第二十四章 友の病
「そりゃ面白いじゃねえか。」
話を聞いて、センタは大笑い。
「英雄だな、おい。お、伝説の旅人、オオモリワクだ! 俺も握手してくれよ、ワクさん!」
「うるせえ! 黙りやがれ。」
大いに照れて一喝するワクは、自分が持ち上げられていることよりも、久しぶりにセンタらしいおどけた言動が見られたことで、心が浮き立ちました。
次の日は、センタも一緒に「読物」を見に行きました。ワクは、また周囲の人たちに気づかれたらどうしようかとビクビクでしたので、上着の襟で顔を隠し気味にしました。
「へー、こうしてみると、いよいよ大したもんだなあ。何ていうか、こう、あのワクが、立派になったもんだ。」
センタはなんだか父親のような感想を漏らします。
「良かったな。」
かすかに寂しげな表情は、ワクの気のせいでしょうか。
そこへまた、
「あの、あんた、このワクさんの知り合いかい?」
「え? どうしてだい?」
「今、あのワクが、って言ってたじゃないか。」
「あ、ああ、昔ちょっとな。」
「へえ。うらやましいな。こんな伝説のお方と知り合いだなんて。」
「いや、まあ、そ、そうだな。ははは。」
ワクは居心地が悪くて仕方がありませんでした。同時に不思議な心持ちでした。
何であれ、口頭で聞くよりも、文字になっている方がぐっと信憑性が増す。同じ内容であっても。それが人間の心理だ。自分は、伝説なんかではもちろんない。マサが勝手にそう書いただけのこと。でも、文字になって公共の場に貼り出された時点で、それは世間一般に受け入れられた真実であるかのように受け取られてしまう。文字の威力の大きさというものを、ワクは思い知りました。
「今頃どこを旅しているのやら。あいつときたら。」
センタは調子に乗ってとぼけたことを言っています。
見物人の一人が、さっさきからチラチラとこちらを見ているような気がします。いや、明らかにワクの顔と読物の似顔絵を見比べています。ワクは、まずい、と思い、センタとケイの手を両手でつかみ、そのままそろそろと人だかりから離れるように歩き出しました。
「どうしたの、おじちゃん?」
ケイは大きな声で問いかけますが、センタは勘付いていたようです。手を引かれながら、ニヤニヤ笑っています。
近くの茶店に入ると――。
「あの…。」
脇に座っている客のひとりが、ワクに声をかけてきます。
「ひょっとしたら、お前さん…。」
「え?」
「あのオオモリワクじゃないか?」
「あ、いや、あの…。」
「そうだろ、いやあ、間違いねえ。」
「…。」
「おい、この人、オオモリワクだよ!」
「え、あの、伝説の旅人の?」
「そうだともよ!」
周囲がざわつき始めました。
「ワクさん? あの、伝説のワクさん?」
「あ、あ、はい、まあ。」
「きゃぁぁ! 握手してください!」
もみくちゃにされそうになり、ワクはセンタに目で助けを求めました。センタはただ穏やかに笑っています。
「逃げよう!」
センタは、やれやれというように立ち上がりました。ケイもそれにならって立ち上がりますが、その表情は、もったいない! と言っているようでした。
茶店を出て往来を歩いている時も、すれ違う人の何人かは、振り向いてこちらをじっと見ているか、小声で何やら囁いているようでした。
ようやく宿にたどり着きました。
「面白えな。実に面白え。」
センタは、笑いながら言います。
「長く生きていると、良いことがあるもんだな。」
「なんだそれ。俺は迷惑だ。」
「なんで?」
「本物の俺は、あんなに立派じゃねえ。」
「いいじゃあねえか。立派な部分だけを取り上げて書いたらああなるんだぜ。確かにお前の一部だ、嘘じゃねえ。」
「お前、俺をからかって喜んでいるだけだろう。」
「いや…。」
センタは意外に真面目な顔になって、
「お前のやってきたことが認められて、俺は嬉しい。お前の人生そのものが認められたようでな。」
「…。」
「俺もお前も、人生を旅に捧げてきた。まあ、俺はちょっと中途半端だけど。その生き方を、ああいう形で認められた。たしかにあれはマサの個人的意見を書いたに過ぎないが、でもあれは、これから世間一般の見方になる。きっとなる。お前の生き方は、立派なんだよ。」
「…。」
「本当は、自分が認められるのが一番嬉しいが、その次に嬉しいのは、自分の家族や親友や、そういった身近な人間が認められることだ。だから俺は、今心から喜んでいる。」
「センタ…。」
「お前も悩んできたじゃねえか。自分のやっていることが正しいことなのか、意味のあることなのか。旅人というものについて、心無いことを言われて落ち込んだり、旅をする人生に何の意味があるのかとさんざん考え込んだりしてきたんじゃねえか。これからそれが、報われる方向へ進んで行くんだぜ、きっと。俺はそんな気がする。」
センタの意見はそのまま自分の意見でもありました。その時のワクは、今後、旅人が世間でもてはやされるようになっていくかもしれないという期待よりも、こんな年齢になっても自分の心を分かってくれる、いや、自然に自分と同じことを同じように考える無二の存在がいることの幸せを強く感じていました。
ワクは言います。
「しかし、何という変わりようだ。ちょっと前までは、俺は人間の屑のように言われて、同じ旅人仲間が石を投げつけられたりもしたんだぜ。」
「ああ、聞いたよ。そんなもんだろ、人の世の中なんて。価値観や人の評価なんて、時代とともに移り変わる。頼りにならないものなんだ。」
「そうだな。そんなものは頼りにならねえ。本当に頼れるのは、信頼できる人とのつながり。でももっと大事なのは、人からどう思われるかじゃなくて、自分で自分をどう思っているか、だ。自分で自分を認める心、それが基本だ。」
「ああ。まあ、そういう意味では、お前は生まれつきその能力は高いから、安心だな。」
「…。」
「そういや、マサは姿が見えねえな。もうこの町は出て行ったのかな。」
「そうだな。てことは今頃、この町で取材したものを、次の町で掲示しているのかもな。」
「かっこいいな!」
ケイが瞳を輝かせて言います。
「やっぱり物書き、かっこいい。旅の物書き。旅の物書きお助け人。そういうのになる!」
「なんだか欲張りだな。あれもこれも。大丈夫か、おい?」
とセンタ。
「大丈夫だろう。ケイならやれるぜ。」
とワク。
心がほっこり温まる三人でした。
翌日、ワクの出世祝いに、小料理屋にでも行って食事をしようということになりました。まあ、ワクの件は口実で、三人とも、たまには美味いものを腹一杯食べてみたい、と考えただけだったのですが。この町は何となく人が生き生きとして感じの良い町だったので、何となく小料理屋にでも行く気になった、というのが本当のところでした。
できるだけ離れた場所にある小料理屋を探して、宿を出て三人でぶらぶらと歩きます。ワクは、またいつすれ違う人から声をかけられるかと、おっかなびっくりでしたが、幸い、今日はありませんでした。ひょっとして、昨日一日で人の熱は冷めたのでしょうか。
町外れ近くに、感じの良さそうな小料理屋を見つけました。通りを挟んだ向かい側から、通りを渡ろうとしたとき。
店の前で水を打っている女性がいました。頭に頭巾をかぶり、いかにもかいがいしく働く清楚な女性という感じでした。
その女性が顔を上げた瞬間、ワクは身体が固まりました。
(シノさん!)
記憶の中のシノよりは、幾分ふっくらしています。が、どう見てもシノのようです。ただ、まとっている雰囲気がまるで違います。声をかけようか迷っていると、店から背の高い男性が出てきました。彼女と親しげに何かを話しています。それがいかにも幸せそうに見えて――話しかけるのをためらわれました。
ワクはずっと足を止めたまま、女性を見ていました。センタとケイも、ワクの様子に何かを感じて、立ち止まっています。
男性が中へ入って行った後、女性がふとこちらを見ました。ワクが意味ありげな視線を投げると、女性ははっとして、一瞬、薄笑いを浮かべたように見えました。懐かしい、シノ特有の薄笑い。
(やっぱりシノさんに違いない。姉さん、幸せそうだな。)
肉親の幸せを喜ぶような思いで、目が潤みます。
女性は、小さく頭を下げると、店の中へ入って行きました。
(よかった。幸せになったんだな。よかったよ。)
怪訝そうに立っているセンタとケイに、
「悪い。この店はちょっと都合が悪くなった。違う店にしよう。」
シノの新しい暮らしの邪魔をしたくなかったのです。
三人は、その町を発ち、山へ向かって歩き出しました。
センタの体調はだいぶ良くなり、もうほとんど健康な人間と同じように旅が出来るまでになりました。ワクはここで医者に診せて一安心しようと、センタに受診を勧めました。
「いや…。」
「ん? 何か問題か?」
「まあ、金もかかるしな。」
「金なら、心配するな。俺の蓄えから出せばいい。」
「いや、そういうわけにはいかねえよ。」
「何をいまさら。」
「とにかく、医者はいいよ。」
「なんだそれ?」
センタが頑ななため、無理強いするわけにもいかず、受診の話はいったん立ち消えになりました。
ある夜。
今夜は野宿です。センタももう一人前に薪拾いなどができますので、今日はセンタ親子が薪拾い、ワクは先ほどまでの釣りをまだ続けていました。
談笑しながら林の中へ入っていった二人。ケイも久しぶりの親子水入らずのせいか、楽しそうです。
と、ほどなくケイが駆け戻ってきました。
「おじちゃーん!」
ひどく慌てて、涙目になっています。
「どしたー?」
「お、お父ちゃんが!」
ワクの心臓が、わし掴みにされたようにギュンと軋みました。
「どうした!」
「苦しんでる。座り込んで。」
ワクは無言で、センタのいると思われる場所へ急ぎました。後からケイも必死でついてきます。
「センタ!」
センタは太めの木の根元にもたれ、地面に座り込んでいました。
「大丈夫か!」
「ああ、だ、大丈夫だ。ちょっと、まあ、ちょっとあれだ。調子がな。」
青白い顔で力なく笑って見せました。
「しばらくここで横になれ。」
「ああ。」
少し落ち着いたところで、ワクはセンタを背負って、野宿予定の場所まで戻りました。医者に診せるべきですが、周辺に集落がありそうな場所ではありません。今夜は何とか様子を見て、明日、近隣の集落を見つけるしかありません。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れただけだし。横になってりゃ楽になるからな、それで問題なしだ。」
本人はそう言います。ワクは不安を感じながらも、今夜はそれで凌ぐしかないと判断しました。
センタはそれからすぐに横になり、やがて穏やかな寝息をたて始めました。ワクとケイは、昼間に釣った魚を焚火で焼いて、夕食にしました。
「お父ちゃん、大丈夫かな。」
「ああ、ちょっと疲れたんだろう。最近はもう、普通の健康な人間と同じように歩いていたものな。ちょっと油断しちまったな。けど、大丈夫だ。心配するな。」
「うん…。」
そうは言いながら、ワクは一晩中、センタの寝顔を見て過ごしました。横になっても眠れそうにありませんでした。何故だか胸騒ぎがします。ケイは時々、
「お父ちゃん…。」
と寝言を漏らします。父親と楽しく遊んでいる夢を見ているのか、あるいは、父親の具合が悪くなった夢を見ているのか――。
不安な一夜が明ける少し前、ワクは思い立って、近くの集落を探しに出ました。じっとしていられなかったのです。
夜明け前の闇が、体と心を包みます。真っ暗闇のようで、ほどなく訪れる夜明けの光を内包しているような、絶妙な空気。この夜明け前の繊細さが、ワクの心を優しく癒してくれるようでした。
(大丈夫、ただちょっと疲れただけだ。また十分気をつけながら旅を続ければ、問題ないさ。)
夜明けを待って、ワクが見つけておいた最寄りの村の医者へ、三人で向かいました。ワクがセンタを背負っています。
「すまねえな。重いだろう。」
「何だよ、今さら。」
言いながらワクは、センタの身体が思ったよりもずっと軽いことに衝撃を受けていました。やはり旅をすることが負担になっているのでしょうか。
朝一番で、医者を叩き起こすように、戸を叩きました。
医者はセンタを床に寝かせて、体のあちらこちらを診ると同時に、最近の体調を細かに聞き取りました。
「どうも、心臓だな。」
ケイだけを別室に待たせて、センタとワクとで診断結果を聞いたとき、医者は開口一番、そう言いました。
「心臓?」
意外な結果に、ワクは思わずオウム返しに言いました。
「ああ、心臓だ。」
「肝臓じゃなくて?」
「肝臓の方はだいぶ良くなっているぞ。そりゃ、完全じゃあないが、まあ、あれくらいの状態なら、普通に暮らしていける。肝臓には疲れが一番良くないから、決して無理をしてはいかんし、酒も厳禁だが、旅もまあ、できるだろう。問題は、心臓じゃな。」
「心臓がどうなっているんで?」
「弱っている。非常に。もともと心臓が弱い性質だったと見えるな。」
「…。」
センタは特に驚いた様子がありません。じっと黙っています。
「正直、いつ何が起こっても不思議じゃない。」
「ど、どういうことだ?」
「心臓の発作はいつ起こるか分からない。せいぜい、刺激を与えないように、穏やかな暮らしをすることだ。」
「治せないのか?」
「無理だな。ただ、静かにしていれば、天寿を全うするまで生きられる可能性も十分にある。」
「旅は?」
「旅の内容にもよるがな、一般的にはあまりお勧めはできんな。どうしても刺激的なことが多くなるだろうからな。ただ、じっと大人しく暮らしていれば安心かというと、そうでもない。こればっかりは何とも言えん。」
「…。」
廊下の椅子で待っていたケイに、ワクは笑顔で言いました。
「心配ねえ。やっぱりちょっと疲れただけだとよ。」
ケイは安堵の表情になり、次の瞬間には泣きそうな笑顔になりました。センタは、軽く微笑んでうなずき、ケイの頭を優しく撫でました。
その夜は、村の宿屋に泊まりました。ケイが寝てから、ワクはセンタに、知っていたのではないかと問い詰めました。
「…知ってたよ。」
やっぱり。
「前に医者に診てもらったときに、肝臓のことと一緒に、心臓のことも聞いたんだ。」
「それなのに、お前、旅を…。」
「だって、定住してたって、長生きできる保証はないんだぜ。定住することが、旅よりもずっと楽だなんて思わねえ。それはそれで、大変なことや衝撃を受けることはたくさんあるぜ。旅の方が大変だなんてことはねえ。だったら俺は、旅を選ぶ。」
「いや、でも、それでもやっぱり…。」
「ただな、お前に再会する前までは、それでも迷いがあった。いつどうなるか分からないのは仕方がねえが、発作が、野宿の最中なんかに起こったらどうしよう、ってな。町中にいるときはなんとかなる。が、周りに人気のないところで俺の発作が起きちまったら、さすがにケイが可哀そうだと思って。ま、そう思いながらもずるずると旅を続けていたんだけどな。」
「…。」
「今はお前がいるから、俺に急に万一のことがあっても、心配ねえ。何だかお前には悪い気がするが。」
「…。」
ワクは言葉が出ませんでした。ただただ、哀しい、哀しい思いが胸に湧き上がってきて、そのまま全身を包んでいくのを感じていました。
三人はそれからも、旅を続けました。
センタの発作はあれ以来なく、表面上は平和に、旅は続きました。
ケイは元気に、見る風景すべて、出会う人みな、起こる出来事すべてから心の栄養を受けとり、すくすくと成長しているようです。そんなケイを、センタは目を細めて眺めるのでした。
ワクとセンタは、相変わらず昔のように、物事に対して同じ反応を示すことが多くありました。それはまるで、お芝居の台本に書いてあるかのようでした。
空を見上げて、
「今夜は一雨来そうだな。次の町へ急ごうか。」
道ですれ違った人が何やら困ったような様子をしているのを見て取り、
「どうしました? 何か出来ること、あるかい?」
ケイが軽いいたずらをすると、
「こら坊主! 尻を叩くぞ!」
道端の茂みの中にウサギを見かけると、
「おお、かわいいな。」
それからにんまりと顔を見合わせて、
「食うか?」
すべて些細なことではありますが、それらはすべて、二人の口から同時に、ほぼ同じ言葉で発せられるのでした。
そんな二人が仲良く並んで、好物の焦がし胡麻団子をほおばっている姿を見て、しまいにケイは言いました。
「お父ちゃんが二人いるみたいだ。」
ワクは、こんな日々がずっと続いて欲しいと思っていました。気を付けさえすれば、きっと大事には至らない。無理をさせなければ。きっと。
気のせいか、山も、以前より近くに見えます。いよいよ、これまでの旅の成果が、目に見え始めたのでしょうか。
そうして、秋、冬、春、夏。いつしか一年が過ぎていました。
ケイは十一歳になりました。




