第十三章 大切なもの
ワクは次の町まで、また黙々と歩きました。
少しだけ、この世界とつながっている感覚を取り戻せたような気がしていました。ほんの少しだけ。
ようやく次の町に着いたのは、数日後の夕暮れ時。ワクは、見つけた一軒の宿屋で宿泊の手続きをしました。
部屋に荷物を置いて、小用を足そうと廊下に出て、そこで巡り会ったのは――。
「ミイル!」
「ワ、ワクさん!」
二人は顔を見合わせました。ミイルが、
「ど、どうしてワクさん、こんなところに?」
「あ、俺、かすみ荘を出て、旅を再開したんだ。」
「…。」
ミイルの部屋はすぐ隣でした。オジジもいます。カアサとアミは、そのまた隣の部屋にいました。
オジジの部屋に皆が集まり、ワクは旅に出た事情を皆に話しました。
「そうか。カイジが戻ったのか…。」
オジジが感慨深そうにつぶやきます。ワクは下を向いて黙っています。
「カイジさんが帰って来たって、追い返してやったら良かったのよ。あの人、子供のころに何度か会ったけど、結構やな感じだったわよ。」
と、アミ。
「これ、そんなことを言うもんじゃありません。」
とカアサ。ミイルは、今にも泣き出しそうな顔で、下を向いています。
「まあ、ワクの気持ちも分かるな。そういう事情ならワシでもそうしたかも知れんの。」
「俺、自分の決断を後悔はしていないんだ。そりゃ、辛かったけど。今でも辛いけど。でも、カイジさんは、以前と比べたら、きっと変わったんだと思う。悪い人じゃない、これならコハルとコマリを大事にしてくれると俺は感じた。俺なんかよりずっといいんだ。そう思ってる。」
前向きな台詞と不釣り合いに、歯を食いしばっています。その心の突っ張りを、オジジの一言が溶かしました。
「辛いじゃろうが、お前さんは人として正しい決断をした。ワクよ、よく頑張ったのう。」
ワクはこらえきれず、男泣きに泣きました。今までひとりで耐えてきたところへ、認めてくれる人が現れた。悲しみと安堵の入り混じったような感情の波に、溢れる涙を抑えることは出来ませんでした。
それにしても、どうして一か月ほども遅く出発したワクが「お助け団」に追いついたのでしょう。「お助け団」は、道すがら、困った人を見れば援助し、励ましながら進むため、ワクよりは歩みがかなり遅いからでした。
ワクの涙が少し収まったころ、オジジが言いました。
「どうじゃ、しばらくワシらと一緒に旅をせんか。」
「?」
「お前さんの目指すところは、あの山じゃ。それは知っている。ワシらとは違う。が、「お助け団」の活動には、お前さんも少なからず興味を抱いておったろう。方角的には、ワシらが目指している村と、お前さんが目指す山は同じ方じゃ。ワシらが引き返す地点に着くまでは一緒に行くことは可能じゃな。いや、まあ、そう決めてかからなくても、気が変わったらそこから違う道を行けばよいのじゃし。」
ワクにとっては、拒否する理由などないような提案でした。
「お願いします。」
ワクは、まだ涙の光る目でオジジをキッと見据え、そう言いました。
それから、ワクは「お助け団」の一行と旅を共にし、いろんな体験をしました。「お助け団」の活躍は、ワクの思っていた以上に、柔軟で、助ける対象となる人の心に密着したものでした。
旅の途中で弱っている人には、手当てと食事を与え、一緒にゆっくりと歩みました。お金を無くして困っている人のためには、働き口を探して回りました。泣いている人には、ただただ寄り添って、アミが心慰める妙なる音楽を奏でました。ゴロつきの一団に取り囲まれている人を助けるには、ミイルの作戦とワクの胆力が役に立ちました。町で盗みを働くのが習慣になってしまっている若者には、オジジのまっすぐな道を説く説教とカアサのしみじみとした慰めが効きました。
夜は、野宿もたびたびしました。女性もいるのに、カアサは慣れたものでしたし、アミも先輩たちに感化されて…いえ、彼女の場合はもともとそういったことに強いのかも知れません。
彼らは、ワクの一人旅と比べてはるかに装備を整えていました。寝袋や鍋、簡単な食器など、ワクが持っていないような道具を、引いて歩ける鞄に入れて携帯していました。また、アミは例の竪琴を持参していましたが、それは、ワクが加わった後はワクが持ち運ぶことが通例となりました。
仲間たちとの野宿は、ワクにとっては楽しいものでした。
料理はカアサの独壇場で、あとの三人はそれほど得意ではありません。そこへワクが入り、そこそこの腕前を披露すると、
「私にだってそれくらいは作れる!」
と、負けず嫌いなアミ。カアサにはとてもかなわなくても、ワクとならば何とか張り合えると思ったのでしょう。
が、頑張ってジャガイモを炒めても、真っ黒焦げになります。
「ほー、上手にできているじゃねえか、この、炭。で? この炭で何の料理を作るんだ?」
「もー、いやー! バカワク、大っ嫌い!」
ワクをボコボコと殴るアミ。
「もう二度と料理なんかしない!」
そんなアミを、ミイルが、まんざらでもない風に見つめています。
その眼差しに気づいたワクは、殴られた頭を自分で撫でながら、ミイルの耳元にささやきます。
「お前、あんなののどこがいいんだ?」
「や、や、ぼ、僕は、そんな…。」
しどろもどろのミイル。
するとアミは、
「もうやだー! 聞こえてるわよ!」
と言い放って、そのまま拗ねています。
「もういい加減にしなさい。」
見かねてカアサが口をはさみます。
「ワク、あなた言い過ぎですよ。仮にも若い乙女に向かって。」
「そうよそうよ、バカワクー。」
「アミ! あなたもよ!」
「ふん、コハル姉ちゃんには絶対にそんなこと言わないくせに!」
瞬間、シュンとなったワクに、さすがのアミも悪いと思ったのか…。
「まあ、コハル姉ちゃんと私では出来が違うからね…。」
と言います。
オジジは何を考えているのか、そんな皆のやりとりを黙って微笑みながら聞いています。
濃い青い空に、入道雲が立ち昇っています。セミの声が空気を満たします。
夏。
ワクが「お助け団」に加わって、数か月が過ぎた頃。
ある日、ワクは腹の調子を崩し――頑健なワクには珍しいことです――先にひとりで宿泊先の宿へ行きました。
受付で、中年男性と若い娘の二人連れを見かけました。てっきり父娘かと思いました。
部屋に荷物を置いて、また軽い腹痛を覚えて外へ出ると、隣の部屋からもちょうど人が出てきました。
最初に、若い娘。それを追うように中年男性。
(受付で見かけた父娘だ。喧嘩したのかな?)
「もうやめましょ、こんなの。馬鹿馬鹿しくなったわ!」
「お、お前、そんな、いきなり何を!」
「前から思ってたわよ。ええ、そうよ。よくよく考えたら、どうしてこんな冴えないオジサンと!」
「な、なにを!」
なんだか、まるで恋人同士の喧嘩のようです。父娘なのに。あ、いや、本当に恋人同士なのでしょうか。
その翌日、腹の調子が良くなってきたワクがさっそく出かけた町の呑み屋で、昨日の男性を見かけました。オジジとミイルも一緒です。
淋しそうな背中で、一人酒を飲んでいます。ワクは何となく興味を惹かれて、声をかけました。
「やあ、旦那、宿で俺たちの隣の部屋だったよな。」
「え?」
男性は心当たりがないとでもいうように、当惑した表情です。
「昨日、娘さんと喧嘩してるところを見たぜ。」
「…。」
酔っ払い特有の、トロンとしたような恨めし気な目つきでこちらを見つめます。と、はっと思い当たった様子で、
「む、娘だって? ははははは! こいつぁ傑作だ!」
「あれ、違うのかい?」
「あれはな、俺のコレだよ、コレ。ひっひっひ。」
と言って小指を立てます。
ミイルは不潔なものでも見たかのように顔をしかめます。オジジは泰然と笑みを浮かべています。
「旦那は独り身かい? 奥さんは?」
「ああ、まあ、一応いるけどな、ひとり。」
「ひょう! おやっさんも隅に置けないねぇ。」
ミイルは、この下品な酔っぱらいと馴染んで楽しそうにしているワクに対しても、嫌悪感を覚えているようです。それなら酒場などに来なければよいものを、これも社会勉強だからという理由で、オジジとワクについて来たのです。まったく堅物ですね、ミイル。もっともワクはワクで、今は、心の傷を癒そうと、普段より二割増し程度にはしゃいでいるのですが。
「あいつはな、この俺にゾッコンなんだよう。」
男性は見栄を張ってそんなことを言い出します。
「嘘つけや。昨晩はほとんど振られそうだったじゃねぇか。」
バツの悪そうな顔で目をぱちくりする男性。
「しかも、そんなことしてたら、奥さん、泣くぜ。」
「…。いいんだよ、あいつなんて。俺のこと、何とも、なぁんとも思っちゃいねえ。召使いくらいにしか思ってねえんだからな。」
「へー、そりゃお気の毒なこって。こんな男前の色男なのによ。」
「おお、若造、分かってるじゃねぇか。」
たしかにこの男性、容姿は人並みより少し男前です。
それから、ワクを気に入った男性は、ひとしきり、愚痴なのか自慢なのか分からない話を始めました。
曰く、自分は若い頃からよく女性にもてた。その中で一番美人だった今の家内と結婚した。娘が生まれて大きくなるまではよかったが、娘が大人になった最近は、女房が冷たい。娘と二人して、俺をないがしろにする。仕事は女房と二人で茶店を経営しているが、こんな冴えない仕事をしている男になんて、女房が満足していないのを感じる。最近は娘も、お父さんみたいな人とは結婚しない、などとぬかしやがる。うだつの上がらない、居場所のない自分、パッとしない人生の自分が嫌で、絵を描いてみたり、楽器を買ったりして、それがまた無駄遣いだと女房に叱られる。そんなときに出会ったのが今の浮気相手だ。こんな俺を頼りにしてくれる。女房とは別れてその女と一緒になろうかと思い、持ち掛けたところ、意外と冷たい反応だった。冷たいどころか、別れようと言い出した。
――それが、昨晩ワクの見かけた言い争いの場面でした。
からかい半分に声をかけて話を聞いていたワクは、だんだんと悲しい気持ちになってきました。それほど悪い人には思えないこの男が、そんな侘しい目に会うのはなんだか腑に落ちない気がしたのでした。奥さんは実際のところ、どう思っているんだろう――。
オジジはいざ知らず、ミイルもワクと同じような感慨を抱いたようでした。ワクとミイルは一見正反対の性格ですが、ある一点では共通していました。それは、お人好しの人情派だという点です。ミイルは、この男の話を聞きながら、もう半分泣いていました。
ただ違うのは、ワクは人づきあいにおける守備範囲が、ミイルに比べて格段に広いのです。
男性は名前をギンジといいました。ワクより十歳と少々年上です。
これまで黙っていたオジジが、少しずつ自然にその場の会話に入り、ギンジの心を優しく解きほぐし始めました。
「なあギンジくんよ、お前さんはワシから見たらまだ若い。ひよっこみたいなもんじゃ。お前さんはこれまで長く生きてきて、もうベテランのようなつもりでいるかもしれんがの。なんのなんの、人生はこれからが長いんじゃぞ。奥さんとは結婚して何年になるな?」
「に、二十…二年、かな?」
「ほう、まだまだじゃの。奥さんともこれからがむしろ本番じゃ。それは持久走のようなもんじゃから、途中で苦しくもなるだろう。だけど、長い目で見れば、最終的には本当に良かった、と思えるもんじゃて。もう少し気長に構えてみんか。ワシくらいの年になって振り返ったら、浮気のことも、そんなこともあったのう、という想い出話になるわな。」
ギンジが少し遠い目になっているように、ワクには見えました。遠い昔、幸せだった頃の奥さんとの日々を思い出しているのかもしれません。
「お前さん、なんだかんだ言うても、まだ奥さんのことが好きなんじゃろう?」
するとギンジは、急に目を潤ませて、
「そうだよぅ。俺はあいつに惚れているんだ。若い頃のあいつは、そりゃ可愛かった。今でも俺にとっちゃ世界一さ。」
突っ伏してメソメソし始めました。どうやら泣き上戸のようです。
ワクはますますギンジが憎めなくなりました。自分とコハルも、そんな時を迎えたかった。時を経ても変わらず相手のことを一番だと思えるような関係。ワクには、自分の幸せが壊れた分、このギンジには幸せを保ち続けてほしい、と急に強く思われてきたのでした。
宿に帰ったワクたちは、ギンジのことをカアサとアミに話ました。するとカアサが、
「どこかで聞いたようなお話だわね。」
「?」
「いえね、今日、茶店に入ってそこの奥さんと世間話をしていて、同じようなお話を聞いたのよ。最近、ご亭主がちっとも自分をかまってくれずに、絵だの楽器だのに夢中になっていると思ったら、今度は浮気をしているようだって。ちょっと男前だと思って、若い娘におだてられてその気になっている、とも言ってたわ。懲らしめてやりたい、と言うので、そうじゃなくて、本当は仲良くしたいんでしょ、と言ったら、ちょっと涙ぐんでた。可哀そうに。」
それは間違いなくギンジの奥さんでしょう。ワクは念のため、翌日その茶店へこっそり様子を見に行きました。案の定、ギンジが店で客の接待をしていました。奥に奥さんらしき人も見えます。
カアサが、この件に関しては、いつにも増して積極的でした。自分の過去に比して、何か感ずるところがあったのでしょうか。普段の「お助け団」は、依頼人からの依頼を受けて初めて動きます。が、今回は特に依頼を受けているわけではありません。
「仕方がないのう、原則からは外れるが、ひと肌脱ぐとするか。」
オジジは決断しました。
「お助け団、発動じゃ! では、ミイル、頼むぞ。」
「は、はい!」
作戦立案担当のミイルに指令が下ります。この時ばかりはミイルの声も凛とします。ミイルは、考え事をするとき、何かを発想しようとするときに、右手の人差し指をこめかみに強く当てる癖があります。この時も、その姿勢で斜め下の宙を見つめ、しばらく黙り込んでいました。
そして、その「熟考のポーズ」から覚めて目を上げ、ミイルが、皆に告げた作戦は、こうでした。
あの夫婦はお互いに愛情を持っており、両方が昔の関係に戻りたいと思っているが、ちょっとしたすれ違いでお互いに相手がつれないと思っている。なので、一芝居打って、相手が大切な存在だと表現し合うような場を作ってやるだけでよい。この場合、本人たちは芝居に加わる必要はない。あくまで僕たちが芝居によって、その場を作るだけだ。そうすれば彼らは自然に良き方へと動いてくれるだろう。
そこで――。
カアサが茶店で、奥さんのセツと話し込む。そこへ、ワクと一緒にギンジ登場。ただし、ギンジは正体がバレないように変装している。カアサは、セツ夫妻の事情を聞き、ギンジを貶めるような発言を繰り返す。曰く、ダメ亭主だ、愛情も誠実さもない、うだつも上がらない。そんな亭主は捨ててしまえばよい。あなたの美貌なら、もっと良い男と一緒になることができるだろう。さすがに聞きとがめたセツが、反論する。あの人はあんたが言うようなダメ男じゃない。私が一番よく知っている。私の大事な亭主なのよ。そこへ、ワクが何か理由をつけてセツに絡む。セツの気持ちを聞いたばかりで感動しているギンジは、セツをワクから助ける。その後、変装を解くギンジ。二人は、お互いへの愛情を確信し合う。めでたし、めでたし。
「どうでしょうか…。」
「まあ、そのとおりに二人が反応してくれるかどうかは、やってみんと分からんが、やってみようかのう。面白いから。」
「まあ、オジジったら。ええ、いいわ。セツさんはきっとそんな反応をすると思う。旦那さんは分からないけれど。」
とカアサ。
「旦那も奥さんのこと、本当は好きなんだよ。お互い様なんだよ、あの二人は。だからきっとうまくいくよ。」
とワク。
「ちょっと待って! 私の出番がない!」
とアミ。
「そうだね、アーちゃんは…。良かったら、ギンジさんの楽器やら絵やらの、なんていうか、「芸術家にでもなって人生を挽回したい」みたいな夢を打ち砕くようなお話をしてあげられるといいなぁ。本物の芸術家として。そんな甘いものじゃないんだよ、というような方向性で。」
「…うん、分かったわ。やってみる。」
作戦開始。
まず、アミが茶店を訪れました。セツが用事で出かけているところを狙って。竪琴を携えて、歌を歌いながら。店の中で、暇を持て余したように馴染み客と話していたギンジはとたんに興味をそそられ、歌に聞き入ります。
歌い終わった後、アミが何か飲み物を頼もうとするふりをしていると、さっそくギンジが話しかけてきます。
「やあ、お嬢ちゃん、すばらしい歌だが、プロの歌い手さんかい?」
「ええ、一応。」
「やっぱりな。俺には分かるんだよ。一流のものの価値というやつがな。」
「…。」
「俺も楽器をやっているんだ。ひょっとしたらこれで仕事ができるようになるかも知んねえと思ってよ。姉ちゃんと組んで演奏会、なんちゃってな!」
「…そ、そう。」
アミはギンジの本当に安易な発想にちょっと面食らったようですが…。
「じゃ、ちょっと聴かせてみて…くれる?」
「そうかい? いやあ、そこまで言われちゃあな。」
喜々として奥の間へ楽器を取りに行くギンジ。持ってきたのは、オカリナに似た、丸っぽい笛のような楽器でした。この地方の楽器でしょうか。
得々として楽器を吹き出すギンジ。その演奏は、まあ、何というべきか、子供の発表会よりは幾分ましでした――。
「どうでぇ?」
「うん、ダメね。」
「え? ダメ?」
「うん、全然ダメ。」
「ど、どこがダメなんでぇ?」
「全体的にダメよ。逆にどこがいいの?」
「…。」
ギンジはあからさまに不満顔。この小娘が、と思っているのが、表情にありありと表れています。
「芸術家って、そんな簡単なものじゃないのよ。芸事のためにすべてを犠牲にする覚悟でないと無理だわ。私なんて小さいときから、いえ、生まれた瞬間から、練習、練習、と強制されてきた。毎日叩かれながらね。」
「…。」
「お父さんも歌い手だったから。その厳しさが分かっていたんだわ。そんなにして練習してきた私が、今、こんな風に旅をしながら歌うので精一杯。」
「お嬢ちゃんは、舞台で歌ったりしねえのか?」
「無理よ、無理。私なんかの歌を、だれがわざわざ足を運んで聞きに来てくれるの? そんな人はほんの一握りよ。生まれた瞬間から努力を重ねても、ほとんどの人にはかなわない夢なのよ。」
「…。」
「しかも、私のお父さんは早くに亡くなった。自殺だったわ。芸術家というのは、普通とは違う、極端に繊細な神経の人が多いの。亡くなる前は本当に痩せ細って、怖いくらいだった。」
「…。」
「それくらいの気質でないと芸術家にはなれないけれど、そういう人が幸せだとはとても思えないわね。」
ギンジはすっかり興ざめた顔になりました。
「あ、私、もう行かなくちゃ。」
「え。何も飲まずに行くのかい?」
「あ、ええ、ちょっと用事を思い出しちゃった。」
もう飽きたといわんばかりに、そそくさと店を出るアミ。物陰からずっと様子を見ていたワクは、
(ちょっとやりすぎじゃねえか?)
と思いました。
(それにしても、あれは本当のことだろうか? 父親が自殺した、って。アミの両親は事故で亡くなったと、確かコハルは言ってたがな。)
後日アミに問い質してみましたが、のらりくらりとはぐらかされて、ちゃんとした答えは返ってきませんでした。彼女が否定をしないということ、その時の彼女のかすかに悲しそうな表情から、ワクは、それは意外と事実なのではないか、と思ったのでした。
三日後、ワクはギンジと連れ立って茶店へ向かいました。ギンジにはあらかじめ、何か理由をつけて外出してから正体を隠して茶店へ戻り、普段の奥さんの言動を確かめてやろうじゃないかと話してありました。ギンジは案外乗り気で、二つ返事で引き受けました。
二人が茶店に着く前に、カアサは客として茶店へ行き、セツと話を始めていました。ワクとギンジが茶店に入っていくと、それを合図に、どうでもいいような世間話に区切りをつけて、カアサは言いました。
「それはそうと、旦那さんはその後どうなのよ。私、あれからちょっと心配で、どうなったのかしらと思っていたのよ。」
「別にどうにもなりゃしないわ。こないだちょっとしょんぼりしてたから、ひょっとしたら例の若い娘っこに振られでもしたのかもしれないけれど。まあ、知ったこっちゃないわね。」
ここでギンジは少々顔色を変えました。ちくしょう、こいつめ、俺がいないところでよその婆あに俺の悪口を言ってやがったのか! 気色ばむギンジを、横からワクがなだめます。
一方カアサは、セツは憎まれ口を叩きながらも、ちゃんと夫のことを見ているのだ、と改めて安心しました。
「そう、いい気味。バチがあたったのね。」
瞬間、セツは少々意外そうな顔をしました。先日はもっぱら、旦那さんも悪い人じゃないでしょうに、という論調だったカアサが、今日はハナからギンジを批判する側にいるようです。
「ま、まあね。」
「楽器や絵に無駄金を使ったり、若い子に貢いだり、ねえ。いくらお金を注いでも、それで振り向いてくれるわけもないのにね。みじめな中年がからかわれているだけなのが、分からないのかしら?」
「…。」
「いくら若い頃に男前だったからと言って、今はもう中年だし。あ、そもそも若い頃だって、それほどじゃなかったんでしょ? どうせ。」
「いや、若い頃は…。」
「思い上がった身の程知らずの男ほどみっともないものはないわね。」
カアサは、まるで人が変わったかのように、ギンジをこき下ろします。
「そんな…。」
「あなたも考え時よ。悪いことは言わない。あなたならまだまだ、いい相手と巡り会えるわ。それだけの容姿があればね。釣り合わない相手はこちらから捨てちゃいなさい。いい? 古い悪縁は捨てるの。そうしたらそこへ新しい良運が巡って来るの。」
ギンジは怒り心頭です。ワクは心の中で腹を抱えて笑いながら、ギンジを必死で抑えていましたが、とうとう抑えきれず、ギンジが立ち上がろうとした時――。
「…ちょっと、さっきから聞いてれば。」
低く抑えた、ドスの効いた声で、セツが口を開きました。目がすわっています。
「あんた、何よ。あんたに何がわかるのよ! あんたなんかに!」
カアサは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしています。もちろん演技ですが。ワクは今にも笑いが爆発しそうでした。
「いい? あの人はねぇ。若い性悪女にたぶらかされただけで、本当はいい人なのよ。純粋なのよ。若い頃は、本当に…ううん、今だって、とっても男前なんだから! あんた、あの人の姿の良さも分からないなんて、目がどうにかしてんじゃないの?」
「いえ、そんな…。」
「絵がどうしたって? 楽器がどうしたって? あれで結構芸術の才能もあるのよ。あんたには分からないでしょうけどね! 高尚な才能もあるし、男前だし、それに、人もとっても良いんだから! まあそれなのに! よくもまあ、人の大事な亭主のことを、そこまで言えたもんだねえ! よくも!」
「私はただ…。」
「もういい! もう何も言わないで!」
思った以上の効き目です。もうこれ以上の薬はいらないのではないかとワクは思いましたが、それでも計画通り、今度はワクが絡み始めました。
「よお、うるせえぞ! さっきからガミガミとおばさんよお!」
「あ、申し訳ありません…。」
さすがに他の客には丁寧な口調に戻ります。
「てめえの亭主なんぞどうでもいいんだよ。こっちは疲れて休憩してるんだ。」
これにはギンジがびっくりしました。その「てめえの亭主」は自分の目の前にいることを、こいつは知ってるじゃねえか。なにより、さっきまでのワクとは別人のようです。
「あぁあぁ、もういい。こんな店、二度と来ねえぞ!」
立ち上がったワクは、ギンジの手を引っ張って、店の出口まで大股で歩きました。
「あ、ちょっとお客さん、お代は?」
「ああ? 冗談は顔だけにしろよ、お、ば、はん。こっちはな、慰謝料もらいてえくれえだ。」
「いえ、でも飲み食いした分はいただかないと…。」
「うるせえ!」
ワクはその拍子に、セツの手をつかみ、逆手にねじり上げました。
「ヒッ!」
と悲鳴を上げるセツ。カアサも、恐れをなして立ち尽くします。もちろん演技ですが。
その瞬間、ワクの頬に重い衝撃が走り、ワクの身体は軽く二メートルほども後ろへ飛び、尻もちをつきました。
「いっってぇ! 痛えよ、ギンジさん!」
「?」
ギンジ?
セツが、狐につままれたような顔になりました。
あ。ギンジは、思わずワクを殴ってしまったことと、セツに正体がばれたことで、おろおろしています。
ワクは最後の仕上げにかかりました。
「なんだよ! 憎たらしい嫁をこらしめてやったんだろうが。あんたが望んだことだぞ!」
「お、俺は、そんなこと望んじゃいねえ…。俺の、俺の大事な女に何しやがる! それがお前の本性か!」
セツは、この意外な展開に戸惑いつつも、ちょっと嬉しそうです。
「あんた…。」
「お、俺は、お前が…、お前は俺の一番大事な女だ! 世界一!」
セツは赤い顔でうなだれました。
「ばか。」
カアサは、もういつもの温かい母の顔に戻って微笑んでいます。ワクは、尻もちをついた姿勢のまま、やれやれ良かった、と思いました。
ミイルとアミは、この一連の茶番劇を最初から最後まで、物陰に隠れて観賞していました。
「うん、見事だわ、勉強になる。」
とアミ。
「薬、効きすぎだったかも…。」
とミイル。
あとでネタをばらしたときにギンジから聞いたところによると、ギンジとセツが結婚したばかりの若い頃、これに似たことが実際にあったとのことでした。セツに絡んできた荒くれ者の客を、ギンジが殴り飛ばしたそうです。それから二人の絆はより強くなった気がすると、ギンジは懐かしそうに語ってくれました。その時の場面を、図らずも今回再現することになったのです。こればっかりはミイルも想定していませんでした。が、結果が良ければそれで良しです。
それからギンジは、セツと娘と三人の、仲睦まじい生活を取り戻したようです。
「それはよかったが、今回、俺は殴られ役で、たまんねえよぉぉ! おい、こらミイル!」
「す、すみません。ま、まさかギンジさんがワクさんを殴ることまでは予測できなかったもので…。」
他の者は、和やかに大笑いしました。
和やかな笑いに包まれ、ワクは心温まる思いでしたが…。ギンジ夫妻のことを思うにつれ、自分とコハルとのことを連想し、底のない淋しさに襲われるのをどうしようもありませんでした。
「おかえり。」
コハルが、玄関先に水を打つ手を止め、顔を上げてにっこりと笑います。
「ごはんできてるわよ。あ、それから、シンジロウさんが、あとでちょっと顔を出してって。若者組の件でって。」
(おお、そうかい、分かった。)
「ワクー、お帰り!」
(ただいま、コマ。)
ワクはなぜか声が出ません。
玄関から上がると、そこはギンジとセツの茶店でした。
「…お前は俺の一番大事な女だ! 世界一!」
ギンジが叫びます。いや、あれはワク自身のようです。コハルに向かって叫んでいます。そうだ、コハルは俺の一番大事な女だ。そうだ。コハル、コハル――。叫びながら、泣いていました。ワクはおいおいと泣いていました。
目覚めると、宿の一室。オジジとミイルが、左右で寝息を立てています。ワクは自分の頬が涙で濡れていることに気づきました。
外からは、静かな雨の音が聞こえています。




