第二十五章 ありがとう
夏の終わり。
まぶしい陽光の中、空高く湧き上がった入道雲に向かって、ケイははしゃいで駆けます。
左右の高い山肌に挟まれ、切り開いたような地形の集落。その集落の入り口に、どうやらたどり着きました。段々になった地形に、家々の石垣が目立ちます。石垣の上に家、その背後に木々の緑。さらにその上に真っ青な空。暑さには辟易するものの、とても清々しい光景です。
そして、子供にはその暑さも関係ないようです。小さな広場に子供たちが数人集まってわいわい騒いでいるのを見つけ、ケイは一目散に駆け寄っていきます。旅の生活を通して、初めての相手でもすぐに仲良くなれるコツをすっかり身に着けてしまったようです。
「ははは。俺たちはへとへとだが、子供は元気だな。」
汗を拭き拭き、ワクが言います。
「そうだな。」
そう答えるセンタも、疲労の色を隠せません。この夏の暑さは、センタの身体にも少々こたえているようです。
ワクは、この集落で数日間の宿をとり、センタの身体をゆっくり休ませたいと思っていました。が、繁華街と呼べるほどの町中もなさそうです。宿屋がなければ、民家に泊めてもらうことができるでしょうか。
集落の入り口にほど近い、藁葺屋根の大きめな民家で、どこか泊めてもらえそうな家がないか、尋ねてみることにしました。
「こんにちは!」
交渉事は、自然とセンタの役割になっています。その手腕は、未だに衰えを知りませんでした。
「はーい。」
玄関口に出てきた奥さんを相手に、何やら楽しそうに談笑するセンタ。その雰囲気を見る限り、冷たく断られることはおよそないと思われます。
(俺も一人旅を通してたいがい世慣れをしてきたが、あいつのあの才能にはどうしても敵わねえや。)
若い頃には、その能力に嫉妬したこともありましたが、今はただ嬉しく、有難いばかりです。
やがて、奥さんと大きく手を振り合い、ワクのところへ戻ってきたセンタが言うには、
「この先にあるユウジンさんという人の家で、よく旅人を泊めているそうだ。そこならいけるだろう、とよ。…それから、ほれ、戦利品。」
大きな大きな饅頭が三つ。
「万が一、ユウジンさんとこがいっぱいだったら、是非うちへいらっしゃいとさ。普段はよっぽどいっぱいにはならねえが、今は秋桜が満開だから、だと。」
「へえ、この辺は秋桜が有名なのかな。」
ワクは改めて感心しました。この短時間で、そこまで相手の心を開く人柄。考えてみれば、ケイもその特長を受け継いでいます。もう、以前からの友達のように溶け込んでいるではありませんか。
(参ったよ、お前たち親子には。)
ユウジンさんの家の特徴は、ひときわ高い石垣と、他の家の二倍はあろうかという大きな二階建ての家屋。難なくその家は見つかりました。
「こんにちは! ごめんください!」
立派な門の前で呼びかけると、すぐ目の前に広がる大きな庭にいたと思われる、一人の女性が出てきて応対してくれました。初老の、小柄な女性です。
「ご用の方は、呼び鈴を引くですよ。でないと、奥までは声が届かねえから。今は、私がたまたま庭にいたから良かったけんど。」
「呼び鈴?」
「これですわ。」
門の前に、紐が一本垂れ下がっています。
「引いてごらんなせ。」
センタが引くと、
チリーン――
奥の方でかすかに鈴が鳴るような音がしました。
「へー、すげえや。」
とワク。
「呼び鈴、初めてかね?」
「ああ。生まれて初めて見た。」
「もっとも、この村でも、この家にしかないけんどな。」
ほほほほほ! 女性は声を立てて笑いました。
「ああ、それはそうと、何用ですかね?」
「あ、ええ、俺たちは旅の者なんだが、今夜一晩、泊めてもらうわけにはいかねえかと思って。」
「ああ、そうだろうと思ったよ。奥さんに聞いてみてやるよ。ちょっと待っててな。あ、あんたたち、お二人かいね?」
「いや、あと、子供が一人いる。そこの広場で、ここの村の子らともう遊んでいるよ。」
「あれさ、それはそれは。じゃ、ちょっと待っててな。」
「ありがとう。」
しばらくして、先ほどの女性が戻ってきて、泊まってもよい旨を告げました。
「奥に離れがあるからの。そこへお泊りなせえ。今晩はもう一組、お客があるから、一緒になるが。まあ、広ぉい部屋だからよろしかろうて。あ、食事が入り用だったら、出してやるがよ。」
「ああ、助かるよ!」
女性は、まんざらでもない、という様子でふん、と鼻を鳴らしてからくるりと向きを変え、ワクたちの先に立って案内してくれました。
案内されたのは、普通の部屋が三つほど入りそうな大広間でした。先客が一組。若い夫婦でした。
「お客さん、もう一組、今晩はお泊まりなさるでな。」
「やあ、構いませんよ。どうぞよろしく。」
「こちらこそよろしく。」
人懐っこそうな夫婦でした。聞けば、郊外に群生している秋桜の時期に合わせて、毎年秋口に来るのだとのこと。
「来たら必ずここに泊めてもらうんですよ。ユウジンさんご夫妻も、息子さんご夫婦もいい人たちでしてね。あ、それから、あのシズヨさんも。」
案内してくれた女性は、シズヨさんというらしいです。
荷物を置いて、一息入れてから、ワクとセンタは、ユウジンさんというご主人に挨拶に行きました。
「ああ、お子さんもいらっしゃるのかね。ご遠慮なく泊まっておくんなせえ。」
優しそうに目を細めて笑う、初老の紳士でした。
子供が好きで、十数年前に、子供連れを対象に宿泊させて世話をする活動を始めたが、いつの頃からか、子連れにこだわらず、秋桜見物の客から旅人まで、来るものは拒まずの状態になったそうです。奥さんも、手料理を振る舞うのが楽しみだとのことで、夫婦そろってこの奉仕的な活動を楽しんでいる様子でした。
「世の中には立派な人がいるもんだな。」
「ああ。」
息子夫婦も一緒に暮らしており、スズちゃんという三歳の孫娘もいました。
「旅のお方ならご存じないかもしれないが、すぐそこに、秋桜が一面に咲いているところがあるでの。地元では『秋桜が原』と呼んでいるが。それを見に行かれるといい。」
「はい、一緒に泊まっているご夫婦にもそう聞きました。ぜひ行ってみます。」
離れの広間に戻り、センタが横になって体を休めている間にワクはケイを迎えに行きました。そろそろ夕暮れに近い時間帯です。
ワクとケイは、この家の孫娘であるスズちゃんと一緒でした。この三歳の幼女は、すっかりケイに懐いたようです。
「ケイ! ケイ!」
と後をついて回ります。ケイもまんざらではない様子で、時々スズちゃんをぎゅっと抱きしめたり、抱き上げたりしています。
「そろそろおうちに帰ろうか、スズちゃん。」
「うん。」
言いながらも、スズちゃんはケイに未練があるようです。ワクに手を引かれながら、
「ケイー! あしたもあそぼー。」
「いいよー!」
センタが目を細めます。
「すっかり仲良しじゃねえか。かわいい子だし、将来、嫁にするか?」
「なんだそれー。」
隣の夫婦が横から口を挟みました。
「珍しいですね。あの子、結構人見知りだと思うんですがね。初めて会ったお兄ちゃんに、いきなりあんなに懐いているなんて。」
夕食は、隣の夫婦と一緒に母屋へ出向き、ご主人の家族、それにシズヨさんと一緒にいただきました。シズヨさんはお手伝いさんですが、もう長年この家に住み込みで働いていて、半分家族のようなものだ、いや、家族そのものだ、とのことでした。
「へえ、それじゃ、ずっと旅をなさっているですか?」
息子さんがワクに言います。
「ええ、僕の場合は十七からだから、もう三十三年になります。」
「すごいですね。え? 待てよ。たしか、ワクさんといいなさる? 苗字は?」
「オオモリ、ですけど?」
「ああ、そんな名前だった。」
「?」
「伝説の旅人、オオモリワクさんでしょ?」
「!」
ここでまたその言葉を聞こうとは。
「ワクって珍しい名前ですで、ちょっと憶えてたですよ。」
「どうしてご存じで?」
「こないだ泊まった人――その人も旅人だが、その人が言ってたですよ。公共読物で読んだんだが、世の中にはこんなすごい旅人がいるんだよ、と。」
「へえ!」
ワクとセンタは声をそろえて驚きました。あの町から一年ほど歩いた村にいるのです。こんなところまで噂が届いていようとは。
その夕食は、「伝説の」ワクの話題で盛り上がりました。ワクは終始、身が縮むような思いでした。どうもこの話題は苦手です。大人たちの脇で、ケイとスズちゃんは仲良くじゃれ合っていました。何やら、赤い紙風船のようなものを叩いて飛ばしています。
「それはそうと、実は俺たち、できたら一泊だけじゃなくて、五、六泊ほどさせてもらえないかと思っているんですが。こいつが少々身体の調子を崩していまして、少しゆっくりして、疲れを取ってやりたいんで。」
「ああ、いいですよ。そういうことなら、ゆっくりして行きなせえ。」
とユウジンさん。
「ありがとうございます! お代はおいくらほどで?」
「いや、宿代はいただいておりませんでの。飯代だけ、お気持ち分だけいただければ、と。」
「ありがとうございます!」
宿の心配もなくなりましたし、明日はゆっくりと秋桜見物をしよう、とワクとセンタは話しました。
「ここで身体の疲れをすっかり取ろうぜ。」
「ああ、すまねえな。厄介かけちまって。」
「別に厄介じゃねえよ。つまらないこと言うなよ。」
翌朝、隣の若夫婦は帰って行きました。
ワクたちは、遅めに起きて朝食を済ませると、さっそく「秋桜が原」へと向かいました。
見渡す限り、一面の秋桜。
ワクたちの立っている場所からは、その果てが見えません。
わずかにひつじ雲の浮いた、薄青い空の下。
桃色、紫色、黄色、白色、橙色。
花の上を吹き抜ける、さわやかな風。
今日は昨日よりもだいぶ暑さが和らいだ分、本格的な秋を感じさせます。
センタはふーっと深呼吸をしました。
「ここで一日中寝てたら気持ちいいだろうな。見てみろ、ケイ、まるで天国だぜ。」
「うん、そうだね。」
ケイの反応は幾分あっさりしています。子供には秋桜見物よりも、広場で皆と騒ぐ方が良いのでしょう。
センタの顔色が昨日よりもずっと良いように見えて、ワクは嬉しく思いました。
(いっそこのまま、この村あたりに落ち着いちまった方が、こいつにとってはいいのかもしれない。無理して山なんぞを目指さないで。こいつはそれを望まないだろうが…。)
しばらくは、ワクもセンタも無言で秋桜に見入りました。ケイは若干退屈そうでしたが。
その頃、ユウジンさん宅の二階では、スズちゃんの母親が、スズちゃんを着替えさせようとしていました。
「ケイとあそぶ! スズちゃん、きょうもケイとあそぶ!」
「はいはい、ケイお兄ちゃんがいいと言ったらね。だけどその前に、お着替えをしなさい。それは寝間着だわよ。」
「あーん、はやくあそびにいく!」
「だめ、着替えてからでないと!」
「あ、あ、ふうせん!」
昨日の赤い紙風船を思い出したようです。
「はいはい、ここにあるでしょ。」
部屋の隅に転がっていた紙風船に息を入れてふくらまし、スズちゃんに手渡す母親。
「きゃあー! ふうせん、ぽーん、ぽーん!」
風船を叩き始めるスズちゃんに、
「さあ、お着替えが先よって言ってるのに!」
構わず風船を叩き続けるスズちゃん。風船は叩くたびに舞い上がり、次第に窓の方へ向かっていきます。
「あ、これこれ、危ないわよ。」
その時、叩かれて舞い上がった風船は、窓から少し外へ出ました。スズちゃんはそれを取ろうと――。
「危ない!」
母親の目の前から、風船を抱えたスズちゃんの姿が消えました。
ワクたち三人は、秋桜を堪能して、ユウジンさん宅へ戻る途中でした。ケイは退屈だったと見えて、先ほどからワクにちょっかいを出しながら歩いています。
「おじちゃん、つかまえてみな!」
ワクはそれにいちいち反応し、
「こいつー! こら待て!」
隣のケイの方に体を向けながら歩いています。
ユウジンさん宅の門をくぐり、庭を通って、母屋のすぐ手前まで来たとき。
前を見ていたセンタが、突然、無言で走り出しました。
同時に、
「キャ―!」
叫び声。
ワクは何事かと、センタに、そしてその前方に目をやります。
瞬間、ワクは自分の目を疑いました。
二階の窓から、小さな物体が下へ移動してきます。ゆっくりと。
いえ、それは、落ちてきているのです。そしてそれは、スズちゃんでした。赤い紙風船を大事そうに抱えて、何が起こっているのか分からないというような、ポカンとした表情で。
それはワクの目の前で、コマ送りのようにゆっくり、ゆっくりと落ちてきました。
センタが、落ちてくるスズちゃんに向かって、こちらもゆっくり、ゆっくりと駆けて行きます。
ワクは無意識に、自分もセンタの後を追いました。
スズちゃんとセンタは交わりました。いや、センタが、落ちてきたスズちゃんをしっかりと抱きとめました。次の瞬間、センタはひざをつき、その拍子にスズちゃんを、ワクの方へ放り上げました。ワクは放り上げられたスズちゃんを受け止めました。頭が下向きで、もう少しで地面に頭を打ちつけるところでした。
ワクの視界の中のコマ送りが解除され、すべてが通常の速度に戻りました。
ワクはスズちゃんを地面にそっと座らせます。彼女は驚きのあまり、目をぱちくりして、言葉を失っています。が、怪我はないようでした。
頭上から、叫び声が聞こえます。
「ぎゃー!」
センタは――。倒れていました。気を失っているようです。
ケイが駆け寄ってきて、立ちすくみました。
ワクはとっさに、センタの脈を確認しました。大丈夫、ちゃんと脈がある。
ケイが泣き叫びます。
「お父ちゃん! お父ちゃーん!」
スズちゃんも、負けじとばかりに、泣き叫び始めました。
しばらくは、二人の子供の泣き声があたりに響き渡るばかりでした。
センタは離れの大広間に運び込まれ、ほどなくして目を覚ましました。気を失っていたのはほんの短い時間でした。医者が呼ばれ、診察を受けましたが、ひざを少し擦りむいている以外、特に怪我はなく、気絶は心臓に負担がかかったためだとの診断でした。治療法はなく、とにかく心臓に刺激を与えないように安静にしてゆっくり休むように、とのことでした。
スズちゃんも、怯えてぐずぐずと泣いてはいますが、怪我ひとつありませんでした。
「本当にありがとうございました! 何てお礼を言ったら良いか分かりません。スズは、打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれません。命の恩人です。」
「いやいや、そんな大げさな。」
照れて、力なく笑うセンタ。
その夜。
ケイが寝る前に、センタは何を思ったのか、ケイをぎゅっと抱き締めました。突然抱き締められて戸惑ったケイは、しばらくポカンとしてされるがままにしていましたが、やがて、
「苦しいよ、お父ちゃん。」
と、自分から体を離しました。
「悪い悪い。お前がどれくらい大きくなったかな、と思ってな。」
「変なの。」
ケイが寝た後、ワクとセンタは布団に横になりながら、小声で話し合っています。広い部屋の片隅にたった三人。話し声は思ったより大きく室内に響きます。
「身体は大丈夫か? 苦しくないか?」
「ああ、もうなぜか、すっかり大丈夫なようだ。」
「そうか。しかし凄かったぜ。今日のお前は。」
「自分でも驚きだが、体が勝手に動いてた。けど、お前が横に来てくれなかったら、危なかったな。」
「あれは、俺が横に来ていることが分かってて放り上げたのか?」
「ああ、実はよく見えなかったんだが、それでもお前は必ず横にいる、と確信があった。」
「何ということだ――。」
センタの瞬間的な機転も大したものですが、ワクとの息の合い方も大したものです。
「やっぱりお前は大したもんだよ。」
「え? 俺? 自分があれだけのことをやっておきながら、俺の方を褒めるのか、お前は?」
「ああ。」
センタはかすかに笑い、
「やっぱりケイを安心して任せられる相手は、お前しかいねえ。」
「どういう意味だよ?」
「いや、俺にもしものことがあったら…その時は頼むな。ケイを山の向こうの楽園へ連れて行ってやってくれ。」
「…。」
ケイの寝顔を覗き込みながら、
「こいつも、お前になら懐いているからな。最近は、どっちが本当の父親か分からなくなっているだろう。」
「馬鹿なことを言うな。」
「とにかく、よろしく頼むよ。本当は自分でこいつを山へ連れて行ってやりてえが。」
「馬鹿やろう。当たり前だろう。お前は俺と一緒に、山の向こうの楽園で暮らすんだ。」
「楽園か。…ああ、きれいだったな、秋桜。天国へ行ったら、一日中あんなのを見ていられるんだろうなあ。」
「ああ、だが、まだまだ何十年も先のことだがな。お前は、年老いて寿命が来るまでは死にゃあしない。」
センタは、少しだけ口を閉じ、宙を見つめてから、
「これまで楽しかったよ。いろいろと本当にありがとう。お前に出会ってなかったら、俺の人生は全く違ったものになっていた。感謝するぜ。」
「なんでそんなことを言うんだ。」
「いやあ、一度、けじめとして言っておかねえと、と思ってな。」
「何だよそれ。何のけじめだよ?」
「お前なら必ず山へたどり着ける。」
「いや、だから、一緒に…。」
センタの表情はやけにさっぱりしていました。
「ケイを幸せにしてやりてえ。俺やキミの分も。…思いやりを忘れない人間でいて欲しい。今のまま。それさえあれば、人は幸せになれる。そう言ってやってくれ、こいつに。」
「そういうことは自分で言えよな。」
「…。」
センタは黙り、ワクに向かって微かに笑いかけ、それからしばらくの間、ケイをじっと見つめていました。そして静かに目を閉じました。
外は、秋の雨がしとしと降り始めたようです。
ワクはなかなか寝付かれず、うとうとしたと思ったら雨の音に目を覚ます、ということを繰り返し、明け方になってようやく深い眠りに落ちました。
なかなか寝付けなかったわりに、ワクは朝早めに目が覚めました。
窓からは、早朝のまだ弱い光が差し込んでいます。チュン、チュンと小鳥の囀りが聞こえます。
ワクは、隣で寝ているセンタに目をやりました。まだぐっすりと眠っているようです。寝息さえ立てず、静かに。
良かった――。よく寝ているようだ。
自分の布団をたたもうとして、その瞬間にふと気になってもう一度センタの顔を見ました。
心なしか、笑みを浮かべているように見えます。
ワクは変な胸騒ぎがして、センタの顔に自分の顔を近づけました。
息の音が聞こえません。呼吸に合わせてかすかに上下するはずの胸も、微動だにしません。
ワクは慌てて、センタの顔を自分の両手ではさみました。
冷たい――。
心臓に耳を当てます。鼓動が聞こえません。
ワクは、大変なことが起こっていることを察しました。
「せ、センタ。センタ。」
両肩をつかんで揺さぶります。センタは力なく揺さぶられるままに動くだけで、反応を示しません。
「おい、起きろ! おい、センタ! 起きろよ!」
ケイがワクの声に目を覚ましました。
「どうしたの?」
「おい、センタ、センタ! なあ、頼む、頼むよ! 起きてくれ!」
「ねえ、おじちゃん? …お父ちゃん? お父ちゃん!」
ケイもセンタを揺さぶり始めました。センタの服は乱れ、痩せた胸元があらわになります。が、センタは目を開けません。
うわぁぁぁぁぁ!
ケイの絶叫。
いやだぁぁぁぁぁ!
ワクはとっさに、ケイを力いっぱい抱き締めました。ケイはワクの腕の中で、泣き叫びながら、力の限り暴れました。ワクは長い間、自らも涙を流しながら、泣き喚くケイを強く抱きすくめていました。
窓の外では、朝の新鮮な空気の中、小鳥たちが変わらずに囀り続けています。
ユウジンさんと息子が駆けつけてくれ、医者が呼ばれました。
医者の診断では、息を引き取ったのは明け方頃で、その際に痛みや苦しみはほとんどなかっただろう、とのことでした。
ワクとケイは、茫然としたままでした。ユウジン家の人々が手配をし、村の寺から僧侶が呼ばれ、簡素な葬式が営まれました。
その間も、ケイは虚ろな目をして黙ったままでした。立っていられるのが不思議なほどでした。ワクも、溢れる涙を止めることが出来ませんでしたが、ケイが心配で、ケイの肩をずっと抱きかかえていました。いえ、ワク自身も、ケイの肩を抱くことで、かろうじて自分を保っていたのかもしれません。
寺の敷地内で、センタの亡骸は焼かれました。
センタの身体が炎に入れられる瞬間、ケイは目を見開き、全身を震わせ、声を上げて叫びました。
うおおぉぉぉぉぉ!
ワクはまた、ケイを力一杯に抱き締めました。
骨になったセンタ。その大半は、寺の墓地の片隅に立ててもらった墓碑の下に埋められました。が、骨の一部は、ワクのたっての頼みで、ケイの持っている御守りとワクの御守りの中へ入れられました。これで、センタはこれからもケイやワクと一緒に旅が出来ます。いつか、山の向こうの楽園に着いた時にも、向こうで一緒に暮らせます。
「本当に何とお詫びして良いか。申し訳ありません。センタさんのことは、私たちの責任だと思います。スズを助けてもらったばっかりに…。」
涙ながらにそう頭を下げるスズの母親に、ワクは、
「いいえ、そんなこと…。」
と答えるのが精一杯でした。誰を責めることも出来ません。最後まで、他人様のために行動して命を落としたセンタ。それはセンタらしい最期だったと、ワクは思いました。
後にワクはケイに言いました。
「いいか、お前のお父ちゃんは本当に立派だった。最後の最後まで、人に感謝されるような生き方をした。スズちゃんを恨むんじゃないぞ。センタ自身、あの子を助けるために走ったことを後悔していないはずだ。あいつはそういう奴だ。スズちゃんは、助けてもらった命の重みを感じながら生きて行くことだろう。」
「…うん。」
幼いケイには、まだ難しいことでしょう。でもケイになら、いつか分かる日が来ると、ワクは思いました。
それから一週間ほど経った後、ワクとケイは、ユウジンさん宅をあとにしました。シズヨさんの作ってくれた、大量のおにぎりを持って。
ワクは、いっそこのままこの村にケイと住もうかと、何度もそう考えました。そうすればセンタの墓の世話も出来ます。が、それがセンタの望みだとは思えませんでした。ケイを連れて山を目指すこと。やはりそれが、センタに対する責任を果たすことになるのだと、ワクは結論づけたのでした。
ケイの懐には、センタの入った御守りが、しっかりとケイの肌に密着していました。
爽やかな秋晴れにもかかわらず、それは悲しい、悲しい出発でした。ワクはケイの手を引き、ゆっくりと、しかし力のこもった一歩を踏み出しました。
遥か前方の山も、共に泣いてくれているようでした。




