第十二章 生命の営み
ワクは淡々と旅を続けました。
夜は宿屋が見つかる限りは宿屋に泊まり、そこで出会う人たちとは、一見朗らかに交流しました。休憩のために入った茶屋では、他の客とたわいない世間話をしたりもしました。食べることだけは少々億劫になり、少しばかり痩せましたが。
ただ、いつでも、どんなときにも、心には重く冷たい鉄の柱が入れられたようで、話していても、歩いていても、生きている実感はありませんでした。
穏やかな春の日差し。そよ吹く風。
ワクは、小川のほとりに腰を下ろしています。
モンシロチョウが目の前を通り過ぎました。眼下には小川の流れ。段差を流れ落ちる水の、絶え間ないざぁざぁという音が、心の隙間をかろうじて埋めてくれているような気がします。
この日のワクは、朝から夕暮れ時まで、ぜんまいの切れた人形のようにほとんど身動きせず、ただじっとうずくまっていました。
小川にかかる橋を、若夫婦とその子供が通りかかります。子供がはしゃいで何か言い、父親がふざけて手を上げると、子供は逃げ回り、そのまま追いかけっこが始まります。母親は笑いながら二人を見守っています。
明るい世界と自分との間に、見えない膜があるように感じられます。生き生きと活動しているこの目の前の世界。自分はもう、この世界とは別の場所にいる。心はそんな感覚に覆われていました。
山を遥かに仰ぎ見ながら、ただひたすらに歩きます。何も感じない。何も考えない。歩け、歩け。
草履がすり減り、石が足裏に直接当たって血が滲んでも、気付いていないかのように、足を止めません。
風が砂埃を顔に浴びせても、表情ひとつ変えません。その視線はただ、何もない虚空を見つめています。
淀んだ灰色の中に、コハルの後ろ姿がぼうっと浮かび上がっています。白いうなじ、細い肩。その姿はしかし、冷たくワクを拒否しています。
声を掛けなければ。今呼び止めなければ、すべてが取返しのつかないことになる。必死に声を発しようとする自分。しかしどれだけ力を入れても、声は出ません。コハルも背中を向けたまま、一言も発しません。時間がありません。
昏い黄泉の底から聞こえる、低いすすり泣き。それがわずかに高まったとき、コハルが振り返りました。
目も、鼻も、口もない顔。
枯れ荒んだ甲高い号泣。
目があるはずだったところから、赤い涙がしたたり落ちます。ないはずの口が、哄笑するように大きく裂けます。
助けてください。
助けてください。
お願いします、誰か助けてください!
あああぁぁぁっ!
叫びながら目を覚ましました。深夜。月明りの森の中。激しい鼓動。焚火の残り火がかすかに赤く浮かび上がっています。頭上でフクロウの鳴き声がします。
ワクはしばらくの間、自分がどこにいるのか、何が起こっているのか、分からずにいました。悪夢の余韻に包まれて、じっと、身じろぎせずに横たわっていました。
どくん、どくんとどす黒く波打つ胸。
鼓動のおさまらぬ身体を鎮めようとするように、ワクは自然に、興奮に震える手で自らを慰め始めました。茫漠とした意識、底なしの孤独の中で、確かな存在を感じられるものを探るように。この身体の昂ぶりだけが生きている証であるとでもいうように。
頭上の青白く澄んだ月に、コハルの白い裸体が重なります。柔らかく息づく乳房、腰のくびれから臀部に続く優美な曲線。ワクの淋しさも恐れも虚しさも受け止め、包み込んでくれる、この世のすべての憧れ、すべての歓びの象徴。
やがて、極みに至ったワクのほとばしる生命のしぶきは、次々と空中で月光にきらめき、しかし一瞬でその生を終えて虚しく落ちて逝きました。
青白い夜の中、フクロウは死者の使いのように冷徹に鳴き続けます。
一週間目。
その日も朝から良い天気です。青い空に、丸く白い雲がいくつか浮かんでいます。
ワクは前夜に宿泊した宿を発ち、歩き始めます。少し行くと町並みを外れ、田畑や森に囲まれました。
暖かい風が頬に当たります。酪農家があるのでしょうか、遠くで、牛の鳴く声が聞こえます。高く青い空には小鳥が飛び交います。この世界は美しい。ワクひとりを置き去りにして、この世は至上の幸福を謳歌しているようです。
前方に見える森の中を通ろうと、ワクは一歩一歩、森に向かって歩を進めます。
(がん、ばれ。がん、ばれ。がん…ばれ。)
歩くリズムに合わせて力なくつぶやいてみます。
森の入り口で、鹿を見かけました。いつか、センタと二人で嬉々として追いかけた鹿。遠い昔。センタはどうしているだろうか。キミと幸せに暮らしているだろうか。
森の中に続いている小径を歩き、しばらく行くと、径の脇に、腰かけるのにちょうどよい切り株がありました。木漏れ日がはらはらと降り注いでいます。
昼休憩にしようと、切り株に腰を下ろしました。宿屋で持たせてもらったおにぎりが三つあります。ワクは径の脇の切り株に腰かけ、膝の上でおにぎりの包みを解いて、ひとつを掴もうとして――。
掴み損ねたおにぎりが、ころん。地面に転がり落ちました。
「あ、あ…。」
慌てて拾おうとするワク。
「もう、何をやっているのよ。ワクったら、まるで子供みたいなんだから!」
早春の薄い青空。高原の澄んだ風。幼いコマリのはしゃぎ声。カイ先生の無様に転んだ姿。先生夫妻の笑い声。コハルの、こらえ切れずにこぼれてしまったようなまぶしい笑顔。
――終わった日々。
自分はかすみ荘を出た。
コハルやコマリと別れた。
もう会うことはない。
二度と。
その瞬間、熱いものが胸いっぱいに広がりました。
熱いものは、そのまま膨れ上がり、洪水のように胸を決壊させ――滂沱の涙となって両の瞼からあふれ出ました。
ワクの口から嗚咽が漏れ出ました。転がったおにぎりは泥にまみれています。嗚咽はやがて慟哭に変わり、ワクは頭を抱えて絶望の叫びを上げ続けました。長い、長い間。溜まった毒をすべて吐き出そうとするかのように。
かすみ荘を出て一週間。それはワクが初めて流した涙でした。
頭上では小鳥がさえずり、木の枝をリスが駆け抜け、カブトムシたちは樹液を吸い――午後の穏やかな木漏れ日の中、この世界はせっせと生の営みを続けているのでした。
ワクは再び立ち上がり、歩き始めました。
森を抜けると、暖かい空気が全身を包みます。明るい世界と自分を隔てる透明の膜が、少しだけ薄くなっているように感じられました。
前方に小さく見える山が、いつになく優しく見えます。気心の知れた旧友のように、何気なく寄り添ってくれているようでした。




