第二十一章 満天の星
部屋の外が何やら騒がしいようです。
「どうしたら…。」
「…さあ、困ったな。」
バタバタと人が早足で歩く音。複数の人間のようです。
まだ宵の口。夕飯前です。
ワクは、宿でうたた寝をしていたのです。ここのところ野宿が続いて、少し疲れ気味でしたので。
何が起こっているのかと思い、部屋から外へ出て、受付の方へ行きました。宿の従業員が二人、立ち話をしています。
「どうしたんだい? 何かあったのかい?」
「ああ、お客様、すみません、騒がしくしちまって。」
「別にいいけどよ。」
「な、何でもないんですのよ。なんとか直しますのでね。」
「何か壊れたのかい?」
従業員は、あ、というように口を押えて、
「え、ええ、まあ、ちょっと。」
話を聞くと、湯沸かし装置の調子が悪いとのこと。湯が沸かないと、料理にも風呂にも支障が出ます。
「へー、そりゃ大変だね。ご主人か女将さんは?」
「あいにく二人とも留守で。」
「じゃ、俺がちょっと見てみるよ。」
「え?」
「昔、宿をやってたことがあるんで、ひょっとしたら分かるかもしれねえ。」
見てみると、着火部分の調子が悪いのですが、応急手当はできそうです。ワクは簡単な処置をして言いました。
「これで今晩一晩くらいはもつと思うよ。」
「まあ! ありがとうございます!」
翌朝。
「じゃあ、お世話になりました。」
「こちらこそ。お客さん、本当にありがとうございました。おかげで本当に助かりました。」
「いやあ、そんなこと。たまたま知ってたから。」
「またこの近くに来ることがあったら、うちへ寄ってくださいね。」
「ああ。」
(山を目指す限りは、もうここへ来ることはないだろうが。)
「それと、昨晩の宿代はただにさせてもらいますよ。」
「え。そんな、いいのかい?」
「ええ。」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ。すまないな。」
「こちらこそ。…ほら、お客様がお発ちだよー!」
女将さんが声を張り上げ、手を叩くと、従業員が四、五名集まって、整列してお見送りしてくれました。
「…まいったなあ。」
苦笑いのワク。玄関でぎこちなく振り返り、一礼して、宿を後にしました。
通りの曲がり角まで来て、宿屋が見えなくなると、正直ほっとしました。
(大げさだよな。たまたま自分にできることだったからやっただけだし。大して手間もかかってねえし。まあ、感謝されれば悪い気はしねえけど。)
旅生活を通していろんな経験をしてきました。もちろん未経験の事柄も山ほどありますが、一か所に定住して、一つの仕事に従事して暮らしている人と比べれば、経験の幅は広いのです。もっとも、「広く浅く」であって、それが良いことなのか、ワクには自信がありませんでしたが。
が、中には、本当にふらふらしているだけで、出会う人たちにとって何も役に立たないような輩も沢山います。そうした人たちのおかげで、「旅人というのは役立たずの無責任な遊び人だ」という見方が世間では強くなっているのを、ここ最近は感じています。全員がそうだというわけではありませんが、旅人に好意的な人とそうでない人とが混在しているようでした。
やはり、ずっと旅を続けている自分の生き方が正しいのかどうか、気持ちに迷いがあります。以前訪れた町のように、旅人が子供に危害を加えるかのように思われ、警戒されることは、その後も時々ありました。また、幸い、自身の経験ではありませんが、石を投げられたという話も聞いたではありませんか。
――俺は、生きることはワクワクすることだと思っている――
(シノさんにはあんなことを言ったけれど、最近ワクワクしてねえな。)
ワクワクするのにも、基礎力が必要なのです。それは、自分のことを肯定的に見る心の姿勢です。ワクは生まれつきそれが強く、自分のことを無価値な人間だなどとはあまり考えたことがなかったのです。ところがここ最近は、自分は他人様に対して胸を張れないような屑なのだろうか、と考え込むことすらありました。
梅雨どきです。
ここのところ、雨が降ったり止んだりの天気が続いています。通り沿いの反物屋の前に、きれいな蒼い色をした紫陽花が咲いています。
(紫陽花、か。すると、今、六月か…。)
ワクの誕生日は五月。気づいたら、先月、誕生日が過ぎています。まあでも、それを祝ってくれる相手も久しくいないワクには、どうでもいいことのように思えました。
(いくつになったんだっけかな。四十五? いや、六か。)
恩人扱いで恭しく送り出された宿屋のことももう忘れ、ワクは何となく沈んだ気持ちで、通りを歩いて行きました。
遥か前方には、相変わらず小さく山が見えます。その日はその後、また雨が降り始めました。まるで、空が、堪えていた涙をまた流し始めたかのようでした。
次の朝。
宿屋の一室で目覚めたワクは、その瞬間から、どことなく違和感のようなものを感じました。
窓から朝陽が明るく差し込んでいます。今日は、梅雨時にしては珍しく、からっと晴れた天気のようです。
体調が悪いのかな。初めはそう思いましたが、特に調子の悪いところはなさそうです。もちろん昨夜は、いつぞやのように、堀の堤防で寝たりしもていませんし。
それでもワクは、腹に何か異物を押し込まれたような圧迫を感じ、そわそわと落ち着かず、時々鼓動がどきどきと速まります。
(何なのだろう…。)
それは、さしずめ「胸騒ぎ」というか、「焦燥感」というか、何かしらそういった類のものではないかと思われました。が、その得体の知れない違和感を除けば特に悪いところもなく、身体も普通に動くので、起き上がり、朝食を採り、宿屋を出る準備をしました。荷造りをしている間も、落ち着かなさは変わらずワクを襲いました。むしろ、時間が経つにつれて強くなっているようにすら思えました。
通りで紫陽花を見かけます。昨夜までの雨に濡れて、きれいに、でも控えめに、しっとりと光っています。
ワクは立ち止まって、ふっとため息をつきました。
今日あたり、何か臨時の仕事を見つけようかと思っていました。懐が少々淋しくなってきたからです。が、今日は仕事に限らず、何事かに集中できる気がしませんでした。
(まあいか。仕事は明日にしよう。)
今日は夕方までただ歩いて、たどり着いた町でまた泊まれば良いだろう。まだ二泊や三泊分の宿代くらいはあります。それに、お金がなければ野宿でもいいのです。寒い時期でもありませんし。
多少蒸し蒸しはしますが、さほど悪い季節ではありません。今日は天気も良く、空は青空。雨上がりの朝なので、空気や周囲の建物がキラキラしています。町には活気が溢れ、行き交う人たちが生き生きして見えます。子供たちのはしゃぎ合う姿もありました。
そんな中、ワクはひとり、腹のあたりにモヤモヤを感じながら、歩きます。周りの景色をぼんやりと眺めながら。
茶店に入って、腰を下ろします。
「親父、団子ひとつ!」
「へい!」
醤油味のきいた、香ばしい団子を頬張ります。
(うまいものでも食えば、気が紛れるだろうか。)
こういう場合に、辺りをやや警戒する癖が、最近のワクにはついていました。周りの客たちがどんな話をしているか、自分をじろじろ見ている客がいないか、まず確認します。自分でも決して好ましい癖だとは思いませんが、なかなか抜けません。
どうやらここには、そんな敵はいないようです。みんな楽しそうに、わいわいガヤガヤ話しています。緊張が少しほぐれました。が、腹のあたりの違和感は消えません。どうもそれとは別もののようです。
隣に座った同世代くらいの男と適当な世間話をしながら、団子をゆっくりと食べ終わると、ワクは店を出ました。
ほどなく町中を抜け、田畑が広がる景色になりました。昼過ぎには、ちょっとした山道にさしかかりました。木漏れ日で意外と明るい、緩やかな上りの小径を行きます。
(この分だと、夕方までに次の集落に出るのは難しいかもしれねえな。)
今までの経験からくる勘で、ワクはそう思いました。野宿のつもりでいた方がよさそうです。夜の食糧を昼間のうちに確保しておこうと考え、ワクは道の脇の下の方を流れる清流で、魚を釣ることにしました。
清流の脇に腰を下ろし、拾った枝で作った即席の釣り竿で、釣り糸を垂れ、じっと座っています。澄んだ水の中に、大小の川魚が気持ち良さそうにスイスイ泳いでいます。うまくすれば五匹や十匹は釣れるでしょう。
頭上で囀る小鳥。
気持ち良く晴れた青空から降り注ぐ木漏れ日。
山の中らしく、すっきり冷ややかに頬を撫でる風。
普段のワクなら、ウキウキして、口笛のひとつでも吹きたくなるような環境です。が、今日のワクは、断続的な不安感に襲われていました。漠然とした、しかし抗い難い不安。なぜだか、こんなことをしている場合ではない、こんなところでのんびりと釣り糸などを垂れている場合ではない、という焦りが、波のように、何度も押し寄せては引き、また押し寄せるのでした。
山へたどり着けるかどうか分からない。自分のしていることの是非が分からない、そういった不安感が気持ちを不安定にさせているのだ。そう思いました。いや、そう思うようにしました。それ以外に、原因を求める先が思い浮かばなかったからです。
陽光が少しだけ勢いを失い、木々や川面のきらめきが僅かに色褪せてきました。
魚は三匹しか釣れていません。そして、日暮れまでにはまだ少し間があります。が、ワクはもう釣り竿をしまって、今夜の寝床を探すことにしました。ただじっと釣り糸を垂れているのも、かえって苦しいことが分かったからです。
小径から逸れて木の生い茂る中へ分け入り、道のないところを少し進むと、開けた場所に出ました。周囲を木々に囲まれ、地面は柔らかい苔状の下草で覆われています。寝るにはちょうど良い場所でした。
ここに一泊しようと思い定め、ワクは焚火のための枝を拾い集めに行きました。やがて、腕にいっぱいの枝を抱えて戻って来ると、枝の塊をかたわらに置き、そこへごろんと寝転がります。夕暮れに近づき、少し薄くなってきた青空を無心に見上げます。枝拾いのために身体を動かしている間は弱まっていた不安感が、静かに身を横たえると、再び強まります。
だんだんと陽光が衰えて行きます。
少しずつ、少しずつ輝きを失い、色褪せてゆく世界。まるで年老いて、若い頃の回想に涙しているかのような。
風に煽られてざわざわと不吉な音を鳴らす木々。高まる不安感。ドクドクと速まる鼓動。
(今日はもう日が暮れかけている。日が暮れてからあれこれと考えても、良いことは考えないものだ。今日は早めに寝よう。明日になれば、気分はすっきりしているだろう。)
薄暮の中。拾い集めた木の枝で、焚火を起こします。火が点いて安定した頃、辺りはほぼ真っ暗になりました。
釣った魚のうち、一番大きなものを火で炙ります。串刺しにされて、炙られる魚。さっきまで清流の中を生き生きと泳ぎ回っていた魚。その虚ろになった目から、脂がしたたり落ちました。まるで涙のように。
貴重な命を犠牲にしている自分。山へ行くなどという、身勝手な欲望のために、魚を犠牲にしている自分。魚は、ワクが食べなくても、どのみち他の動物に食べられるかもしれません。それが自然の生態系です。けれど今のワクには、それが自分の罪のように感じられるのでした。濡れた魚の目が、自分にそれを訴えかけます。
――お前は何をやっているんだ。愚にもつかない欲望のために、周囲に迷惑をかけて。周囲を犠牲にして。家族も捨て、出会った大切な人たちともことごとく別れて――
早めに寝ようと思っていたことも忘れ、ワクはかなり長い間、仄暗い物思いに耽っていました。
どれくらいそうしていたのでしょうか。
魚はいつの間にか炭になって地面へ落ちていました。周囲は真っ暗です。ワクの目の前には、朱色の小さな炎だけが、チラチラと燃えていました。かすかな風に、炎が控えめに揺れています。己の存在をことさら声高に主張することなく、ひっそりと生きている、とでもいうように。ワクの心にそっと寄り添うようでした。
その時、ワクはふと気配を感じ、空を見上げました。今まで気づきませんでしたが、星が、これまで見たことのないほど多く、これ以上ないくらいにさざめいています。
「大丈夫だよ。」
ふと、そんな声が聞こえました。いや、耳に聞こえたのではなく、腹のあたりに直接響きました。腹のあたりに響いた声は、しかし、見上げた空から降りてきているようでもあり、それは不思議な感覚でした。
とても懐かしい声。郷愁を誘う、聞いただけで胸がいっぱいになるような声。
「大丈夫、お前は間違っていない。お前のやっていることは正しいのだよ。」
父ちゃん!
「何も心配するな。心配しないで、お前の道を行け。お前は必ず幸せになれる。」
「父ちゃん、父ちゃん、ごめんよ。俺、おれ、約束が守れない。父ちゃんを迎えに帰るって言ったのに…。」
「…。」
返事はありませんでした。代わりに、ワクの目の前に、あの時の光景が広がりました。あの時――そう、ワクが父親に、山を目指して旅に出る決心をした旨を告げた時です。
「向こうで住む場所を見つけたら、きっと迎えに来るよ。待っていて。」
父親は寂しそうな笑顔で、返事をしませんでした――。
…そうか。
「お前は何も心配しなくていい。お前は悪くない。すべてはなるべきようになるのだ。すべての出来事は起こるべくして起こるのだ。」
あの時。あの時、父ちゃんはきっと分かっていたんだ。俺が迎えに戻ることなんてないってことを。
涙が溢れ出ました。
ワクの慚愧の念を押し流すように、お腹を中心に、温かいものが広がってゆきます。ワクは改めて、父親の愛の大きさを思い知っていました。そしていつの間にか、父親に抱かれている気分になっていました。幼い頃、父親の腕の中で眠りについたように、体中が温かいものに包まれていました。絶対的な安心感に包まれていました。
涙は次々と流れ落ち続けました。心の迷いや穢れをすべて洗い流すように。
安心感に包まれながらも、ワクは確信していました。
(今、今この時、父ちゃんは天へ旅立とうとしている。最後に俺に会いに来てくれたんだ。)
父ちゃん――父ちゃん――。
「頑張れ、息子よ。俺の可愛い息子よ。」
瞬間、父親が、光に包まれた長い木々のトンネルを抜け、その向こうへ去ってゆく映像をはっきりと見ました。
目が覚めると、焚火の燃え跡の前にワクは横たわっていました。あたりがうっすらと明るくなり始めています。夜が明けようとしているのです。早朝のひんやりした空気が、肌に爽やかに感じられます。
上半身を起こし、大きく伸びをしてから、爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込みました。
だんだんと世界が明るくなっていきます。最初の光の一筋が射し込むと同時に、朝の早い小鳥たちが、チュンチュンと、この世に明るさが戻った喜びを表します。
ワクはゆっくりと、しかし力強く立ち上がりました。
昨日あれほど自分に付き纏った不安感、焦燥感はきれいに消え去っています。
これまでの自分は間違っていなかった。そして、これからも父ちゃんが見守っていてくれる。
再び立ち上がって歩いて行ける、自信と勇気が心に漲り、ワクは遠くの山を――木々の間にかろうじてその先端を見せている山を――きっと見据えました。




