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第十七章 先達

左手にすすきの穂を持ち、口笛を吹きながら、すたすたと歩を進めます。さっきまで軽い登りだった山道は、ようやくその峠を越え、下りに転じました。

(やれやれ。道が全部下りならいいのにな。いや、登りがあるから下りがあるのか。登ったり下ったり。人生みたいだな。)

口笛はいつの間にか、昔アミの作曲した、エキボウのテーマの旋律になりました。容赦のない、胸やけがするほどの悲しい曲調ですが、今はそれが胸にぐっと来ます。

(それにしても、意外とはっきり覚えているもんだな。)

昔と言ってもたった四年ほど前のことなのですが、今のワクには遠い昔のように感じられているのです。

(すべては過ぎ去って行く、か。嬉しいことも、悲しいことも。)

この三年間は、ずっとひとりで歩いてきました。ちょうど山の多い地方に差し掛かっていることもあり、人里離れた場所を、黙々と歩くことも多くありました。一日中誰とも口をきかないことも。あまりに孤独で、自分の影に向かって話しかけることもしばしばでした。

「なあ、俺たちはずっと一緒だよな。旅に出てから。いや、生まれた時からか。どこへ行くのも一緒だな。一緒に、どこへ向かっているんだろうな。山? その向こうの楽園? そんなもの、誰も見たことがない。いや、見たことのある人を知らないだけか。俺たちはいずれ山に着くんだろうか。それとも…。なあ、俺たちの人生って、何なんだろうな。俺たちって…。」

やがて山道を抜け、平坦な道に出ました。同時に視界が開け、前方に田んぼと畑が一面に広がります。あちこちを紅葉に彩られた景色の片隅に、山が、ほんの小さく見えます。

足を止めて、山をしみじみと眺めます。直立したまま、長い間山を眺めた後、ふーっとため息を漏らします。

ワクは四十歳の誕生日を数か月過ぎたところです。もうそろそろ青年とは呼べませんが、まだまだ若さは残っている、そんな年頃です。


田んぼの向こう、山の斜面に沿って、わずか三軒ほどの家が見えます。まだ夕暮れまでには少し間があるのですが、この、集落とも呼べないような集落を逃したら、次はいつ民家に巡り合えるか分かりません。少し早いですが、ワクは今夜の宿の工面をしようと思いました。泊めてもらえるよう、民家に当たってみることにします。野宿がどうしても無理というほどの季節ではありませんが、人の温もりが恋しい心持ちだったのです。

田んぼの畦道の草を踏み、だんだん右手に迫ってくる山肌を仰ぎつつ、少しずつ傾いていく秋の黄色い光に包まれながら、一歩一歩、足を片方ずつ、ゆっくりと前へ出します。なぜだか、先を急ぎたくない心境でした。今、歩いている瞬間瞬間を感じて。

(いっ、ぽ、ずつ、いっ、ぽ、ずつ、ゆっ、くり、ゆっ、くり…。)

幼い頃によくやった、片足跳びの()()()()のように、ゆっくりとした拍子に合わせて。子供っぽい物言いとしぐさに、自嘲的な乾いた笑いを浮かべながら。足元だけを一心に見つめて。

家々の手前側、山肌に沿って墓地がありました。ここから見えている家はわずか三軒ですが、墓はもう少し多く――十基以上はあるようです。どこか近くに、他にも家があるのでしょうか…。それにしても、秋の午後の日差しを浴びた墓地は、うら淋しいような、懐かしいような、独特の柔らかさをまとっているように見えました。

三軒の茅葺屋根のうち、一番手前の家の前に、ワクは立ち止まりました。


こぢんまりとした家でした。(くさむら)の中にひっそりと佇んでいる、という表現がぴったりです。家の手前には、玄関のすぐ前までススキが生い茂り、家の背後には山肌が迫っています。今にも山に圧し潰されそうな風情です。

ここには果たして人が住んでいるのだろうか。

けれどもワクは、なぜかこの(たたず)まいに心惹かれるものがありました。このままここを素通りする気にはなれません。とにかく声をかけてみることにします。

「こんにちはー!」

…。

「こんにちはー!」

あまり広い家ではないので、聞こえていないとは考えにくいです。留守なのか、あるいはやはり誰も住んでいないのか。

と、家の裏手から――山肌との間の隙間から――人影が現れました。手拭いを頭に被っています。ごく小柄で痩せた老婦人でした。

婦人は、遠目にワクの姿を見て、一瞬驚いたように目を見開いて立ち止まりました。が、それはほんの一瞬で、次の瞬間には何事もなかったかのように歩み寄って来ます。

「はい、こんにちは。お待たせしましたねえ。何用でございましたか?」

目が柔和に笑っています。相対(あいたい)する人の心の棘をみんな溶かしてしまいそうな、慈愛に満ちた表情。ワクは、不覚にも涙が出そうになりました。

「あの、実は、旅をしていまして、今晩、雨露をしのぐ場所を探しているんですが、よければどこかへ泊めていただけないかと…。離れでも馬小屋でも、どこでもいいんです。」

と言って、ワクはしまった、と思いました。見るからに小さな家。離れや馬小屋など、あるわけがありません。気を悪くされたかな、と思いきや、

「まあ、そうでしたか。こんなところでよろしければ。」

とにこやかに快諾。少しゆっくり目の口調が、こちらの心を柔らかく包んでくれるようです。

「お入りなさい。」

玄関へと(いざな)います。

「え、あ、いいんですか?」

「ええ。結構ですよ。せっかくこんな辺鄙なところへ来てくださったのですもの。ゆっくりしていらっしゃい。」

「はい、ありがとうございます!」

ワクは、何かとても温かいものを感じました。が、それがどこから来るものなのか、はっきりとは分かりませんでした。

建付けの悪い玄関の引き戸を開けると、そこは予想に(たが)わず、狭い住処(すみか)でした。台所を兼ねた土間が一室、その奥に居室がひとつだけ。婦人はその居室で寝起きをしているのでしょう。すると、ワクの寝る部屋はありません。土間に布団を敷いたらいいでしょうか。いや、藁でも何でも構いません。屋根がありさえすれば。

「さあ、ここへお座りなさい。お兄さん、遠くからいらっしゃったのですか? お疲れでしょう?」

「は、失礼します。」

ワクは居室の座卓の前に胡坐(あぐら)をかきます。

「もう長いこと、旅をしています。」

「そうですか。お疲れでしょう。」

婦人は、どこから来たのか、どこへ行くのかなどと詮索することなく、ただ、お疲れでしょう、を繰り返しました。

薄暗い部屋の壁に、一枚の絵が貼ってあります。夫婦とその息子のように見える人物が寄り添って笑っている、筆で描いた墨絵でした。まだ日暮れまでには間がある時間帯なのに、部屋の中は薄暗く、数少ない家具や生活用品は、薄闇の中に沈んでいます。

婦人がお茶を淹れてくれました。

その、驚くほどに芳醇な香りのお茶を啜りながら、

「あの、失礼ですけど、泊めていただいたらご迷惑じゃないですか?」

「…いいえ、そんなことはありませんよ?」

「だって、あの、言いにくいですけど、部屋がひとつしかないから…。」

「ええ。この部屋へ一緒に寝ましょう。」

当然のようにそう言います。

「いいんですか? 他にご家族の方は?」

「私ひとりです。」

「女性ひとりのところへお邪魔するのは、ちょっと…。」

「構いませんよ。私にとっては息子のような年頃ですよ、あなたは。」

「…。」

「まだ夜までには間がありますからね。お好きに時間を潰していらっしゃい。日が暮れる頃にまたここへいらっしゃればいい。まあ、特別どこを見るということもないような、こんな田舎ですがねえ。」

ワクは外へ出て、周辺を散策してみました。民家は他にあと二軒のみ。この婦人の家よりは多少大きいものの、似たり寄ったりでした。近辺は一面、田畑、すすき、山肌。確かに、特別見物するようなものもなさそうです。

ワクはふと思い立って、婦人の家の裏手に回ってみました。さきほど彼女が、山肌との隙間から出てきたように見えましたが、一体何があるのでしょうか。

狭い狭い空間に、お地蔵様のようにも見える人型の石がひとつ。ぽつんと。その前には、花や水が供えてあります。きわめて素朴な造形ではありますが、これはやはりお地蔵様なのでしょう。背後から射す黄色い陽光が、後光のように輝いていました。

日暮れ時、家へ戻ると、婦人が晩御飯の支度を整えてくれていました。

「お帰り。大したものは何もないけれど、たんとお上がり。」

「はい、いただきます!」

山菜を中心にした料理は、これまた素朴で、気持ちがほっこりします。中に少し、肉料理もあるのですが、肉はどこから調達するのでしょうか。尋ねてみると、

「二軒お隣の方が猟師さんでね、時々少しだけ、鹿や猪のお肉を分けていただくのですよ。私のような年寄りが一人きりなのでね、そうたんとはいらないのですよ。」

「へえ、そうなんですね。」

「お酒のひとつもお出しするといいですが、あいにくお酒は置いてないもので。」

それから、二人で夕飯をゆっくりつつきながら、会話は自然とワクのこれまでのことになりました。

「そう。それではもう何年もお父さんには会われていないのね。今はおいくつ?」

「ちょうど四十歳です。」

「…まあ、息子と同い年ね。」

老婦人は、そう、カアサよりは少し下の年代に見えます。すると、六十五、六といったところでしょうか。

「息子さんがいらっしゃるんですか?」

「ええ。いましたが、出て行ったきり、生きているのやらどうやら。」

少し寂しそうに微笑んで、

「それより、これまでの旅は楽しかったの?」

「ええ、とても。旅の目的は、山の向こうの楽園へ行くことなんですが。ほら、ここからも小さく見える、あの山ですよ。」

「ええ、知っていますとも。とくに最近は、目指す人が増えているようね。この村でも話題になったことがあります。」

「山を目指してはいるんですが、なかなかたどり着かないし、そもそも山の向こうに本当に楽園があるのかどうかも、分かったもんじゃない。行ってきたという人にも会ったことがないんだから。そんなあやふやなものを目指して何年も旅をしている、半端者ですよ。」

「…山へ行って来た人ねえ。いましたよ、たしか。」

「え!」

「その昔、この村の男性がおひとり行かれて、帰って来られたと噂になりました。」

「ほ、本当ですか!」

「ええ。」

「どこの方ですか?」

「ザクロベエさんとおっしゃって…。この村の方ですが。」

この村とは、ここのたった三軒の家のことでしょうか。尋ねてみると、この背後の小山を越えた向こう側に、さらに十数軒の家があるそうです。ここから歩くと二時間ほどもかかるそうですが。

「それでも、ここと同じ村なんですか?」

「はい、そうですよ。田舎だものでね、そんなものでしょう。」

「じゃ、そこにいるんですね? その、ザクロなんとかさん。」

「亡くなりました。もうずいぶん前に。」

「!」

「生きていれば、もう九十くらいになられるお歳ですから。」

「山について、何か言ってましたか? どんなところだったか、とか、どうやって行ったか、とか。」

「さあ、詳しいことは私には分かりませんがね…。」

「誰かご存じの人は?」

「そうね、村長さんなら。」

「村長さん?」

「ええ。いえ、元村長さんで、今はお辞めになって、息子さんが村長をされていますが、そのキウエモンさんなら、昔からお親しかったので、よくご存知でしょう。」

ワクは居ても立ってもいられない気持ちでした。が、今から山を越えるわけにもいかず、明日、そのキウエモンさん宅を訪ねることにしました。

その宵は、婦人に、これまでの旅の経験をあれこれと語りました。他人の旅の話など面白いのだろうか、と思いましたが、彼女は興味深げに、うんうんとうなずきながら聞いてくれました。それはまるで、息子の冒険譚に、全てを肯定する姿勢で耳を傾ける母親のようでした。母親というものを知らずに育ったワクですが、きっと母親とはこういうものだろう、と思いました。お酒は飲んでいないものの、なんだかほろ酔い気分に近い心地良さに包まれた(ゆう)べでした。

その夜は、二人で布団を並べて眠りました。本当の母と息子のように。不思議なことに違和感はまったくありませんでした。


翌朝、ワクは婦人に一夜の宿のお礼を述べ、キウエモンの家を訪ねるべく、婦人の家を出発しました。

婦人の隣の家――隣といってもかなり離れているのですが――を過ぎて、そのまた隣の家との間くらいに、山中へ登っていく小径があります。

「山を大きく回っていく方法もありますが、それだとかなりの時間がかかりますのでね。お若い方だし、山道を行った方がいいでしょう。それでも二時間ほどかかりますが。」

「いいです。そのくらい、なんのその。山のことが聞けるなら。」

婦人は親切にも、おにぎりを作って持たせてくれました。途中でお腹が空くかもしれないので、と。実際、目的の家に着く頃にはお昼時になりそうでした。

婦人の言った通り、山へ入る小径を見つけて足を踏み入れます。朝の木漏れ日がちらちらと注いでは来ますが、薄暗い森の山道でした。時に急な、時に緩やかな上り坂を上りながら、ワクは、山へ行ってきたというザクロベエさんのことをあれこれと想像しました。

山ではどんな暮らしをしていたのだろうか。家族はいたのだろうか。なぜ、帰って来たのだろう。帰って来てからはどんな暮らしをしていたのだろう。今まで自分で夢想するしかなかった山の向こうの楽園での生活について、実際の話をとうとう聞けるのです。本人からではありませんが。

山は一時間ほどで峠を越え、下りに転じました。ワクは(はや)る心を抑え切れぬように、だんだんと歩調が速くなり、しまいには小走りになっていました。

山道を抜けて平地に出ると、そこにはたしかに、細い通り沿いに十軒と少々の民家がありました。商店や学校らしきものもあり、反対側――婦人の家のある側――よりはずいぶんと開けています。そのうちの、奥から三番目、一番大きなお屋敷――。

ありました。立派なお屋敷です。

ちょうどお昼時になりました。お昼時に約束もなしに訪問するのはさすがに気が引けますので、ワクは、まずは腹ごしらえをすることにしました。道端に腰を下ろし、婦人の持たせてくれたおにぎりを頬張ります。塩味の効いた、素朴な温かい味でした。ワクと同い年の息子がいるそうですが、ワクは彼女のことを、自分の母親のように感じられてきました。

おにぎりを食べ終わると、近辺を適当に見て回り、時間を潰しました。ここからも山が小さく見えます。

(あそこへ行ってきた人がいる。実際にいたのだ…。)ワクは感慨が湧き上がってくるのを禁じ得ませんでした。

しばらく後、改めてお屋敷の前に立ちます。大きな門。門柱は黒光りし、門扉は煤けた風合いで、歴史を感じさせます。ワクは大きく息を吸って、

「ごめんください!」

大声で呼んでしばらく待ちます。

やがて、門に女性が現れました。

「はいはい。あら、タクちゃん?」

「?」

「あ…違うわ。ごめんなさい。どちら様ですか?」

「初めまして。私はワクという旅の者です。」

「はいはい。」

「突然失礼しますが、こちらのキウエモンさんに、ちょっとお尋ねしたいことがありまして。」

「はいはい。どのようなことでしょうか。」

「昔、この村の方で、山へ行って帰ってこられた方がいらっしゃったと聞きましたもんで…。」

「はいはい。ザクロベエさんのことかしら。」

「ええ。そのお方について詳しくご存じなのは、こちらのキウエモンさんだと、山向こうのご婦人から聞きまして。」

「はいはい。ヤエさんですね。なあるほど。」

婦人の名前はヤエさんというようです。

「ちょっとお時間いただいて、お話を伺うわけにはいかないかと思いまして。」

「はいはい。そうですね。旦那様にお聞きしてみますわ。」

「すみません。」

しばらく待ちました。田舎の村です。時間帯のせいもあるのでしょうか、周囲は静かなもので、さっきから人っ子ひとり見当たりません。すずめの鳴く声がどこからか聞こえてくるだけです。

「お待たせしました。旦那様はお会いになるそうです。」

「そうですか。よかった。」

「さあ、こちらへどうぞ。」

門を入り、長い庭を通り、渋い色合いの玄関を入り、畳敷きの広い広い部屋へ通されました。

またしばらく待っていると、部屋の奥の襖が開き、一人の老人が入ってきました。白いあご(ひげ)をたくわえ、長く伸びた、これまた白い眉毛に目は半分隠れています。家の中なのに、しかも畳の上なのに杖を突いています。非常に小柄な老人でした。

「なんじゃ、あ? おまいさん、帰ってきたのか。」

「え?」

戸惑って返事をしないワクに、

「母さんは随分心配しとったぞ。急にいなくなりよって。」

「え、えっと…それは誰のことで?」

「あ、おまいは、タクじゃろう?」

「い、いいえ。ワクと申します。旅のものです。」

「え? ああ、そうか。タクじゃないのか。」

「はい。」

「しかし、よく似とるのう。」

「…。」

「失礼した。それで、ええと、わしに聞きたいことがあるそうじゃな。」

「はい。」

「ザクロベエのことか?」

「はい。」

「そうじゃの。」

老人は杖を置いて上座に胡坐をかき、あご(ひげ)をしごきながら、話し始めます。遠い昔を思い起こすように、斜め上の宙を見据えています。

「ヨシナのザクロベエは、ワシの幼馴染じゃ。小さい頃からよく一緒に遊んでおった。」

「へー。」

ヨシナというのが苗字なのか、屋号なのか、はたまた地区名なのか分かりませんが、ワクにはどうでもよいことでした。

「ある日…。」

「ある日?」

「そう、あれは春先の、まだ風が冷たい季節じゃった。」

「ええ。」

「やつとわしは、一緒に遊んでおっての。川沿いで。それで、落ちた。」

「?」

「それでずぶぬれになって、両方の母親から叱られたのなんの。」

「はあ。」

「奴の母親は、それはそれは厳しい母親でな。尻を百回叩かれたそうな。それ以来、やつは川を怖がるようになってな。」

「ええ。ああ、そうなんですか。で? 山のお話は?」

「あ? 山? ああ、おまいさんは山のことが聞きたいんじゃな?」

「そうです。」

「山は、子供の頃からやつとわしの憧れじゃった。いつか山へ行こうと、よく話し合ったもんじゃ。」

「ほう。」

「十八のとき、やつ――ザクロベエは、いよいよ山へ行くと言い出した。」

「ほう!」

「わしも一緒に行きたかったんじゃがの。行けなんだ。」

「どうして?」

「親父に叱られた。」

「なんで?」

「なんで、って、そりゃおまい、そんな酔狂なことを言ってちゃ笑われるぞ、と。」

「や、山を目指すことは、そんなに酔狂ですかい?」

「そうじゃな、はっはっは!」

「…。」

「考えてみれば、ザクロのやつは昔から素頓狂(すっとんきょう)じゃった。何しろ、本当に山に行ってしもうたんじゃから。」

「そんなにおかしいとは思えねえが。」

ワクは思わず唸るようにつぶやき、下を向きました。

「…それで、それでどうなったんです?」

「何が?」

「ザクロベエさんは?」

「どうもなっとらん。山へ行ってしもうた。」

「で? 帰って来たんですよね?」

「ああ。まあ、帰って来たには来たが。」

キウエモンの口調は急に勢いを失いました。

「来たが、何ですか?」

「人が変わったようじゃった。」

「ど、どういうことです?」

「どうということはないが、こう、どことなく、違うた。あれは本当にザクロのやつじゃったのかどうか、未だに分からん。」

「どういうことです? 何が違うと?」

「何となく、じゃ。」

「顔が変わったとか?」

「いいや。顔はザクロの顔じゃったのう。もっとも、やつが帰ってきたのは…ええと、そう、五十年ぶりくらいじゃったから、老けてはおったが、あれはザクロじゃった。」

「はあ。では、何が変わったんです?」

「人が変わった。変わったような気がした。何となく、違う人間のような。」

「五十年ぶりに会ったのだから無理もないでしょう。」

「そうじゃな。はっはっは!」

ここまで会話して、ワクは、ザクロさんが山へ行って帰って来た、ということしか聞き出せていません。それだけのことなら、昨夜すでにヤエさんから聞いています。

「で、山については何か言っていましたか? どんなところか、とか、どんな暮らしをしていたか、とか?」

「いやあ、それが、何にも言うとらん。」

「! …何にも?」

「ああ、そうじゃ。何にも。」

「おじいさんは…キ、キウエモンさんは、ザクロさんに山のことを聞いてみたんですか?」

「聞いてみたとも。じゃが、何にも語らん。」

「ど、どういうことですか?」

「山の向こうにある楽園とやらはどうだった? と聞いても、ニヤニヤ笑うばかりじゃ。あ、いいところだったよ、とは言ったな。」

「それだけ?」

「そうじゃな。」

「ほ、本当にそれだけですか? 他には? 何でもいい。どんな些細なことでもいい。」

「うーん、そうじゃな。…あ。」

「?」

「何か妙なことを言っていたようじゃ。」

「妙なこと?」

「ああ。山は遠くにあって近くにある、じゃったかな。いや、遠くて近い、じゃったかな? なんやよう分からんが、そんなことを言ってたな。親切でそっけない、とか。」

「遠くて近い? 親切でそっけない?」

まるで謎かけみたいです。ワクは、だんだん焦って来ました。

「では、どうして山から帰ってきたのか? 山の向こうに楽園があるのなら、どうして帰ってきたのか、それについては、何か言っていましたか?」

「いいや。そうじゃな。山もいいが、やっぱり故郷(ふるさと)もいいな、と、そう言った。」

「…。」

「ひ、一人で帰って来られたんですよね? 向こうで家族がいたかどうか、とか…。」

「分からん。」

「…。」

「では、この村へ帰って来てからは、どんな暮らしをされていたんですか?」

「普通に隠居として静かに暮らして、それで死んだ。」

「いつ?」

「うーん、帰ってきてから、四年、いや五年後じゃったかのう。まあ、そんなもんじゃ。もう七十過ぎじゃったからのう。わしは九十になってまだ生きとるがの。はっはっは!」

「…。」

ワクはがくっと肩を落としました。ほとんど何の情報も得られませんでした。

「それにしても、変わったんじゃ。あれは本当に別人じゃったのかも知れんのう。」

「どういうところが?」

「何を言ってもただニコニコしておる。まあ、よく言えば仏のようになった。悪く言えば、腑抜けになったような。昔はそんな奴ではなかった。」

「それは、歳を取ったからでは?」

「うん、まあそうかも知れんがの。とにかくいつでもただ笑っているという感じじゃった。」

それでは廃人ではないか。山へ行くと魂を抜かれる、とでもいうのか…。


キウエモン老人との対話の後、最初に案内してくれた女性がまた門まで見送ってくれましたが、その時、

「まあ、それにしても、よく似ているわ。」

「誰がですか?」

「お客さん、あなたがね、タクちゃんと雰囲気がよく似ているのです。」

「タクちゃんとは?」

「息子さんですよ、ヤエさんの!」

当たり前だと言わんばかりの物言い。

「一人息子。」

「!」

「瓜二つ、というのではありませんけどね。そりゃ、よく見れば明らかに別人だということは分かりますわね。けど、年恰好、背格好もそうだし、こう、全体の雰囲気が、まあよく似ているわね。一瞬、見間違うくらいに。」

「そうか。…年は同い年だそうです。タクさんと僕は。」

「あらそうなの。そしてあなた、昨日はヤエさんちに泊まったのね? 何かのご縁かもね。」

キウエモンの屋敷を出たところでワクは、しばらく下を向いてその場に立ち尽くしました。

キウエモン老人はなぜかワクを気に入ったらしく、

「今晩泊っていくか?」

と誘ってくれましたが、丁寧に断りました。

激しい徒労感に襲われていました。

かろうじて聞き出せたのは、ザクロベエが山から帰ってからは、魂が抜けたような人柄になっていた、ということだけ。ただ、ザクロベエの眠っている墓の場所も教えてもらいました。ヤエさんの家の手前に見かけた墓地。あの中にあるようでした。せっかくなのでワクは墓へ参ろうと思いました。墓へ行って何が得られるわけでもないでしょうが、仮にも山へ行って来た先輩です。敬意を表したい気持ちでした。

再びヤエさんの家の方へ向かって、山道を歩きながら、ワクの頭の中には二つの事柄が代わるがわる浮かんでいました。ザクロベエのこと、そして、タクのこと――。これらはお互いに全く関連のない別々の事柄ですが、何故だかどこかで繋がっているように思えるワクでした。


山を下り、ヤエさんの家の前を、気にかけながら通り過ぎ、その先にある墓地へ。

墓地は、昨日と同じように、午後の光の中、静かに佇んでいました。ワクはザクロベエの墓を探して、ひとつずつ墓碑を見ていきました。わずか十数基の墓です。それはあっけなく見つかりました。

吉名家代々之墓。

墓石の横に回ると、ザクロベエの名前も刻んであります。

(ヨシナって、やっぱり苗字だったんだな。)

小さく笑いが込み上げました。

ワクは、墓の前で目を瞑り、手を合わせながら、心の中でザクロベエに話しかけます。

(なあ、ザクロさんよ。俺の先輩だよ、あんた。山の向こうの楽園はどうだった? 何十年も暮らしていたのかい? それとも、行き帰りに時間がかかって、向こうの暮らしはほんのわずかだったのかい? 楽しかったかい? 楽園と呼ぶのにふさわしい場所かい? けど、どうして帰って来きちまったんだ? それほど楽しい場所ではなかったということか? なあ? 向こうでは、家族がいたのかい? いたのならどうして置いて来ちまった? 帰ってきてから、山のことを他人(ひと)に話さなかったのはなんでだい? 何か秘密にしたいことがあったのかい? 遠くて近い、って何だよ? なあ、ザクロさんよう。なあ…。)

傾きかけた黄色い日差しの中、ワクはザクロに話しかけ続けました。もちろん返事はありません。ワクはゆっくりと、しかし大きくひたひたと押し寄せる虚しさに襲われていました。自分の目指している山。その山の向こうにあるという楽園。でも結局、そこがどんな場所なのか、誰も知らない。いや、知っているはずの人は、なぜか何も語ろうとしないまま、すでに土になっている。

知らず知らず、静かな涙が一筋(ひとすじ)、ワクの頬を伝っていました。

秋の陽は急ぎ足で傾いて行き、風が冷たくなってきました。ワクはそれでも、墓前に佇んで長い間話しかけ続けました。


夕暮れ時。

ワクはヤエさんの家の前で、しばらく立ちすくんでいます。再び訪れる約束をしているわけではありません。今朝この家を出発した時には、ザクロベエの話を聞いたら、そのまま旅を続けるつもりでいました。が、ワクはこのまま去り難いものを感じていました。墓地に行ったついでだからというわけではなく、もう一度ヤエさんに会いたい気持ちが、切なく膨らんでいました。

でも、たった一晩泊めてもらっただけの行きずりの旅人が、また何しに来たのかと言われるだろうか…と、ワクにしては珍しく、逡巡しているのです。人は本当に大事な人に対しては、かえって臆病になるものなのかも知れません。

と、家と背後の山肌との間から、ヤエさんがひょっこり姿を現しました。それはまるで昨日の場面の再現のようでした。

ワクに気づくと彼女は足を止め、ほんの少し驚いたような表情をしてから、穏やかな笑顔で言いました。

「お帰り。」


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