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第三十六章 楽園(後編)

ケイに導かれたワクがやって来たのは、早春の高原。腰を下ろしたワクの前方から、何やら楽しそうな声が聞こえてきます。

ワクは立ち上がった拍子に、ひざの上のおにぎりを落としました。

「もう、何をやっているのよ。ワクったら、まるで子供みたいなんだから!」

おにぎりを拾おうとするワクの手が止まります。

(コ、コハル…。)

《ワク、大好きよ。ううん、愛しています。コマリもとても懐いているから、このまま…。いえ。ああ、このままずっと一緒に暮らしましょう、と言えたらどんなにいいことか。》

(コハル…。)

夕暮れの帰り道。背中におぶったコマリの重みを感じながら、コハル、カイ先生夫妻とゆっくり歩いて家へ帰ります。今日は楽しかった――。

《ワクくん、今日は楽しかったよ。誘ってくれてありがとう。》

(カイ先生…。)

《君が近所にいた日々は僕にとっても楽しい日々だった。初対面で、ずいぶんと年上の僕にずけずけと()()をしてくれたときから、君は僕の心にすっと入ってきた。おかげで目が覚めたよ。真っ直ぐな心で人の心をほぐす天才だな、君は。どうもありがとう。》


かすみ荘の日々。コマリの笑顔。カイ先生夫妻、食料品店の主人夫妻の笑い声。

コハルに口づけ、そっと身体を重ねたときの高揚感、幸福感。

ワクはコハルの身体が折れるほどに激しく、コハルを後ろから抱き締めていました。

《ワク。ワク。ああ、ここで時が止まればいい。あなたがいなくなったら、私はどうすればいいのか分からない。》

(コハル、コハル、コハル!)

ワクはぼろぼろに泣き崩れていました。コハルをしっかりと抱き締める自分を、すぐ横から見ている自分が。その自分は、次の瞬間、奥の間に下がり、身をよじって泣くコハルを横から見ていました。

《行ってしまった。もう何もかも終わり! 何もかも。》

(すまない、コハル。でも、お前たちには、カイジさんがいるんだ。)

コハルとカイジ、コマリは、三人で食卓を囲んでいます。三人とも楽しそうに笑っています。

《ワクさん、僕は卑怯だったが、君には本当に感謝している。今の僕の幸せがこうしてあるのは、すべて君のおかげだ。君がもし、僕に、今さら帰ってくる資格などないじゃないか、と詰め寄ったら、僕は諦めて引き下がっていただろう。本当にありがとう。》

(いいえ、物事は、なるべきようになるんだよ、カイジさん。コハルと一緒に暮らすべきは、俺じゃなかった。あんただったんだよ。)

目の前の、大人になったコマリが言います。

「ねえ、ワク。お母さんには、お父さんがいるから、ワクとは結婚できないの。なので、あたしがワクと結婚してあげる。だって、約束したじゃない。大きくなったらワクのお嫁さんになるって。大人になった今でも、やっぱり優しい人が好き。やっぱりワクが大好きよ。」

「コマリ…。俺もコマのこと、大好きだよ。だけど、こんなお爺さんじゃなくて、もっと若くていい男を見つけろよ。」


「ワク。」

「コハル…。」

ワクは、改めてコハルと向き合っています。

「あなたがいなくなったときは、もう何もかもが終わりだと感じた。聞き分けの良いふりをしていたけれど、本当はあなたを心底恨んだわ。なぜ私たちを捨てて行ってしまうの? って。」

「…。」

「後になってカイジさんが戻ってきて、あなたの意図を知ったときも、しばらくは受け入れられなかった。それにあの人、半年もかかったし。あれから、戻ってくるまでに。」

「え! 半年?」

「ええ。でも…だんだん分かってきたの。ううん、腑に落ちてきたの。あなたはただただ、私たちのためを思ってくれていた。それで、ひたすらあなたの幸せを願ってた。一つ聞かせて。ワクは今、幸せなのよね?」

「もちろんさ! 俺たちは別々の人生を歩んだけど、それぞれに、お互いに負けないくらい幸せになったんだ。」

コハルは、顔を手で覆い、泣き出しました。ワクは、コハルに手を触れようとして、いったん躊躇した後、思い切ってコハルを抱き締めました。懐かしいコハルの感触。コハルの香り。ワクは、流れる涙が止まらなくなりました。それは、別離の悲しみのせいなのか、それともコハルたちの幸せを確認できた安堵のせいなのか――。いや、それはただ、自分がコハルを心から愛しているからだ、とワクは思いました。


食料品店の主人も、ワクに言います。

「お前さんがいた数年間、楽しかったよ。お前さんはいいやつだった。しかもその後、アミもお世話になったな。今では、ミイルとも一緒になって、とっても幸せになっている。あれは、お前さんと、オジジたち『お助け団』のおかげだよ。」


「アミちゃんが普段歌っている、得意な歌を何曲かお願いしたいな。」

「私が作ったオリジナルですけど…。」

「いいじゃねえか。」

ワクの目の前に座ったアミは、かすかに微笑みました。

《よかった。このおじさんはとても親しみやすそう。これなら緊張せずに歌えそう。》

焚火の炎の前で、

「ほー、上手にできているじゃねえか、この、炭。で? この炭で何の料理を作るんだ?」

《もう、バカにして! 憎ったらしい! でも、優しいところもあるのよね。私の竪琴をいつも持ち運んでくれるし。もしかして、私に気があるのかしら?》

(おいおい、お前な。)

「…もう! それじゃ、獣の唸り声だわ。」

《でも、意外と筋はいいかも。一緒に歌ってハモるのって楽しいわ。今までそんな相手はいなかったもの。》

(アミ…。)

「アミ、今さらだが、結婚おめでとう。ミイルと幸せにやっているか?」

「いやだ、ワクちゃん! もう子供が四人もいるのよ。」

「へ! そうなのか!」


そのミイルと一緒に、ワクは夜の散歩に出ています。

「…つまり、あれだ。義務感ではなくて、何でも自分の気持ちに従って動けばいいってことだ。自分がやりたいようにやる。自分が心地よくなるようにする。それが結局は正解だ。でもそうするためにまず必要なのは、自分の価値を自分で認めることだ。」

《自分の価値…。僕には難しいことだけれど。でも、頑張れるかも知れない。ワクさんが言うんだから。ワクさんに言われると、なぜだか勇気が湧いてくる…。》

(ミイル…。いや、思い付きで恰好いいこと言ってみただけだよ。俺の場合は生まれつきだからな、自信過剰。)

「なるほど、立派に独り立ちして良い仲間と居場所を見つけ、他人様(ひとさま)のお役に立つ人間になっているんだな。」

ミイルの父親が言います。

「家を出た頃とは雲泥の差だ。…よかった。皆さんのおかげです。」

「…ワクさん、ありがとうございます。オジジさん、カアサさんの力はもちろん大きいけれど、ワクさんも僕の恩人です。僕が少しずつ自信をつけるのを、一番身近なところにいて見守ってくれました。良い兄さんを持って僕は幸せです。」

「やめろよ、もったいない。お前と俺とではもともと頭の出来が全然違うんだよ。俺こそ、お前にどれだけ教えられたか。」

ワクとミイルは、思い切り抱き締め合いました。


「おじちゃん! 久しぶり!」

「?」

見知らぬ青年。

「分からない?」

「あ、お前、ひょっとして、エキボウか?」

「そうだよ。」

エキボウは本人である証拠に、くるんと空中回転をして見せました。

「おじちゃんに教わった技だ。」

「おー、元気じゃねえか。大きくなって!」

「ああ、俺、今、旅の舞台役者をやってるんだ。」

「ほ、ほんとかよ! こりゃびっくりした!」

「この界隈では結構有名なんだぜ。」

「そうか、よく頑張ったなあ。」

「あの時、おじちゃんが声をかけてくれなかったら、俺は父ちゃん、母ちゃんにも再会できず、いったいどうなっていたか…。しかも、あの旅、演劇をしている間、俺、すごく楽しかった。おじいちゃん、おばあちゃん、お兄ちゃん、お姉ちゃんもいて、第二の家族みたいだったし、何より、舞台そのものがとっても楽しかった。あれで俺のその後の人生、決まったんだ。大袈裟じゃなく、命の恩人、人生の恩人だと思ってる。」

「いやいや、言い過ぎだぜ…。」

ワクの脳裏に、初秋の心地よい風の中、「お助け団」一行の興行で練り歩いた日々が甦ります。

(楽しかったな…本当に。)


顔を上げると、そこはギンジとセツの茶店でした。

「…お前は俺の一番大事な女だ! 世界一!」

ギンジは、お得意の台詞を言い終わると、たった今演技を終えた役者のようにワクに近づいてきて、

「おう、若いの。元気だったか? その節は世話になったな。」

「ギンジさん、セツさん、今でも熱い恋人同士かい?」

「もちろんだぜい!」

「ばか。」

「あん時は、殴って悪かったな。」

「本当だよ。ああ、痛かった!」

「許せ、許せ! でも、お前さんたちには感謝しているぜ。あれがなかったら、俺たち夫婦、終わってたかもしれねえしな。」

「そうね。本当にありがとう。」

「いいや、そんな。お二人が幸せで、俺も嬉しいよ。」

(俺もコハルと添い遂げたかったけどな…。)


「お前さんは人として正しい決断をした。ワクよ、よく頑張ったのう。」

オジジが優しい微笑みとともに、そう言っています。

《ワクよ、お前さんのその優しさ、そのひたむきさ、みんなが見ているぞ。いつかもっともっと歳を取った時、お前さんは若い者たちを優しく教え諭す、素晴らしい人生の先輩になるじゃろうな。辛いことは肥やしになる。なあ、ワクよ。》

「オジジ、ありがとう。オジジはずっと、俺の究極の目標だったよ。これからもずっと。」

「なあに、わしにとってもお前さんとミイルは、可愛い息子のようじゃった。」

(オジジ…。)


「ワク(にい)、お久しぶり!」

双子の若者が声をかけてきました。

「おう、リウ、シウ! 元気だったか?」

「ああ、あのときワク(にい)とミイル(にい)に助け出してもらったおかげで、何とかまともな人生を歩めたんだ、俺たち。ワク(にい)、ありがとうございました!」

ワクは笑顔で何度もうなずきました。


「こら、お前! さぼっているんじゃないよ! 今日までに空中回転を仕上げろと言っといただろう!」

舞台の上で、カアサのムチが飛びます。

ワクはとたんに、懐かしさでいっぱいになりました。演技をしているカアサは、なぜか鬼のような役が多かったのですが、普段は仏様そのものです。

「ワク、あなた言い過ぎですよ。仮にも若い乙女に向かって。」

《でもこの子は、ふざけているように見せかけて、この場を明るくしようとしてくれているのね。ワク、あなたは本当に優しい子だね。》

(カアサ。)

そのカアサは、慈愛に満ちた顔で言いました。

「自分を大切にしなさい。」

それは、ワクにシノのことを思い出させてくれた言葉でもありました。

「カアサ、俺、カアサの姪御さんにも世話になったよ。シノさん。」

「ええ、知っている。私からもお礼を言わせてちょうだい。本当にありがとう。ほら、ここに。」

カアサの後ろから現れたのは――。

「坊や、久しぶりだねぇ。」

シノさん!

「どうしたんだい? 懐かしい人たちにたくさん会って、また泣いてるのかい?」

「ちぇっ、泣いてなんかいるもんかい。…シノさん、幸せになったんだな。良かったよ。」

「ありがとうよ。正直、あんたのおかげだよ。あんたはあの時、言った。生きることはワクワクすることだって。あたしのことも、きっとワクワクと縁ができるって。確信があるって。私はそれを信じてみようと思った。」

「そして、心から愛する人を見つけたんだな。」

「やだよ、この坊や。」

「だって、姉さんのあん時の顔。忘れられねえよ。」

シノは薄笑いを浮かべました。が、この時の薄笑いは、少し照れを含んだ、温かい笑顔でした。

「姉さん、抱き締めさせてくれ。」

言い終わらないうちに、ワクはシノをぎゅっと抱き締めました。

「やっぱり、生きることはワクワクすることだよ。」


「出ました! 名言!」

マサが立ち上がって手を叩きました。

《この人は記事にする価値がある。何より、この人間味がいい。読み手の心にきっと響く。いい人に出会えて良かった。》

「褒めすぎだよ、たまたまお前さんの前で女の子のお母さんを一緒に探しただけじゃねえか。」

「そ、れ、が、素晴らしい! いや、それだけじゃない、人生観も含め、全部です!」

「そう、あの時の不安な気持ちと、おじさんと手をつないだときの安心感は、いまだに忘れないわ。」

(ええと、誰だっけ?)

「ふふふ、分からないでしょうね。ミユです。」

「あ! あんときの。お母さんとはぐれたあの子かい。」

「はい、その節はありがとうございました。」

「大きくなったな。」


「大きくなったと言えば、この子も大きくなりました。誰だかお分かりになります?」

これには、横に立っていたケイが真っ先に反応しました。

「ああ、スズちゃんだ!」

「そう。スズです。あの時助けていただいた。」

スズちゃんは、その時のことをよく覚えていないらしく、ちょっと気恥ずかしそうな顔でうつむいています。

「ワクさん、あなたとセンタさんがいなければ、スズはどうなっていたか。」

「センタなら、ほら、あそこに。」

ワクは少し離れたところで他の人と談笑しているセンタを指さしました。すると、それに気づいたセンタがこちらへやって来ました。

「その節は本当にありがとうございました。」

「いやいや、そんな。」

スズちゃんの母親の横に目をやると、そこにはユウジンさん夫妻、息子さん、それにシズヨさんもいます。

「やあ、お久しぶりです。センタさんのお墓はちゃんと住職が守ってくれているのでね。安心なされ。」

とユウジンさん。

「知ってる。日々、感じて感謝していますよ。」

とセンタ。

「でも、俺の墓ってのも、変な気分だな。」

懐かしい人たちが次々と会いにやって来ます。彼らとの再会自体もさることながら、彼らが皆、その後幸せに暮らしていることが、ワクにとって一番の喜びでした。


ワクはいつの間にか、広い広い草原にいました。

見渡す限りのシロツメクサのじゅうたんの上に、黄色い菜の花、白いひなぎくが、あちこちに咲いています。どこからか、小川の水音が聞こえます。

頭上には、うぐいすの鳴き声。

頬を撫でる風の音。

ワクの大好きな人たちがみんな揃って、草原のあちらこちらで談笑しています。


「ワクよ、お前が行っちまって、俺は淋しいよ。いい飲み友達だったのにな。」

「キーさんじゃねえか! 奥さんも、トモオくんも元気かい?」

「ああ、元気だ。あん時は女房が失礼したな。」

「ほんと、大変失礼いたしました。」

「ああ、奥さん。こちらこそ、ケイが乱暴しちまってて。」

「いいえ、ケイちゃんはうちの子にとって、とっても良いお友達でした。ありがとうございます。」

それからキーさんが、

「あれから少しずつ変わってきたんだ。トモオも伸び伸びしてな。学校の先生になって頑張ってるよ。」

「トモオが先生!」

ケイが嬉しそうに叫びます。

「意外と似合ってる。うん、似合ってる。」

ワクはあの時のケイの様子を思い出し、胸が熱くなりました。

《オジキ、あの時、無理に学校へ行かせようとせずに、じっくり話を聞いてくれた。そうしながら、トモオのお父さんに働きかけてくれてたよね。そのことは後で知ったんだけど、その時、オジキを本当の父親みたいだとしみじみ思った。》

「その割には、反抗的になったじゃねえか、その後。」

「はは。あの頃ね。だけど、あの出来事があったからね。あれでオジキの愛情と偉大さを実感したよ。ねえ、ヒロ(にい)。」

「おお、そうだ。忘れられねえ。」

「ヒロ! ヒロ! 元気だったか?」

「元気だよ。オジキ、俺からの手紙、読んでねえだろ? せっかく返事を書いたのによ。」

「ああ、オジキは俺がヒロ(にい)からの手紙を受け取った日、ちょうどその日の朝に家出してしまってたんだよ。」

「何てこった!」

「あ、でも…。不思議だ。俺、なぜかお前の手紙の内容が分かるぜ。シゴロク家具がとても人気になっている。お前は結婚して子供もいる。嫁は、あのころにお前が惚れていた花屋の娘の妹だ…その件は俺は知らねえぞ?」

「俺とヒロ(にい)だけの秘密だもの。」

「ちぇっ、お前ら、親に報告もしねえで。」

あははは! 三人で笑いました。

「ヒロ兄さん、初めまして。シオリといいます。」

「そうか、ヒロとシオは会ったことがなかったんだな。」

「ええ、でも、お話をたくさん聞いているので、初めてという気がしないの。」

「やあ、よろしく。ヒロ、またはシゴロクっす。やあ、こんなに美人だとは思ってもみなかったよ。しかも、しおらしい感じで。シオだけに。」

ヒロは一人であはははと笑います。

「私はおじちゃんに助けられたの。おじちゃんがいなかったら、人生を早々に放棄していたかも…。」

「そうかい。俺も似たようなもんだぜ。オジキと出会う前のことを考えたら、今の自分が信じらんねえよ。」

「よせよ、お前たち。当たり前なんだよ。お前たちは俺の大事な子供なんだから。」

「オジキ!」

「おじちゃん…。」


「そしてここには、あんたを本当の息子のように思っている人がいるよ。」

振り向くと、ゴヘイさん。その脇の小柄な影は――。

「母ちゃん!」

「お帰り、ワク。また会えたのね。」

穏やかで控えめな笑顔で、ヤエさんは言いました。

「ただいま! 母ちゃん。ただいま!」

ワクの心に、甘えたいような、それでいて支えてあげたいような、何とも言えない感情が湧き上がります。

ワクはヤエさんの肩を叩いています。

「ああ、ちょうどいいよ。」

本当に幸せそうな表情。

「あなたは私の、もう一人の息子。幸せを願います。」

《ワク。私はあなたのことを、タクの代わりだと思っているのではありませんよ。あなたはあなただから、私の息子。本当のお母さんには悪いけれど、あなたは私の大事な息子です。》

「母ちゃん…。母ちゃん、俺、母ちゃんの杖を、あれからずっと使ってきたんだぜ。辛い時や淋しい時に、心の支えにしてきた。今ではもう完全に自分の一部だ。」

ワクは泣きべそをかいています。が、心は温かでした。

「ワクさん、あなたはヤエさんの心に希望の灯を与えてくれました。本当にありがとう。」

ヨシエさん、ゴヘイさん、そしてキウエモンさんまでが、声をそろえてワクにそんなことを言います。

ワクの泣きべそは号泣に変わりました。


向こうから、知らない男性が近づいてきます。ワクは、以前にどこかで会ったのかと、一生懸命に思い出そうとしますが、見当がつきません。

「あんたがワクくん…じゃな?」

「あなたは?」

「ザクロ…ヨシナザクロベエじゃよ。」

「!」

「一度会って、話をしたいと思っていた。」

「こ、こちらこそ。…でも、俺のこと、知っているのかい?」

「ああ、キウエモンのやつから聞いておるでな。」

「ザクロさん、教えてくれ。あんた本当に、山の向こうの楽園に行って来たのかい?」

「ふむ。楽園には行ったな。山の向こうではないが。」

「?」

「お前さん、もう分かっているのじゃろう?」

そう言われると、ワクは確かに、ザクロベエの言おうとしていることがもう分かっているような気がしてきました。

「楽園は山の向こうにあるのではない。山を目指すその心の持ちようそのものにあったんじゃ。」

「そうか…。」

ザクロベエの言葉は、すとんとワクの胸に落ちてきます。そんなことは当たり前じゃないか、とさえ思えました。

「楽園へ行くのに、必ずしも山を目指す必要はない。ワシはそのことが分かったんで、山へは行かず、途中から引き返した。山へ向かっていた時も、山から引き返していた時も、帰ってきた後も、ずっとずっと楽園じゃった。」

ワクは、これまでの心の中の疑念や迷いが、すっきりと洗い流される思いでした。

そうか、やっぱりそうだったのか――。


「さあ、感動的な場面だから、私たちから花束を贈りましょう。」

「フミさん! トウゴ!」

後ろにヒビキとユリもいます。

「ワクさん、僕たちからも。」

フミさんたちから、真っ白なひなぎく。ヒビキたちからは薄黄色のひなぎく。

「毎年、ワクさんの誕生日の頃には、ひなぎくが咲くんですものね。」

「いや、今日、別に誕生日じゃねえし。」

「いいえ、今日はワクさん、あなたの誕生日なのよ。新しく生まれ変わる日なの。」

「ありがとう。遠慮なくいただくよ。それと、あの…せっかくだから、一つやりたいことがあるんだよ。」

「何?」

「フミさん、ユリちゃん、ここへアミも呼んで、皆で一緒に歌いたい。ヒビキの伴奏で。」

「素敵な考えね。喜んで!」

「ワクちゃん、私を呼んだ?」

「ああ。こちらのフミさんとユリちゃんも、とても歌が上手なんだ。みんなで歌おうぜ!」

「ふふふ。」

流麗で、心の洗われるような、妙なる調べ。気づいたら、シンジロウも来て、歌と伴奏に合わせて太鼓で拍子をとっています。


ワクたちは、いつの間にか草原の一角に現れた、舞台の上にいました。真っ白な晴れ着を着て。

歌は次に、エキボウのテーマになりました。あの、酔うほどに哀愁にまみれた歌。エキボウ自身も舞台に上がり、一緒に歌っています。

その次は、明るい、心が躍るような、晴れやかな歌。

ユキ坊も舞台に上がり、歌に合わせて「メチャクチャ踊り」を披露します。ワクも歌いながら踊りました。

ワクの大好きな人たちが皆、客席でワクたちの歌に聞き入っています。

アミの竪琴、ヒビキの笛、シンジロウの太鼓は絶妙に絡み合って調和します。その横には…あら、ギンジもこっそり参加していました。例の、オカリナ似の笛を吹いています。まあ、調和しているとは言い難いのですが。

ワクは舞台の上から、観客席の面々に目をやります。

大好きなナズナが、茅葺の親方と一緒に微笑んでいます。

サブロウも、家族と一緒に手をたたき、楽しそうに笑っています。サブロウの父親も元気そうです。

ヤエさんも、ゴヘイさん、ヨシエさん、キウエモンさん、ザクロベエも、笑顔です。

オジジ、カアサが温かく微笑んでいます。

その隣には、薄笑いのシノさんとその夫。

ミイルは、子供たちに囲まれていました。そう、アミとの間の子供たちです。その隣には、リウとシウ。

その横の人たちは、コハル、コマリ、カイジに、カイ先生夫妻、食料品店の夫妻。みんな、ワクに対する愛情に溢れた顔をしています。

その隣に、センタとキミとお祖母さん、そしてケイとシオリ。シオリの膝の上には、これから生まれる予定の赤ん坊が。

ヒロは妻と子供たちと一緒です。一番下の子を膝に乗せて、幸せそうに。

スズちゃん、ユウジンさん夫妻、その息子さん夫妻、シズヨさんもいます。

マサも、トウゴも、コウサクとショウとユウも、セツも、キーさん夫妻も、トモオも、従兄弟のイサクも、みんな楽しそうに笑っています。

採石場の仕事で出会った、石を投げつけられたという旅人の男もいて、笑顔を浮かべています。不良集団になびこうとしているところをワクが説得して救った、例の少年も、母親と一緒に笑っています。寝たきりの父親の面倒を見ていた青年も、父親と一緒に笑っています。なぜだか、父親はとても元気そうです。ワクが立ち寄った村で、農作業の手ほどきをした若者たちも。その村の長老も。ワクに蝶々の捕り方を教わった、小さな男の子たちも。

そして。

その隣には、ワクの父親が立っています。

「ワクよ、息子よ。本当によく頑張った。良い人生を送ったな。お前は俺の誇りだ。」

隣には、見知らぬ女性が、優しい笑顔を浮かべて立っています。それは、ワクがその顔を知らない、ワクの母親でしょうか。その足元にはジロウ。尻尾を盛んに振っています。


みんなの顔に笑いが溢れています。

自分の大好きな人たちが一同に集まって、自分を囲んでいる。ワクは幸せで幸せで、はちきれそうです。目の眩むようなまばゆい光に包まれ、この上ない安心感で満たされました。


さあ、明日からまた歩き出そう。いつまでも憧れの尽きることのない、山を目指して。こうして皆からたくさんの元気をもらったので、まだまだ歩けそうだ。これからも、もっともっと色んな出会いがあるに違いない――。


それから、何も分からなくなりました。

ただただ、光が眩しい、と思ったのが最後でした。


ワクは永遠の眠りについていました。


ついに最後まで、山へたどり着くことはありませんでした。が、山はいつもですぐそばに、いえ、心の中にあったのです。その山を目指して旅をする中で、ワクは数多くの人に出会い、その一人一人と幸せを与え合い、様々な出来事を味わいました。たくさんの人たちとの交流を通し、たくさんのワクワクを見つけました。それこそが、ワクの人生でした。彼の父親が誇りに思うのは、まさにその点なのでした。

山にたどり着くことはありませんでしたが、彼は十分、楽園にはたどり着いていたのです。


いえ。


()()()()()()()()()()()()()()()()


安らかな眠りについたワクは、少年のように屈託のない、満面の笑みを浮かべていました。


さあて、またワクワクを見つけに行こうか!



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