5
目覚めた時、全身に汗をかいていた。
悪夢を見て、うなされたせいで汗まみれになったと思った。けれどその汗は、粘膜のように私の身体全体を覆い、ベタベタと糸を引き、何かが腐ったような臭いがしていた。
あまりの臭いに、頭痛がする。
かと言って、この臭いから逃れる方法を、寝起きの私は、何も思いつかず、考えることも出来なかった。
呆然とする。
どのくらい時間がすぎたのかも分からない。酷い状況は、ほんの少しの時間でも、永遠の長さにも感じる。
起きてこない私を案じて、お世話役の修道女が部屋を覗きに来た。
そこで、粘液まみれの私を見て、悲鳴を上げたので、この窮状は、修道院の全員が知る事となった。
汚れを取り去るためにと、院長様の指示で、湯浴みの用意がされた。それも、色んなハーブを入れた極上の薬湯で。
私が着ていた寝間着、ベッドの寝具は、洗濯場の責任者が洗おうとしたけれど、院長様の指示で、焼き捨てられることとなった。
「あれは、尋常の汚れではありません。呪いであれば、洗って綺麗になったように見えても、穢れが残っている恐れが多いのですから」
その言葉に、全員が頷いた。
体中に纏わり付くベタベタを、洗い流し終えた私は、院長様の指示で、再びお湯に入れさせられた。今度は別の種類のハーブが入れられたお湯で、三人の修道女が私の身体や髪を洗う。
体中から、何かを押して絞り出すような、ギュウギュウと力を込めた洗い方をされたけれど、私は悲鳴を上げるのも、痛いと叫ぶのも我慢した。私に付いた穢れを取り払っているのだから、文句を言ってはいけないと思った。
身体を清め終えた私は、院長様の指示で、潔斎の時に、修道女が特別に着る衣装を渡された。
「これを着るように、とのご指示です」
(どうして? 祈りの断食をした訳でも無く、通夜祈祷をした訳でも無いのに?)
疑問に思いながらも、私はその服を着た。
身支度を終えた私は、院長室に呼ばれる。
「昨晩は、何か有りましたか?」
優しく問われ、まだ頭痛が残る頭を振って答えた。
・昨晩の夢で、七人の花婿候補の全員と会ったこと。
・まだ言葉を交わしていない六人は、前にあった時よりも、姿がハッキリしない状態であったこと。
・二番目に会う人を決める余裕が無く、誰にも声を掛けられなかったこと。
・言葉を交わした人は、その前に会った時の、忘れ物が見せる姿とは、様子が違っていたこと。
「様子が違う?」
「……よく似せた、別の人のように感じました」
そこで私は、前回の夢の中で拾った、そして、自分の部屋で見付けた栞と、栞を触ると頭に浮かぶ男性の姿の事を、初めて院長様に話した。
「それも、夢に一部のような気がして、本当の事とは思えない気持ちも有って、そのせいで、変な夢を見たのかもしれません」
「でも、あなたは、その栞が見せた姿を、好ましいと、再会を心待ちにしていたのでしょう?」
院長様に問われ、私は頷いた。
「優しく、信頼できる様子の姿でしたので、その方に会えるとばかり思っていました」
と。
それを聞き、院長様は、しばしの間考えていた。
「その栞が『三度の逢瀬』の最後に落としていった物ならば、栞が見せた姿が、本当のその方の姿なのだと思います」
そう言ってくれた。
私は『ディーの様子が、思っていたのと違う事』は話した。けれど、その偽物に見えるディーが、私を「俺の女」と言ったこと、大きく開けた口の中で、先が二つに割れた舌が踊っていたことは『人に話してはいけない事』だと感じて、黙っていた。
栞の人と夢の人の、違いの大きさを『人に話せば、呪いが発動する禁忌』のように思って、恐れる気持ちを持ったままで、話している事に気が付いた。
そして、これは異常な状態。だからこそ、院長様に話さなければならない。そう思った。
「あの、これは……」
口を開けた私は、チラリと書記官を見た。書記官も、私を見て頷き、ペンを握り直した。
「昨晩見た夢の中で、信じられない事が有りました……」
そして私は話した。ディーと思わしき男性の、私に対する無体な態度、無理矢理に手首を引っ張り、ひざまづかせた事、手へのキス、顔を触った事。
「それからーーーー」
愛を乞えと命令された事、口の中の舌の先が、蛇のようだった事を。
話し終えた私は、夢の中でディーに触られた六カ所が、疼くように熱を発している気がして、左手で左の頬を触った。
その瞬間、院長様が叫んだ。
「ソフィー! それは、なんですか!」
その声に、書記官も、手を止めて院長様と私を見る。
院長様が震えながら指さしているのは、私の顔だった。
「ソフィー! あなた、ホクロが!」
書記官が叫ぶ。
言われた私も、驚いて自分の顔を触ったけれど、手に感じた感触では、変わった所は判らなかった。
二人が驚いたのも当たり前である。
聖女として生まれた人は、見た目には普通の人と変わらないけれど、身体的な特徴として『ホクロが一つも無い身体』というのがある。
聖女を生む運命の『恵みの乙女』が生んだ子供は、生まれると直ぐに全身を検査される。この検査は、健康検査の他に「ホクロの有無」が調べられる。
ここで、ホクロが無いとなった子供は、五歳、十歳、十五歳の時に、ホクロが一つでも出来ていないかを調べられるのだ。
もちろん、私も調べられて、ホクロの無い身体であると、お墨付きをもらっていた。
「ソフィー、左手が!」
院長様の声に、左手を見た私は、悲鳴を上げそうになった。
左手には、三つのホクロが有った。
ハッキリと一ミリ弱の黒点が、手の表面に生まれていた。
手首の、親指の下の方に一つ、甲の真ん中に一つ、薬指の付け根に一つ。
三つのホクロが、一つの線で結ばれたように、起点と終点と真ん中と、三つのホクロが有った。
「ソフィー、あなた、鏡を見なさい」
震える手で、院長様が手鏡を渡してきた。私も恐る恐るそれを受け取る。震える手で落としてしまわないように、両手で受け取ると、顔が映るように握り直した。
私の顔には、ホクロが三つ有った。
唇の左端の下に、左頬の中央より下の方に、そして、左の耳朶の中央にと、三点のホクロが一直線に結ばれているように見える。
鏡を落としてはならないと握り締めた手が、血の気を失って真白になる。
私は、体中が震えるのを堪えながら言った。それは、とても小さな声で。
「ここは……ホクロの出来た場所は、昨晩の夢で、偽物のあの人が、私に触れた所です」
言い終えると、手に持っていた鏡を、院長様の机の上へと、手を伸ばして置いた。
カタカタと鳴る鏡は、私の手から逃れて、音を立てなくなった。
院長様は、苦しそうに目を瞑った。そして、目を開けた時、難しい顔になった。
「ソフィー、あなたは、何か、穢れを受けたのかもしれません。これから七日の間、魔を祓う儀式を行います」
その声に、私は、頷く以外には、何も出来なかった。
儀式なので、冷たい井戸水を何度も頭から被ったり、偉い僧侶の前で跪いて、何時間も祈祷を受けたりする事を想像していたけれど、そういう、いかにも『穢れを祓う儀式』は、何一つ行われなかった。
いつもと何も変わらない生活。
その中で、特別に変わった事と言えば、食事だった。
大食堂で、みんなで食べる事は無く、全てを私の部屋に運ばれての、独りきりの食事となった。
その内容も、果物と野菜だけの食事に変わった。
煮炊きした物には、ハーブがたくさん使われたけれど、香辛料や塩や砂糖は、一つも使われなかった。
肉類が出ず、卵もミルクも出ない。魚介類は、海藻だけが少し出た。
特別に部屋に運ばれる、三度の食事以外の物は『口にしてはいけない』と言われた。
「水を飲むのは自由ですが、それ以外の全ての物は、必ず、お伺いを立てて、許可をもらった物だけをお取りください」
そう言われたので、私は、口がさみしい時などは、水を飲んでやり過ごす事にした。
この『祓いの儀式』は、七日間続けられるので、七日目の夜の『出会いの夢』は、お休みとなったと言われ、私は、胸をなで下ろした。
また、あの、偽物のディーと会わなくてはならないのかと思うと、夜に布団に入る事自体が、恐ろしい事へ足を踏み入れるような気がして、ずっと恐れていたから。
『夢はお休み』
そう聞いた時に、自分が、信じられないくらい、あの夢で出会った偽物を恐れている事を、初めて自覚したのだった。
他に、儀式が、もう一つあった。
それは『清めの水』と呼ばれるものだった。
朝に目が覚めると、ベッドから起き上がる事なく、最初にベルを鳴らすようにと言われた。
枕元に、ガラス製のベルが置かれ、身体を起こす前に、言い付けられた通りに鳴らす。
しばらくして、盥を持った修道女が二人、部屋に入ってくる。
ベッドのサイドテーブルに、盥を置いたのを見てから起き上がった私は、ベッドに腰掛けて、その盥に両手を浸す。
これは、ただ入れるのでは無く、両手を開いて、盥の底に手の平を付けなければならない。
その様子を、二人の修道女が見届ける。それが『清めの水』の儀式だった。
盥の中の水には、色んなハーブがたくさん入っている。浮かんでいるハーブを指先で除けて、私は両手を沈める。
初日、手を浸して、しばらく時間を置いて、何も変わらないので、
「そろそろ、手を上げてもいいかしら?」
修道女が、もう一人の修道女に、声を掛けた時、それは起こった。
水の中にある手の表面が、揺らいだような気がした。そして、霞んだように見えたと思ったら、煤のように黒い粉が、煙のように、手の皮膚から沸いてきて、水の中で揺らめきながら昇ってくるのだ。
二人の修道女と私は、目を丸くして、息を潜めて、これを見ていた。
水面まで昇りきった黒は、ハーブの表面を汚し、カミツレの白い花を漆黒に染めた。
初日には驚いたが、次の日には、黒の粒子は、昨日よりも少なく水面に現れ、カミツレの花も、初日よりは薄く染まった。
それを見て、修道女二人と私は、顔を見合わせて、安堵の溜息を吐いた。
毎朝の『清めの水』は、黒に穢される色合いが、だんだんと薄くなり、カミツレの花びらは、ほんのり灰色がかった白、という程度にだけ、黒の粒子に染まった。
六日目には、それだけで済むようになった事に、二人の修道女も、私も、安堵の息を吐き、お互いに見合って微笑んだ。
私のホクロも、この期間のうちに、だんだんと小さくなり、最後には、針の先で突いたほどの小ささにまでなった。
けれど、黒いホクロは、すっかりと消える事はなかった。
「でも、大分小さく、目立たなくなりましたよ」
そう修道女が言ってくれたので、鏡を見ていた私も、七日間の祓いがもうすぐ終わるのだと思った。