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第九章 家庭

それ以降、ワクにとってはまるで世界が変わったかのような日々でした。一日中、朝から晩まで、目にするもの、耳にするものがいちいちすべて、以前より格段に輝いて見えます。幸せとはこういうものなのか。それはずっと夢の世界にいるような感覚でした。いよいよコハルが愛しく、離れ難くなりました。

自然にワクは、宿泊客としてではなく、家族の一員としてこの家に住んでいる格好になりました。コハルもそれを咎めず、コマリはワクを慕ってくれましたので、差し当たって障害はありません。

ただ、コハルを好きになればなるほど、ここから去り難く、したがって、山を目指すという使命から離れてゆく。そのことが常にワクの心に、小さな影を落としていました。が、頭で考えることには自ずと限界があるものです。ワクは悩んだ末、とりあえずはクヨクヨと考えることをやめ、いったん自分の感情に身を任せてみることにしました。コマリがもう少し大きくなったら、三人で山を目指すのもいいかもしれない、と半ば本気で夢想したりもしました。


ここにしばらく住むのであれば、まずやらなければならないこと。それは、この宿の経営をたて直すことだと、ワクは考えました。

コハルは今年二十五歳。ワクよりも三つ年下です。未亡人の立場で幼子を抱えながら宿屋を経営するには、いささか若すぎるように思えました。ここは何としても、自分の力で宿屋を立て直してやりたい、とワクは強く思いました。コハルを助けたい、という気持ちはもちろん嘘ではありません。が、これまで旅を続けてきたワクは、ひょっとしたら、コハルの役に立つことによって居場所を手に入れることを、無意識に求めていたのかもしれません。

といっても、ワクには宿屋を経営した経験などありませんので、どこから手をつければいいのやら分かりません。考えあぐねたワクは、まず食料品屋の夫婦に相談してみることにしました。

「こんにちは。」

店には人の気配がありません。

「こんにちは!」

しばらくして、奥から若い娘が出てきました。あ、こんな娘がいたんだ。

「こんにちは、ご主人いますか?」

娘はニコリともせず奥へ引っ込み、入れ替わりに主人と奥さんが出てきました。

「やあ、若いの。ワクっていったかね? 今日は何が要るんだね?」

「ううん、そうじゃないんだ。あの、いや、なんていうか…。」

「ん?」

奥さんが横から口を挟みます。

「あ、分かった。あんた、最近すっかりコハルちゃんになついちまって、あそこに居座るつもりだね? さしずめ、あの子を口説く方法でも聞きにきたのだろうよ。そうだねぇ、贈り物だったら何がいいかねぇ? これなんかどうだい、おいしいよ?」

「ば、ばかいってんじゃ…、そんなことじゃねぇよ…。」

「あれあれ、顔真っ赤にして。ウブだねえ。」

「くっ。」

年上女性にからかわれたら太刀打ちできません。ワクは助けを求めるように、主人の方を見ますが、主人はもう他の客の相手をしています。

(くそぅ、こういうことはセンタの奴の役割だからな。あいつならもっとうまく話をひき出すんだろうに。)

と思ったものの、

(いやいや、自分の家庭のことであいつに頼るなんて。)

そこまで考えて、無意識に頭の中で使ったことばに、ワクは自分でどきっとしました。

(家庭…か。)

いよいよ思考がまとまらなくなり、ワクはすごすごと食料品屋を退散しました。

道端でしばらく途方に暮れるワク。よい考えが浮かばないまま、足はいつしかあの医者の方へ向かっていました。この町で差し当たって知り合いと言えるのは、あとは医者夫婦くらいしかいません。

(医者が宿屋のことに詳しいとは思えないが…仕方ない。ダメもとで聞いてみるか。)

医者は、真昼間であるにかかわらず、在宅でした。よく考えたら、昼であろうと夜であろうと、患者がいなければ休みです。その代わり、夜中に引っ張りだされることもあります。医者とはそういう職業だ、とワクは考え直しました。

「どうしたね? コハルくん、また具合が悪いのかね?」

「いや、そうじゃないんだ。」

「じゃ、コマリちゃんか? まさか君か? そういえば少しばかり顔色が悪いかな?」

「いや、そういうことじゃなくて。ちょっと相談があって。」

「ほう、ボクに相談ごとか。医者に分かることなんてたかが知れとるがな。」

そう言いながら、まんざらでもない顔で中へ招き入れてくれました。

奥さんが淹れてくれたお茶を前に、医者と差し向いに座りながら、

「実は、あのかすみ荘に、なんとかもう一度客が来るようにしたいと思って。」

「ほう。君はあそこに就職でもしたのかい?」

「そ、そういうわけじゃないんだけど…。」

「じゃ、何か。親切心でコハルくんを助けてやろうと?」

「まあ、素晴らしいわね。」

奥さんがお茶菓子を運んで来てくれながら、

「最近では珍しいわ。そういう殊勝な若者は。世のため人のため。滅私奉公じゃないの。」

「…。」

なんだか勘違いされているような気がしましたが、うまく言い返す言葉が見つかりません。そこへ医者が、

「違うだろう? そんな人助けの精神ではないな。」

「じゃ、何よ?」

「惚れたな? コハルくんに。」

「まあ、そういうこと!」

ワクは顔が上気して、息が止まりそうです。

それから医者は、専門外であるはずの宿屋の経営について、親身に相談に乗ってくれました。

「僕は医者だから、商売のことには疎いんだが、ひとつだけ、共通していることがあると思うんだ。それは、客相手の仕事だということだ。患者のことを客と言うのは不謹慎かもしれんが、まあ、似たようなものだ。つまり――。」

「つまり?」

「人間は心地よく感じるところへ寄ってくる。手当てがうまくて、話しやすい医者だと、人気が出て患者が寄ってくる。それと、その医者が本当に親身になっているかどうかは、患者には感覚で分かるものだ。その親身さも心地よく感じる要素のひとつだ。宿屋もしかり。居心地が良くて、接客してくれる人が親しみやすく親身だと、客が寄ってくる。」

「へー、なるほど。」

「…多分、な。」

「なんだ、多分か。」

「そりゃそうだ、ボクは医者以外の仕事なんかしたことがないもの。でも、それほど的外れなことは言っていないつもりだよ。」

「なるほど。」

「そういう条件がそろっている宿屋なら、宿泊した客の評判が新しい客を連れてくる。つまりは、口コミだな。人間は、良いものを見つけると、それを友人・知人に教えたくなる。良い仕事をしていると、自然と評判になって、人が集まってくる。これが世の中の真理だ。」

「へー、そういうもんか。」

「うん。それともうひとつ。良い接客と言っても、普通の接客はどこでもやっている。清潔な部屋に宿泊できて、飯が食えて、接客の感じが良い、というのがまず必要だが、それだけではない。女将が美人だというのもひとつだし、飯が飛び切り旨いというのもひとつだな。が、それらはあくまで基本サービスに付随したものだ。それら以外に何かひとつ、他とは違うサービスがあるといいな。その宿屋に泊まる利点が。これはうちだけだよ、という何かが。」

「うちだけ、うちだけ…。」

「何かあるかね? 思いつくことが。」

「…ぞ、草履。」

自信なさげに、ワクは言いました。

「草履? 君は草履が編めるのかい?」

「うん、以前、ある人に習って、それから履物の親方にも習って、草履だけは作れるんだ。」

「ほう。なるほど。しかし、ただ普通の草履を置いていても、印象は弱いな。無料(ただ)で配るとか?」

無料(ただ)?」

「ああ、それなら多少は有難味があるかもしれんな。宿泊客にもれなく無料進呈だ。宿屋に泊まるのはほとんどが旅の途中の人間だ。草履はいくらあっても邪魔にはならんだろう。」

「旅の人間か。俺、普通の草履よりも倍くらい分厚い、丈夫な草履を作れるんだ。自分が旅をしているから、自分用に作っているんだけど。親方に習ったやり方を基本にして、ちょっと変えてみたんだ。その分、藁がたくさん要るが、丈夫で長持ちなことには自信がある。」

「ほう、それはいいじゃないか! 丈夫な草履はだれでも欲しいものだ。それを目玉にすればいい。」

それからしばらく、ワクと医者は宿のサービスについて語り合いました。話しているうちに話は広がり、いつしか話題は、人生の意義について、というような壮大なものになりました。時間を忘れて話しているうちに、いつしか夕暮れ時が近づき、そのまま酒を酌み交わすことになりました。

「あれあれ、あなたたち、いつの間にそんなに仲良しになったの?」

奥さんが微笑まし気に笑いました。

医者は名前をカイと言い、年齢は「四十ちょっと過ぎ」とのことでした。ワクはそれから、医者のことをカイ先生と呼び、何かにつけ頼りにして慕うようになりました。


次の日からワクは、精力的に宿屋の復興のために働き始めました。

宿屋の主はあくまでコハルなので、あらかじめコハルに話を通して承認をもらわないといけないと思い、ワクはまず、自分が考えていることをコハルに話すことから始めました。

まず、宿の基本的サービスを向上すること、いや失礼、再確認すること。そのために、宿の玄関回りの掃除と飾り付け、部屋の掃除の徹底、布団干し、従業員による接客態度の見直し――従業員って、コハルとワクだけですが。

次に、付加サービスの開始。これはワクが作った「旅専用草履」の進呈です。さらに、それぞれに特徴を持った何種類かの草履(ワクの考案した作品)を販売すること。

ざっとそんなところです。

コハルはびっくりしました。同時に、ワクの本気を感じ、コハルはコハルで、少々複雑な心境でした。今はここに留まる気持ちでいてくれているワクですが、それがいつまで続くのか。いつかまた旅に出ると言い出すかもしれないという不安を捨てきれなかったのです。

午前中にコハルとの話を済ませたワクは、午後から早速、玄関回りの掃除と飾り付けを始めました。正確には、ワクが掃除を、コハルが飾りつけを担当しました。ワクには美的才能はないという自覚がありましたので。コマリは、二人の仕事を横で見たり、近くで一人おままごとをしたり、とにかく邪魔をしないようによい子で過ごしています。コハルとの二人暮らしを通して、コマリは、大人の邪魔をしない、ということを第一優先に考えることが習い性になっているようでした。ワクはそんなコマリを不憫に感じました。

ワクはまた、草履の材料になる藁を仕入れる算段をしました。以前履物を商っていたときにはどこから材料を調達していたのか、コハルに聞いてみましたが、コハルは答えられません。すべては旦那さん任せだったようです。そこでワクは、また、食料品店の夫婦を頼り、なんとか仕入先を紹介してもらえることとなりました。

食料品店では、もうひとつ頼み事をしました。

「俺みたいに、宿を探している旅人がいたら、かすみ荘を紹介してほしいんだ。ほら、俺に紹介してくれた時のように。それで、その時には、草履を進呈していることにも触れてほしいんだ。」

食料品店の夫婦は快諾してくれました。特に奥さんの方は、コハルとはそこそこ親しい仲でしたので。

そんなこんなで、宿の復興に大忙しのワクとコハルでした。そしてとうとう、久しぶりの宿泊客がやって来ました。

その客は突然来ました。

「ごめんくださーい。」

中年の男性でした。

「はいー。」

「今晩泊めてもらいたいんですが。」

瞬間、コハルはワクの顔をじっとみつめました。久しぶりに客が来た!

「へい、いらっしゃいませ!」

ワクは精一杯の笑顔で客を案内します。

「部屋、空いてますか?」

「へい、今日ならお好きな部屋をお選びいただけますよ! 今日は()()()()全室空いていますので!」

「そ、そうですか。」

客は、ワクたちの勢いに少々面食らった様子でしたが、そのまま宿泊する運びとなりました。

ワクとコハルは、精一杯のおもてなしをします。ワクはいつものごとく、ワクワクし通しでした。コハルのためというよりは、自分自身が宿の仕事をこの上なく楽しんでいる、そんな実感がありました。

翌日、客が発つ際に、「もれなく進呈」の草履を渡しました。

「これが噂の『旅専用草履』かい?」

もちろんまだ噂になどなっていないのですが、食料品店の夫婦がそう宣伝してくれたのでしょう。

「へえ、とても長持ちするし、歩き心地がいいと評判です!」

「へー。そんな評判、どこから伝わってくるんだ? 旅人は二度とここへは来るまいに。」

「いや、ねえ、それが、まあ、その、風のウワサで。」

適当なことを言ってお茶を濁しました。

「でも、まあ、気持ちよく泊まらせてもらえたぜ。満足だ。ありがとよ。またここを通ることがあったらお邪魔させてもらうぜ。」

「ありがとうございます! お待ちしています!」

久しぶりの宿泊客は、満足した様子で、草履も持って発っていきました。

客を見送った後、ワクとコハルは見つめ合い、ワクはコハルをしっかり抱き締めました。そんな二人のそばで、コマリはいつものように一人遊びを続けていました。抱き合って喜んでいる二人を、きょとんと見つめていました。

ワクは、自分にこのような接客をこなす力があったのか、と少し意外な気持ちでした。まるでセンタが自分に取り憑いたようだ、と奇妙な心持になりました。


いつしか秋から冬が過ぎ、春が近づいてきました。

ある晴れた日。

春まだ浅い時期にしては珍しく暖かい、まるで本格的な春が来たかのようなポカポカ陽気の日。

今日、宿屋は臨時休業です。

あれから、宿には少しずつ客が来るようになりました。満室の状態にはまだほど遠いですが、毎日一組か二組の客が来て途絶えることのない程度にはなりました。ワクとコハルは、この調子なら宿の経営も近々本調子に戻るかもしれないとの希望を抱いています。が、それとは別に、ワクにはひとつ気になることがありました。

コマリのことです。いつでも大人の事情に振り回されて、いい子にしていることを強要されているようなコマリ。余りに不憫で、ワクは何かコマリのための催し事をしてやりたくなり、コハルに相談しました。その結果、今日はお弁当を持ってピクニックに来たのです。あれからワクと少しずつ親しさを増していった、医者のカイ先生夫婦も誘ってみました。当日までに診療の予約が入らなければ、とのことでしたが、結局予約が入りませんでしたので、一緒に出掛けることができました。

自宅から歩いて一時間弱。郊外の小高い丘の上に、木々に囲まれた、ちょっとした広さの芝生地があります。地元の人たちはそこを「高原」と呼んでいました。幼いコマリには少し長い道のりでしたが、ワクとコハルが交代に抱っこして、なんとか連れて行きました。

高原に着いたのがお昼少し前でしたので、コマリを中心に皆で少し鬼ごっこのような遊びをした後、すぐにお昼ご飯を食べました。

お弁当は、コハルと医者の夫人が腕に()()をかけて作ったご馳走でした。お互いのお弁当を賞味し合い、褒めあい、なごやかに楽しいときを過ごしました。

午後は球を投げ合う遊びをしました。ワクとコマリが最初に行い、コマリは大はしゃぎ。

「きゃははは! ワクー、ちゃんととってよー。」

ワクが球を取り損ねたときは特に、コマリは大喜びです。

そう、コマリはワクのことを「お父さん」とは呼ばず、「ワク」と友達のように呼ぶのでした。コハルはあえて、ワクをお父さんと呼ぶようにはしつけなかったのです。

次はカイ先生がコマリの相手をします。夫人は二人の真ん中あたりに立って、二人の()()()()()投げ合いを仕切っています。ワクはコハルの横に腰を下ろしました。

カイ先生は、運動神経ではワクよりだいぶ劣るようで、球を追いかけたり取ったりする際に、しばしばとても無様な恰好になります。それを見て、一同は大笑いです。

「まだお昼のおにぎりが残っているけど、食べる?」

「ああ、運動したらまた腹が減ってきた。」

ワクは、コハルが手渡してくれた包みを膝の上に置いて、おにぎりをほおばり始めました。

球を取り損ねて転んだまま、まだ起き上がれないカイ先生に向かって、コマリがここぞとばかりに次の球を投げようとしています。

「いけー、コマ! 投げつけろ!」

思わず立ち上がった拍子に、膝の上のおにぎりがころん。地面に転がり落ちました。

「あ、あ…。」

慌てて拾おうとするワク。

「もう、何をやっているのよ。ワクったら、まるで子供みたいなんだから!」

やれやれというような顔を作ろうとしても、笑いがこらえきれない様子のコハルです。ワクとコハルは顔を見合わせてにっこり笑いました。

少し薄い色とはいえ、快晴の空の下、愛する人の隣で、自然の中の澄んだ空気を吸いながら笑いに興じる。ワクは心の底から湧き出てくる幸せを感じずにはいられませんでした。家族と一緒に笑い合う喜び。この時が、ある意味ではワクにとって人生で一番幸せな時期であったかもしれません。

球投げの様子に笑いながら、時々コハルの顔をチラリと見るワク。コハルの表情には屈託が感じられませんでした。前の夫に逃げられ、コハルはこれまで人並み以上に苦労や悲しい思いをして来たはずです。それなのに、まるで苦労を知らないお嬢様のような顔で笑うコハル。愛しい想いが胸から溢れ出そうでした。このコハルとコマリを幸せにすること、コハルたちの笑顔をひとつでも多くつくること。それがすなわち、ワクの幸せなのだとしみじみ思います。

「あんなに楽しそうなコマリ、久しぶりだわ。いえ、初めてかも。」

「よかった。今日は天気もいいしな。」

「ワクのおかげよ。」

「…そんなこと、ねえよ。」

「こんな私たちのために、何かと尽くしてくれて…。」

「何だよ、今さら。」

「ううん、私たちなんて、あなたにとっては行きずりの人なのに。いつかまた旅立って行ってしまっても文句は言えないと思っているのよ。」

「…。」

「あなたの旅の目的が何なのか、私は知らないし、無理に話して欲しいとは言わない。けれど、邪魔はしたくないの。重荷にはなりたくないのよ。」

ワクは何とも答えられませんでした。これらの日々に幸せを感じながらも、これでいいのだろうか、とふと考える瞬間がありました。ワク自身にも、どうしたらいいのか、答えが見つけられませんでした。ただ、今は、宿屋の経営も軌道に乗ったとは言えませんし、コマリのことも心配ですし、何よりコハルと離れることは考えられず、自然とここに暮らし続けるしかないと感じていました。

「もしかしたら、いつか、三人で一緒に旅に出られたら、と思っている。」

ワクは自分でも思いがけず、そんな言葉を口にしていました。それは必ずしも口から出任せではありません。今のワクに考えられる範囲の、一番の理想でした。

「そうね。まだ先のことかもしれないけれど、そういうこともあるかもしれないわね。今度、旅の目的やなんかのこと、ゆっくり教えてね。」

「うん。」

そこで会話は途切れ、二人ははしゃぐコマリたちを眺めていました。

夕方、疲れて寝てしまったコマリを背中におんぶして、ワクは皆とゆっくり歩いて帰途につきます。その背中に感じる重みに加えて、夕陽に照らされたコハルのやわらかい笑顔と、カイ先生夫妻の心地よく疲れたような表情は、その後のワクがたびたび思い起こすことになる、極上の一コマとなりました。


宿屋の経営は、少しずつですが上向いてゆきました。ゆきずりの旅人が主に宿泊する宿屋において、果たして口コミが効くのだろうかと、と訝しく思っていましたが、意外なことに、一度宿泊した客から聞いたという客が多く訪れました。そのせいかどうかは定かではありませんが、かすみ荘の客は月ごとに増えていきました。かすみ荘には大部屋が一つと、少人数用の部屋が九つ、占めて十の部屋がありましたが、一年後には、大部屋を除けば毎日がほぼ満室、という状態にまでなりました。

ワクはいよいよかすみ荘から離れられなくなりました。


春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)、ワクは家族と暮らす幸せを味わいました。それは、旅に出てからずっと感じたことのない、安心感を伴った幸せでした。居場所があるという感覚、とも言えるでしょう。落ち着いた幸せを味わった時期でした。

近所の人たちとも、ワクは懇意になりました。ある日、近隣の男連中による飲み会に誘われ、数件先の知人の家で、夜遅くまで盛り上がっていました。

「ワク、おめえ、いつの間にかコハルの亭主におさまりやがって、こいつ、憎いのお!」

「なんだ、お前こそ、女房と子供をポコポコとこさえやがって!」

会話はただの酔っ払いによる下品な会話ですが、そうしたご近所付き合いも、ワクには非常に楽しいものでした。

するとそこへ、コハルが飛び込んできました。

「ちょっと帰って来て! コマリが。」

「? コマリがどうした?」

「急に苦しみ出したの。」

「!」

ワクは急いで戸口から駆け出し、我が家へと向かいます。後をコハルが追います。

カイ先生が往診してくれ、雑菌が体に入ったせいだろうとの診断でした。数日間は熱が下がらないが、命に別状はないとのこと。ワクとコハルは胸をなでおろしました。

「ママ、ママ…ワク…。」

コマリが譫言(うわごと)のように二人の名を呼びます。その時、ワクは不謹慎にも、胸に湧いてくる喜びを感じました。熱にうなされているときに、コハルの名と並び、自分の名も呼んでくれている。それはコマリがワクを家族と認めている証拠に違いありません。ワクはコマリの小さな手をぎゅっと握りしめました。

数日後、熱が下がったコマリは、ワクをしみじみと見て、

「あのねえ、コマちゃんね、ワクのお嫁さんになる!」

「ほ!」

「だってねえ、ワク、やさしいんだもの。コマちゃんねえ、やさしい人が好きなの。」

小さな娘が父親に向かって言う、お決まりの台詞です。大きくなったらそんな発言をしたこともきれいに忘れてしまうのです。それでもワクは無上の喜びを感じました。感極まったワクに力いっぱい抱き締められたたコマリは、むせて大いに咳き込み、ワクをキッと睨みつけました。コハルはそんな二人を、泣き笑いの表情で見つめています。


ワクがかすみ荘に滞在し始めてから、五年と少しの歳月が流れました。

今日は元旦。

お正月には宿泊客がいることが珍しいため、元旦には毎年、かすみ荘の一番広い居室で、昼間からお屠蘇をいただいてゆっくり過ごすのが、ここ五年の恒例になっていました。時には宿泊客も交え、一緒に過ごします。お屠蘇は例の食料品屋で買い求めたものです。カルタや羽根つきをしてたわいない穏やかなひとときを過ごす。どこの家でも行っていることですが、普通のことを普通に味わうことのできる幸せを、ワクはしみじみと感じていました。

今年は、カイ先生夫妻と食料品店の夫妻も招き、よりにぎやかです。コマリは八歳になっていました。

「――そしたら、あんとき、このワクの野郎が、こう言いやがったんだ…。」

食料品屋の主人もかなり出来上がっている感じです。

「いや、あれはコハルが…。」

いや、皆が適度に酔って上機嫌です。たびたび、大きな笑い声があがります。

ワクは小用に立った帰り、廊下の窓から、ふと山を目にしました。そう、この窓からは山が、小さく、でもちょうど真正面に見えていることには、ずいぶん以前から気づいています。見るたびに、少しばかり胸が騒ぐワクでしたが、今の幸せを壊したくなくて、山への想いは棚に上げていました。

(いつかきっと、また山を目指すときがくるだろう。その時は、コハルとコマリも連れていけるだろうか…。)

コハルには一度、山について話してあります。その時、コハルは肯定も否定もせず、ただ、うんうんとワクの話を聞いていました。おおよそ話し終わっても、そうなのね、と一言つぶやいたきり、それに対する意見や評価のようなことは口にしませんでした。

廊下から見る山は、幼少期、父親と暮らした家から見えていた山と非常によく似ています。いえ、そっくりそのままといってもよいくらいです。あれから何年も、山に向かって歩き続けているわけですから、多少なりとも山に近づいているはずなのに、なぜだか大きさも同じくらいに見えます。それを不思議に思う気持ちももちろんありますが、ワクの胸には同時に、幼少期からの山への憧れの気持ちも、鮮やかに蘇って来ます。

思えば、ワクが山に憧れたのは、小さい頃、「死んだ母親はあの山の向こうの楽園に行ったのだ」と誰かから聞かされたことがきっかけだったように思います。それ以来長らく、夜寝る前に布団の中で、山で暮らす母親や、そこへ父親、祖父母、ジロウと共に訪ねて行って、楽園で一緒に暮らす場面を夢想したものでした。

今はもちろん、それが事実でないことは承知していますが、山への憧れの気持ちは、あれ以来ワクの胸に焼き付いて離れないのです。自分は幼少期からずっと山に憧れていたんだ。自分のこれからのことを三日に亘って考えたあの時も、実は最初の瞬間から心は決まっていたのかも知れない、とワクは思いました。

小用からの帰り、ワクはしばらくの間、遥かな山をじっと見つめていました。少々酒が入っていることもあって、胸にじんわりと込み上げて来るもののせいで視界がかすかに歪みました。


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