8
満月の夜、夢の中。
いつもの夢と同じに、応接室に私はいた。
けれど、同じ部屋のはずなのに、そこは、とても広い空間だった。
天井は、あまりに高いので、空に浮かんでいるように見える。ディーと会う時に壁に有った本棚は消え、一番最初の夢と同じに、何も飾っていない壁なのだけれど、どこまでも、どこまでも続く、果ての無い空間となっていた。
部屋の隅に置いてあった、ディーの読書机は無く、その隣に有った安楽椅子が、部屋の中心を向いて置いてあり、その椅子に座った状態で、私は、夢の中で目覚めた。
室内を見渡して、自分の目を擦る。
広い部屋の奥の方に、人影が六つ、小さく見える。背の高い、細長い人のようだけれど、ハッキリとは分からない。
よく見えなくて目を細めると、六人のうちの一人が、こちらに歩いて来るように見えた。その影は、あっという間に大きくなり「歩いてきてる?」と思った時には、その人は、目の前に立っていた。
とても背の高い細身の男性。けれど、その姿は、ハッキリとは見えない。髪の色は暗い赤、瞳の色は深い紺色、真っ白な衣装に負けないほどの白い頬。
ぼんやりした霞が、人の形をしているだけなのに、そんな風に私には思えた。それは、目で見えたのではなく、霞を見詰めているだけで、頭の中に、そんな風に映っている姿だった。
その人が、目の前に立った瞬間、人間の姿とは別に、私の脳裏には、恐ろしい映像が浮かんだ。
身の丈が、人の二倍もの大きさの巨大な馬の姿。全身が真白なその馬は、長い首を振る。たてがみが揺れる。そして、額には青く光る長い角が一本ーーーー
(ユニコーン!)
私は、心の中で叫んだ。
ユニコーンが、私を見る。
興奮した馬のように、鼻息を高く鳴らし、首を振って猛る。歯を剥き出しにして唸り、敵意を露わにした。
ガツッ! ガツッ!
憎々しげに歯噛みする音が響く。
悲鳴を上げかけて、私は、口を開けたまま動けなくなった。声を上げてはならない事を思い出したから。
ユニコーンは、頭を振り立てたてて、こちらを睨み付ける。額の角が、私の顔面に狙いを付ける。角を突き刺すべく突進してきた。
恐ろしい! なのに、瞳を閉じる事が出来ない!
(角で、突き刺される!)
私の見開いた目と、ユニコーンの怒りに燃える目が、至近距離で見詰め合う。
顔の左側に、強い風が当たったような衝撃を受けた瞬間、角は、私の左耳の耳朶を突き刺した。
不思議な事に、痛みは、感じなかった。
激しくぶつかる衝撃で、身体ごと後ろに倒れるかと思った。
私の耳に、重い物が高い所から落とされるような、激しい音が聞こえた。
強い衝撃に堪えた私が見たのは、責め苦を与えた青年のつらそうな顔だった。私から目を反らした青年は、背を向けて去って行った。
入れ替わりに、広大な部屋の彼方から現れた青年は、私の脳裏に、巨大な狼の姿を見せた。
(神狼フェンリル?!)
歯を剥き出しにして唸るフェンリルは、私の目の前で、巨大な口を開けた。すると、私の左腕が勝手に動き、フェンリルの前に差し出す形となった。
私は、恐ろしさに震える。
大きく開いた口が、激しい勢いで閉じられる。私は目を見張った。左手の手首に、重く硬い物がぶつかるような衝撃が有った。
私は、左手の手首から先が、噛み千切られて無くなったと思った。
悲鳴を堪えて、恐る恐る左手首を見ると、大きな犬がふざけて噛んだみたいな、甘噛みのような痕が、そこには有った。痛みは無いのだが、衝撃が強すぎて、麻痺しているような感覚があった。
この青年も、私を傷つけた後に、つらそうに目を伏せて、部屋の奥へと去って行った。
次に現れた青年は、私の脳裏に、グリフォンの姿を浮かび上がらせた。
グリフォンは、私の口元を目掛けて、嘴を突き立ててきた。痛みは無く、私の唇の左端の辺りに、鋭く風が吹き付けたような衝撃が有った。
激しく私にぶつかった青年は、悲しそうな目をして、離れていった。
次に現れた青年は、ペガサスを脳裏に見せた。
私の前に立つと、左手が彼の前に差し出される。歯を剥き出しにして猛るペガサスは、私の左手に激しい勢いで噛み付いた。
私が感じたのは、手の甲を強く押す感覚だった。
その青年は、難しい顔をして私の前から去って行った。
手の甲には、何かを押し当てたような跡が、横一文字に付いた。
次に現れたのは青年は、私の脳裏に、赤い翼を持つ黄金色の姿を見せた。猛々しい戦士のような男性の身体に、鷲の頭と翼が付いている。
(この姿は、神鳥ガルダーン? 人の身体に鷲の頭と翼……本当に、ガルダーンなの?)
目を開けたままの私は、脳裏に浮かぶ鷲と見詰め合う。その瞳は、怒り狂う人間の目のように見える。
私に向かって手を上げたガルダーンは、大きく手を開く。人間の手なのだが、その爪は、指と同じ長さの、先の細く尖った鋭い金属のように見える。
大きく開いたままの手の、人差し指だけを私の左頬に当て、引っ掻くような仕草をする。
私の頬には、引っかかれた痛みでは無く、強く鋭い風が吹き付けたような衝撃が有った。
驚く私を悲しそうに見て、ガルダーンも去って行った。
次の現れたのは、全身が赤い色をした青年。揺らめいて見える姿は、金色の光を発している。
脳裏には、燃え上がる炎で形作られた巨大な鳥の姿が有った。
(これは、フェニックス?)
青年が前に立つと、私の左手が再びその前に差し出された。
フェニックスは、左手の薬指の付け根を睨み付けると、ものすごい勢いで、燃える嘴を突き刺した。
驚く私が感じたのは、小枝で指を押す感覚だった。それは、本当は、骨を砕くほど強く押し付けているのだろうけれど、麻痺していて、痛みを感じないような感覚だった。
けれど、見詰める私の目には、紅蓮の炎で焼かれる指が見えていた。
(指が、燃えてしまう!)
心の中で、私は叫んだ。
けれど、焼けるような痛みは、欠片も感じてはいなかった。
青年は、くやしそうな目で私を見ると、背を向けて去って行った。
六人の霞のような青年が、遠い部屋の隅に立つ。全員が、改めてこちらを見詰め、そして背を向けた。その瞬間、部屋全体の空気が揺らいだ。
目眩を感じ、私は、目を瞑り頭を振った。
もう一度、青年たちを見ようと、目を開けた私に見えたのは、一番最初の夢で見たのと同じ広さに戻った室内だった。
(えっ? どうして?)
目眩がするのを我慢して立ち上がる。
再び、空気が揺らめいた。
目を閉じたけれど、頭の中が揺れるような感覚に続いて、身体が倒れるのを感じた。
とっさに、安楽椅子の袖に手を着く。
身体は支えられた。けれど、手の平の感触がおかしい。何か、平らで硬く冷たい物に、手の平を置いた感覚。
もう一度、頭を振ってから目を開ける。
目の前には、荒涼とした岩だらけの世界が、暗く広がっていた。
何度も瞬きをした。時には頭を振り、わざと目眩を起こさせるような仕草をして、更に瞬きした。
けれど、景色は変わらない。
自分の手を見る。身体を膜のような物が覆っており、それがほんのり白く光っている。
(ここは、ドラゴンの姿のディーが、囚われている岩山と同じ所?)
私の思いを肯定するかのように、前に来た時と変わらずに、風が強く吹いている。無数の氷の粒が、岩にぶつかって弾け飛ぶ。
この強風の中でも、服がはためく事もなく、寒さを感じずに居られるのは、前回と同じく、私を覆っている、この光る膜のおかげだと思った。これは、何かの守護の力なのかもしれないと。
私を守る何かの力に導かれて、この岩山へ来たのだと思った。
夢の中で、六人の花婿候補からの怒りを受けた。そこで、声を出してはいけないという禁忌を犯す事なく、試練を乗り越える事が出来た。だから、ディーの無事な姿に会うために、この場所に導かれたのだと。
(ディーはどこ? 呼んだら返事をしてくれるかしら?)
ディーの名を大声で叫びたかった。
けれど、声を出してはいけない禁忌は、確実に終わったという保証が無い。
岩山の頂上を見上げた私は、前に見た夢の中で、傷だらけのドラゴンが捕らわれていた、頂上の窪みへと向かった。
岩に手を掛け、踏みしめて登っていく。
前よりも、岩肌が凍り付いたように冷たい気がした。
(ディーは無事かしら? こんなに寒くい所で、大丈夫かしら?)
この時の私には、
『自分は、花婿たちの試練を耐えた。穢れも消えているはず』
との思いがあった。だからこそ、きっとディーも解放されて、傷も癒えた元気な姿で待っていてくれるはず。
そう思っていた。
岩山を登りながら、私の心に浮かんでいるのは、栞が見せた大人のディーが、暖かい服装で微笑んでいる姿だった。
(きっと、笑顔で迎えてくれるはず!)
自然と零れる笑顔のまま、岩山の頂上を目指し、辿り着く。
耳を澄ませてみても、聞こえるのは風の唸り声だけ。ドラゴンの呻く声は、混じってはいなかった。
(きっと、ディーは元気になったのよ!)
完全に回復した姿で、人間の青年の姿で、満面の笑みを浮かべるディーを想像して、私は、岩山の頂上から見下ろした。
石で囲まれた擂り鉢の底には、鎖につながれたドラゴンが横たわっていた。
その姿は、すでに命の炎が尽きた、巨大な遺体にしか見えない。
前に見た夢の中のドラゴンよりも、小さくなったような身体は、一面が赤黒い、硬い膜のような物で覆われている。
風が運んでくる臭いで、ドラゴンを覆っているのは、乾いた血なのだと、私は思った。
傷口から噴き出した血が、固まって身体中を覆ってしまうほど、ディーは、長い間動けなかった。身じろぎ一つ出来ない状態だったのだと。
(ディー!)
心の中で叫ぶと、私はディーの側へと駆け寄った。
重く閉じられた目蓋を触る。それは、ずっと前から閉じられたままのように硬かった。
ドラゴンの頬に手を当ててみた。
冷たく硬い感触が、随分長い間、この形のまま動かなかった事を思わせる。
私の時間では、前回の夢から今回の夢までは、七日間という時間が経過していた。けれど、ドラゴンの時間、いえ、この岩山の時間は、どれほど長く続いたのだろうか?
ドラゴンは、息絶えたまま、長い間放置されたせいで、身体が縮んでしまったのではないかと思った。
苦しく悲しい心が湧き上がって、私は自分が絶叫している事にも気が付かなかった。
「ディー!」
声にすべての力を込めて叫んだ。
ドラゴンは、欠片も反応する事は無かった。
絶望という言葉が、心に浮かび、刃となって私を深く突き刺す。
「ディー! どうして? どうして、ずっとつながれているままなの?」
赤黒く血に染まったドラゴンの頬に、手を当てた。石のように、冷たく硬い手触りしか感じられない。
肉が腐ったような臭いがして、私は、ドラゴンの頬に当てている手の平を見た。固まっていたはずの血が、体温の熱で溶け出していた。手の平には、ベッタリと赤黒い粘液が付いた。それが、膿んだような臭いを発生させていた。
私は、再び悲鳴を上げた。
「ディー! なぜ生きていないの? 元気な姿になったのではなかったの? 私が試練に耐えきれば、あなたは解放されて、自由の身になるのではなかったの?」
確かに『試練に耐えきれば、ディーは自由になれる』というのは、私が勝手に期待した事だった。
けれども、私は、そうである事を信じ、ディーが助かるために、今以上の責め苦を負わないために、試練に臨んだのだ。
ディーが許されないのであれば、私は『自分の行動に意味は無い』と思った。
ただ、ドラゴンを、ディーを助けたいだけだった。
「ディー……」
その名を口にすると、胸の奥が鋭く痛んだ。視界が歪む。私の目に涙が浮かんできた。
「ディー……ディー、起きて……」
涙が、頬を伝う。
血濡れた両手を、ドラゴンの頬に強く押し当てる。
「誰か……助けて……」
呟くように言うと、赤黒く濡れたドラゴンの頬に、顔を近付けた。
「ああ! ディー! どうしたら、助けてあげられるの?」
私の目から、吹き出すように、涙が零れ落ちる。
「助けて! ディーを助けて! 私の命をあげるから! 私の全てをあげるから! お願い! ディーを助けて!」
声は、強く吹く風の叫びを超えて、岩山にこだました。
頬から落ちた私の涙が、冷たいドラゴンの頬に降りかかる。
一粒の涙が落ちた。そのほんの小さな雫に濡れた場所が、微かに光る。
次の瞬間、その小さな光が、ものすごい早さで広がり、ドラゴンの全身を包み込んだ。
ドラゴンが光に包まれる。
その光が強く熱を発している。
「ディー?」
眩しくて目を開けていられない。
私は、ぎゅっと目蓋を閉じた。