夕凪(2)
「すまない」
アシュリー伯爵夫妻が退席すると、頭を下げた。
もはや何に対して謝っているのかわからなくなるくらい、俺の全てが最悪で、申し訳ない気持ちだった。
「誤解しないでほしいんだけど、セオは、自分の罪を隠蔽しようとしているわけじゃない。こいつは君の両親に全てを話すつもりでいたみたいだけど、俺が止めたんだ。世間がありのままの事実を知ったら、変に邪推して、その……君を傷物のように扱う奴も出てくるだろう、と言ってね。いや、これも君に対する脅しのつもりで言っているわけでないんだ。君が望むなら、全てを公にして構わない、と俺も思っている」
ギルバートが隣から口を挟む。
それはありがたくもあり、情けなくもなる助け船だった。
彼女にしでかしたことをあれだけ後悔したのに、結局俺が選択した答えはこれなのだ。
「ええ。私もそれが最善だとわかっていますから。それに、私も両親に何と説明して良いかわからずにいたので、こんなに早く説明に来てくださったこと、ありがたく思っています」
彼女が穏やかに答えた。彼女が俺を許す言葉を口にする度に、心がずっしりと重くなる感じがする。
所詮、家の力しかないくせに――トーマス・ハンソンの吐いた言葉が、呪いのように頭に響いていた。彼女は、俺を拒絶したくてもできない立場なのだと、思い知らされる。
「本当にすまない……。君にも嘘をつかせてしまった」
「……嘘なんてついていませんよ、何一つ。公爵令息様に助けていただいたのは、事実ですし、それに……その、こんなことをお聞きするのも恥ずかしいのですが、私が少しは役に立っていたから、お屋敷においてくださったんですよね?」
エレノアは静かな声で答えた後、躊躇したように、上目遣いで尋ねてきた。
「少しどころじゃない。役立たずだったら、とっくに解放していた」
予想していなかった質問に驚き、語調が強くなるのを感じた。
「それなら良かったです。公爵令息様には理解できないかもしれませんが、私にとっては、役立たずじゃないと思えることが幸せでしたから」
エレノアは、目を伏せて苦笑を浮かべた。
確かに、俺には共感できない感情だった。だが、彼女の境遇を思えば、そういう気持ちになることにも納得がいった。なにより、彼女の表情からは、それが彼女のありのままの気持ち――それもあまり暴かれたくない本心のように見えた。
「……俺は、本当に何度も君には助けられていたんだ。治療してくれたことだけじゃない。本当にずっと助けられていたんだ」
「では、あの、手を握ってもよろしいですか、公爵令息様」
エレノアが、自身の胸の前に両掌を持ち上げながら、そう言った。
「……いいのか?」
「はい、私にとっては、それが幸せなことですから。これからも公爵令息様のお力になれるのであれば、私はそうしたいです」
彼女がはにかみながら、答えた。
にわかには信じられないことだが、彼女は本当に嘘をついておらず、「感謝こそすれ、恨んだりなどしていない」ようだった。
しかも、隠した本心を晒し、手を差し出してまで、その気持ちを伝えようとしてくれているのだ。
「……君が公爵家に遠慮しているわけではなく、本当にそう思ってくれているなら……公爵令息ではなく、名前で呼んでほしい」
「はい、セオドア様」
俺が厚かましい願いを口にしながら、彼女の両手に手を伸ばすと、彼女は笑顔でその手を受け取りながら、あっさりと俺の名前を呼んだ。
「……っ」
数日間滞ってた魔力が解放される感覚と、彼女が名前を呼んでくれた――という感慨に同時に襲われ、なんだかわからない、頭が痺れるような感じがした。
「……ありがとう」
甘美な時間が過ぎ、彼女の手が離れると、俺は感謝を述べた。思えば、俺が彼女に感謝を伝えるのは、初めてだった。
すると、隣でギルバートが「俺からも」と口を開いた。
「俺からも感謝を伝えさせてほしい。本当にありがとう」
見ると、ギルバートが眉尻を下げながら微笑んでいる。エレノアが優しい表情でそれに応えた。
「いえ、私、ギル様にも感謝しています。いつも、気にかけてくださって」
「ちょっと待て」
「え?」
エレノアはまだ話の途中だったようだが、思わず制止してしまった。それに対し、エレノアが戸惑ったような声を上げた。
「何故ギルバートは愛称で呼ぶんだ?」
「す、すみません私、ずっとお名前を知らずにいたので……ギルバート様とお呼びすべきでしたね」
彼女が狼狽える。それは、かわいらしかった。
だが、隣でにやにやと笑っているギルバートがたまらなく鬱陶しい。
「いいんだよ。俺はギルって呼んでほしい。俺らが希望した通り、セオドア、ギルって呼んでくれれば、俺らはそれで嬉しいから」
明らかにわざと言っている。
だが、返す言葉もなかった。俺自身が、名前で呼んでほしいと彼女に言ったのだ。
それに、彼女がギルバートに親しみを感じることは、当然のことだとも思った。彼女のフォローをしてきたのは、いつだってギルバートだったのだから。
最低な俺にとっては、名前で呼ばれるだけでも、身に余る光栄なはずだ。
俺は、「ああ、そうだな」とだけ返した。
それでも、彼女があまりにも優しいので、いつか「セオ」と呼んでくれる日もくるのではないかと、ついつい期待する心が抑えられそうになかった。




