3
満月の夜が来た。
「ディーと会えますように」
そう願って眠りに入った私は、夢を見た。
応接室の安楽椅子に座った自分。目の前には机に向かって本を開いている少女。
「ああ! 会いたかったわ、ディー!」
声高くそう言うと、本を持つ少女の手を、両手で包み込んでしまった。
呼ばれた少女は、キョトンと驚いた様子で顔を上げる。
私は、叫ぶほど会いたがっていた自分が、恥ずかしいと思った。
これは夢の中。
自分は、毎晩、少女に会っていたので、会えなかった三日間がつらかったけれど、この少女の時間では、私がどう見えていたのか、自分では分からないし、少女が「会った」と認識したのは、前回の夢が初めてなのだから。
目を丸くして、小首を傾げる少女を見て、
「ごめんなさい!」
私は、彼女の手を包み込んでいた自分の両手を引っ込めた。
「……ディー、私の事を、覚えている?」
私の問いかけに、少女は、目を細めて見ていたけど、
「……ソフィー?」
消えるような声で尋ねてくれた。
「そうよ、ソフィーよ。ディー、元気だった?」
「ディー?」
「そうよ、ディー。あなた、ディーでしょう?」
私に「ディー」と呼びかけられ、少女は、小首を傾げたが、
「そうだ! 僕は『ディー』だった!」
少し大きな声で言った。
「思い出した! それから、見えるようになったよ、ソフィー」
ディーが、弾むように言ったので、
(私は、最初からハッキリ見えているけれど、ディーは、声を掛けてから、だんだんに見えるようになるのかもしれない)
と思った。
そして、ディーの元気な声に、嬉しくなって尋ねた。
「お母様は、元気におなりになって?」
ディーは、ハッとした顔になり、俯いてしまった。
(まだ、ご病気は、良くなっていないのね……)
私は、自分のお母様の事を思い出した。
私が五歳の頃に病床に着き、二年間の患いの後で亡くなった母と、その頃の自分を。
「お母様、お元気になるといいわね」
静かな声で、ディーに言った。
私は「早く元気に」とは言えなかった。病気の回復を早くと望むほど、もしもの時の絶望が深い事を知っているから。
ディーは、涙ぐんだ瞳で私を見詰めて、首を横に振った。
「……母様は……ご病気は、治ったの」
「まあ! それは良かったわね!」
明るく言う私に、ディーは、泣き崩れそうなのを我慢した顔になった。
「母様は、お里に帰るしか、元気になる方法が無かった。でも、父様と別れると思うと、母様の心が千切れて壊れてしまうから、命をつなぐために、全てを忘れてしまわなければならなかった」
「全てを忘れて?」
悲しそうに頷くディー見て、私は、泣きそうになった。目の前の少女が、母を失うのだと泣く、あの頃の自分のように感じた。
椅子から立ち上がった私は、ディーの横に行き、抱き締めた。
一瞬、身を固くしたディーが、私の腕に顔を埋める。
ディーが泣くのだと、私は思った。けれど、ディーは、しばらくして顔を上げた。遠くを見るように、じっとしてから、小さく溜息を吐いた。
「父様が言ったんだ」
「お父様が?」
私の問い返しに、ディーは何も反応しなかった。しばらくして、また溜息を吐く。
「父様が、もしも母様が亡くなってしまったら、父様はもう生きていけないって。だから、つらくても母様に生きていて欲しいって。自分を忘れてもいい。全てを忘れてもいいから、母様に生きていて欲しいって」
「……そう」
「自分を忘れても良いから、元気に暮らして欲しいって。おまえにだけは、自分と同じ苦しみを背負わせてしまうって……あの父様が、泣きながら謝って……」
苦しげに言葉を吐き出すディーは、大きな赤い目からポロポロと涙を零している。
そんなディーが悲しくて、抱き締める手に力が入る。
(ディー、なんて可哀想なの! なんと言って慰めれば、笑顔になれるのかしら?)
そう思って、泣きそうになる。
(私は、お母様を亡くしたけれど、生きているのに、全てを忘れてしまった母というのは、もっと悲しいのではないかしら?)
と、悲しい思いで、ディーを抱き締めた。
その晩の夢は、それで終わった。
満月の夜が明けた朝、私は院長室に呼ばれた。
「夢の中で、会いたい方とは会えましたか?」
院長様の問いに、私は、昨晩の夢を思い出して、悲しい気持ちで、
「はい」
と言った。
院長様は何も言わずに、静かに頷いた。
ただ、書記官のペンを走らせる音だけが室内に響いていた。
「つらいことが、夢の中で有ったのですか?」
院長様の問いは、とても優しい声だった。
その声に、つい、号泣しそうになってしまい、すぐには返事が出来なかった。
「ディーが……」
言いかけたけれど、夢の中での出来事であっても、ディーの個人的な事を、本人の了解も得ずに、公式な記録に残してしまって大丈夫だろうか? そう思って、言葉を続けられなかった。
前回、院長様に話をした時には、
『私が勝手に名前を付けて呼んでいて、言葉を交わした時に、名前を教えて貰いました』
そう報告したけれど、何という名前なのかは、聞かれなかったので、言わないでいた事を思い出した。
「その、夢の中の女の子が、お母様の病気の関係で、とてもつらい事が有って、その様子が、とても可哀想で……」
「そうですか……ご病気、早く良くなるといいですね」
院長様の声に、私は「病気を治すために、ディーのお母様は全てを忘れなくてはいけないそうです」とは、言う事が出来なかった。
「……はい」
とだけしか、答えられなかった。
下弦の月の夜、夢の中。
いつもと同じ応接室で、ディーは、いつもの席に座っていた。
違ったのは、ディーが本を読んでいない事だった。机の上には、真ん中に栞の挟んで有る本が置いてあった。
遠くを見ているようなディーの瞳が、真っ直ぐに私を見た。
「ディー?」
驚かさないように、静かな声で呼びかけたけれど、ディーは、緊張したように、身体を硬くした。
「ディー? どうしたの? お母様に、何か有ったの?」
私の問いに、ディーは小さく首を横に振った。
そして、しばらく黙っていたけれど、何度か、何か言おうと口を開いては、何も言わずに目線を下に向けて黙り込んだ。
それを何度か繰り返して、
「ソフィー、あのね」
ようやく話し始めた。
「僕の話を聞いて欲しい。でも、ソフィーは怒るかもしれない」
沈んだ声で言うので、私は、静かに首を横に振る。
「何でも話していいのよ」
頷いたディーが、話し始めた。
「驚かないでね。僕は女の子ではなく、男なんだ」
ディーの告白に、私は驚いた。けれど、それを顔に出さないようにして頷いた。
「今回の事、ソフィーは、どんな風に聞いて、夢を見ている?」
「そうね。夢を見る前に、これは『出会いの夢』だと、教えてもらった」
「他には?」
「七人の人と出会う、と聞いたわ」
「他には?」
「……どうして、そんな事を聞くの?」
「それは……ソフィーが、どこまで知っていて、僕は、どこまでを話して良いのかを、知りたいから」
ディーの声には、前に話した時とは違う、年上の人が話しているような響きが有った。
(この人は、七歳くらいに見えるけど、本当は大人なのかもしれない)
そう、私は思った。
「私のいる世界では『聖女の勤め』の手引きになる『導きの書』という本が有るの。それから、今までの聖女の事を記録した文献と。でも、聖女ごとに違うみたいで、共通しておこる出来事だと書かれている事だけ、教えてもらったの」
「それは? 聞いてもいい?」
ディーに聞かれて、私は、最初の『出会いの夢』での、七人の様子を、お互いに『ここに居るのは自分独り』と思っているようだった事を話した。
「僕以外は、全員が、人間の大人の男性の姿だったの?」
「そうよ」
ディーは、それからしばらくの間、何かを考えるように黙り込んだ後で、私をじっと見た。
「僕の世界では、前回、聖女を迎える機会を得たのは、ずっと前のご先祖様の時代の事だから、同じ事が起きているのか判らないけど、最初の『出会いの夢』の前に聞いた事はね」
ディーが話した事は、
・聖女を娶る事が出来ると、候補に選ばれたのは、七人。
・聖女との出会いでは、自分の選んだ年齢で現れる事が出来る。一番若くは五歳、一番年上は現在の年齢の姿。
・『出会いの夢』を見る日は、朝日が昇った時から、夜に眠るまで、選んだ年齢の時間に生きることになる。
・聖女の相手は聖女が選ぶ。なので、聖女が会いたいと思うと、その人と会える。聖女が声を掛けると、その後は、三度までその姿で会えるが、四度目からは、現実の年齢の姿になる。
この四つのことだった。
「だから、僕は五歳の姿を選んだ。聖女に会う事よりも、もう一度、母様に会いたいと思ったからだ」
ディーの落ち着いた静かな声は、青年の声のような響きが有った。
「恥ずかしい話だと思う。けれど、聖女を娶る争いよりも、もう一度だけでも、僕を覚えている頃の母様に会いたかった」
懺悔を告白するようなディーの声に、私は、硬く握った机の上の、ディーの手を包み込む。
「私も、七歳でお母様を亡くしたの。だから、判るわ、ディー。でもね」
私が「でも」と言ったので、ディーはビクリと身体を硬くした。
「お母様に会いたくて、五歳の姿を選んだのに、私が声を掛けてしまったから、今が三度目だから、ディーは、もうお母様には会えなくなってしまうの?」
私の言葉が、ディーを責めるものではなかったせいなのか、ディーは、息を潜めた後、大きな溜息を吐いた。
私は、声を掛けた事で、大切なお母様と会う時間を失ってしまう事を、お詫びする言葉を言った。
ディーは、再び大きく息を吐いて、首を横に振った。
「本当は『出会いの夢』は、聖女のためのものだから、聖女の事だけを思わなくてはいけないんだ」
そう言うと、ディーは目線を下に落とした。
「僕が五歳を選んだ時、聖女に会う資格を失ったと思った。けれど、母様には会えたし、聖女にも会えた。罪を犯した罰も与えられていない。だから、とても感謝している」
そして、上目遣いで、チラリと私を見て、また目線を落とした。
「ソフィーは、この話を聞いて、呆れただろう? 大人の男が、五歳で別れた母親を恋しがって、もう一度会いたいからと、聖女との時間を勝手に使うなんて」
「そんな事ないわ、ディー」
亡くなったお母様に会える機会が有るなら、自分だってきっと、母と会える方を選ぶ……と、私は思った。
「それから、今日、絶対にソフィーに言わなくてはならない事が有るんだ。それはね」
ディーが言ったのは、先ほどの説明に有ったように、次に会う時は、ディーは、本来の年齢の姿になるという事だった。
「僕の母は、花の精の王女だった。父と母は、周りの反対を押し切って婚姻を結んだ。けれど、僕が生まれてから、だんだんと身体が弱ってきた。この格好も、母に会うためなんだ」
ディーが、髪を括るリボンを摘まみ、ドレスの袖を摘まんで言う。
「花として生まれた母様には、獣である父の一族は、生命の力が強すぎるんだ。身体の弱くなった母には、それは、灼熱の太陽に炙られるほどの苦しみらしい。なので、僕は、男としての力を弱くするために、女の子の服を着ているんだ」
「……そうだったの」
私は、うんうんと頷いた。
「僕を軽蔑する?」
「どうして? お母様に会うために頑張る事は、けっして恥ずかしい事ではないわ」
私が笑顔で言うと、ディーは、はにかんで頷いた。それは、とても可愛い笑顔で。
「ありがとう、ソフィー」
そして、小首を傾げて、何から話そうかという顔になった。
「五歳の姿を選んだから、心の九割が五歳になった。ソフィーに声を掛けてもらった時から、姿は五歳のままで、だんだんと本当の年齢の心が戻ってきた。だからね、今朝は、これが最後のだと思って、母様に会う事が出来た。大人の心のままで、僕を覚えている母に会う事が出来た」
私は、そんな風に思ってくれた事が嬉しくて、笑顔で頷いた。
「ソフィーの年を聞いてもいいかい?」
「ええ、私は十六歳の誕生日を迎えたばかりなの」
「そうか……僕は、本当は二十四歳だ。だから、ソフィーよりも八歳年上になる」
「そう。年上のお兄様になるのね……」
「次に会う時は、大人の、本来の姿だ。だけど、今までと変わりなく声を掛けて欲しい。ソフィー、僕は、どんな形でも、きみと親しくなれた事を、大切に思っているんだ」
「ええ」
私は、少女の姿のディーとは、今が最後の出会いなんだと、ちょっと寂しく思った。
「大人のディーを見ても、きっとディーだと判るわ。輝く銀色の髪、雪のような白い頬、ルビーのように煌めく瞳。あなたのことを、とても綺麗な女の子だと思っていたの。大人の姿になっても、すぐに判ると思うわ」
「次に会えた時に、僕の本当の名前を教えるよ」
ディーが言うので、私は目を丸くした。
「あなたの名前は『ディー』ではないの?」
「それは、小さい頃の……この姿の頃の呼び名なんだ」
「そうなの……ディーは、小さいあなたの名前だったのね」
ディーが嬉しそうに頷いた。
その姿が、私には、風に揺らめいたように見えた。
「ディー?」
「あれ? 今、何かーーーー」
ディーが、立ち上がりかけた。
机に身体がぶつかり、ガタンと音を立てて揺れる。
机の上の本が、滑り落ちそうになる。
ディーが、慌てて本を掴む。
次の瞬間、ディーの姿が消えた。
ヒラリと、本から落ちた栞が、床の上に落ちた。
信じられない光景を見た私は、呆然としたまま、床に落ちた栞を拾った。
この夜の夢は、そこで終わった。