泡沫(2)
セオドアの屋敷は、四方を森で囲まれていた。
その森を突き抜けるように、東と西にそれぞれ道が伸びている。舗装はされていないが、土は踏み固められており、馬車が十分通れるくらいの幅はあった。
西側にはもう一つ、人ひとりがやっと通れるくらいの道がある。獣道と見間違えるような道だ。私が往来を許可されたのは、こちらの道だった。最近は毎日この道を通っている。
その道を通ると、青いににおいが鼻孔をつく。誰かが刈ってくれた草の、その断面が香っているのだろう。
私が最初にこの道を通った時、つまり、手かせをつけられて屋敷へと連れてこられた時は、至る所から枝葉が手を伸ばし、しなだれかかってきたものだが、今はすっきりとしていて見る影もない。
もしかしたら、私への配慮も多少あるのかもしれない。でも、どちらかと言うと、アンへの配慮だろう。
道はそう長くはなかった。しばらく歩けば、ぽっかりと開いた小さな空間が現れる。
そこには木は生えておらず、真ん中にこじんまりとした池があった。
水面に周囲の森が影を落とすので、一見すると澱んでいるように見えるが、近くから覗き込むと水はそれほど濁っておらず、小さな魚が泳ぐ様が見えた。
心が洗われるというには大げさすぎるが、小さな憩いと呼ぶくらいには差支えない、そんな空間だった。
私が小さな折りたたみイス二脚を、そしてアンがお菓子や軽食を詰めたバスケットを、それぞれ抱えてここへ来るのが常だった。
池のほとりにイスを二脚並べて置くと、アンは左のイスに腰かけ、次いで右のイスにバスケットを置いた。初めこそ、右のイスには何も置かれていなかったが、私があまりにも座らないので、遂に物置になってしまった。私がその椅子を使うのは、軽食を摂る時くらいだった。それ以外の時間はひたすら、周囲をうろうろしていた。
アンはイスに座り、池をぼんやり見ていた。木に手を当てたり額をつけたりしている私の奇行にも、すっかり慣れてしまったようだった。
その魔力に気が付いたのは、その持ち主が、だいぶ近くにきてからだった。
私が警戒を怠っていたこともあるかもしれないが、近付かれるまで気が付かないくらい、希薄な魔力の持ち主だった。
ここは公爵領なのだから、そうそうおかしな人物が入り込むわけがない。そう思いかけた時、ぞわりと悪寒がした。――その魔力は、私が良く知るものだった。思わず首に手を当てて、硬直する。
その人物が偶然通りかかったとも思いにくい。私を殺しにきたのだろうか。頭の中に様々な考えがよぎる。
アンを連れて屋敷に戻れるのであれば、それが一番良い。しかし、あちらが私の居場所を感知しているのであれば、絶対に逃げきれない。それくらいの距離まで来ていた。
そっと振り返ると、アンは相変わらず池に目を向けていた。アンを巻き込むわけにはいかない。かと言って、アンだけ屋敷に返すことも囚人の私には不可能だ――そうなると、道はひとつだった。私は息を殺し、森の中へ、その人物のもとへと向かった。
私は落枝を握りしめ、様子を伺った。僅かに魔力を帯びた木の枝だった。行き道で拾ったただの枝ではあるが、無いよりはましだろう。
そうして現れたのは――見知った顔だった。
何故彼が……。
私は一度息を吐いて心を落ち着かせる。それから木陰から出て、その人物の前に姿を見せた。
「エレノア嬢!」
顔を輝かせて声を上げたのは、トーマス・ハンソンだった。
「こんなところにいたのですか! もう大丈夫です。僕と一緒に帰りましょう!」
彼は、ニコニコと、こちらへ近づいてきた。
彼の、想定外に友好的な言動に当惑する。
――彼は、私の魔力を奪った人物に他ならないはずなのに。
「僕、何度もタウンハウスに花と手紙を贈ったんですよ。まさかこんなところにいるとは思わず。白いバラは受け取ってもらえたんですよね? そのあと赤いバラも沢山贈ったんです」
彼は私の手を掴もうと、腕を伸ばしてきた。
「これからはちゃんと、手渡しで渡しますから」
気味が悪かった。
後ずさり、彼の手を避けると、できるだけ穏やかに見えるように、ゆっくりとかぶりを降った。
彼は不思議そうな顔をした後に、さも得心したかのような笑顔となった。
「大丈夫です! これからは僕が守りますから! 僕があなたの夫となり、あなたを守ります!」
「……」
こちらの気持ちが全く通じそうになかった。
私は、彼を見据え、ぶんぶんと首を振る。
「……何故ですか? 何故……何も言わないんですか?」
彼の顔から笑顔が消えた。
「……」
「まさか、まだお高くとまっているつもりですか?」
彼の顔がみるみる歪み、声は怒りに打ち震えていった。
「君はもう、僕よりも弱いのに。僕に守られていれば良いのに……」
そう言うと、腰に差した鞘から、ゆっくりと剣を抜いた。
まさか、と思ったが、そのままこちらに振りかぶってきた。
すんでのところで避けるが、トーマスはなおもブンブンと剣を振り回しながら、私に詰め寄ってくる。
魔力を使えない体は重く、そうでなくても閉じこもり切りで萎えた体が思うように動かない。馬鹿みたいな太刀筋だったが、どうしても避け切れず、確実に、私の肌に傷を増やしていった。
狭い林間での戦いだった。
私は追い込まれぬよう注意を払っていたつもりだが、背中に太い木の幹があたり、退路が断たれたことを感じた。
私の腕を切り落とすつもりかのように勢いよく降ろされた剣を、手に持った木の枝で受ける。
「そんな枝で僕に勝てると……?」
魔力を帯びた枝は、束の間持ちこたえたように見えたが、トーマスが一度剣を引くと、役割を終えたかのようにぽっきりと折れた。
「フフフ……君はもう堕ちたんだよ! 僕と同じところまで堕ちたんだ! 僕の妻になって、僕と一緒にいるしかないんだよ!」
トーマスは嬉しそうに笑うと、叫びながら、剣を振り下ろした。
カーン――と音が鳴り響いた。
――その真剣を受け止めたのは、別の真剣だった。
こんなに近くにいたのに、気が付かないなんて。それほどまでに消耗してたようだった。
安心すると、がくりと膝の力が抜けた。
「おい! 大丈夫か!?」
「俺が追うから、セオは彼女を手当してくれ!」
前方に目を向けると、逃げるトーマスと追うギルが見えた。
へたりこみそうになる体をセオドアが支えてくれたようだったが、すごく疲れて、意識を手放してしまった。




