで、大事にして、慈しみたい。
彼女が自分が愛されていることに気が付き、皆の好意を享受できるまで、愛し尽くしたい。
そうして自分がどこへでも行けることに気が付いた時に、願わくば、俺の隣で笑っていてほしい。




