2日目.約束をしよう
翌日から、地獄のような日が始まった。
「腰が引けていますよ! もう一度!」
「は、はい……!」
歴史や魔法学、ダンスレッスンや食事のマナーなど、講師が代わる代わる交代される中、私は朝から夕方までびっちりと魔王の妻として、聖女として必要な知識を叩き込まれた。
なんで、こうなるの……!!
前世での記憶が甦る。
学生の頃から勉強は嫌いだったし、大人になったら勉強なんてしなくていいと思っていたのに、就職してからもその専門知識を日々勉強してきた。
先輩や取引相手との食事の場での気遣いなんかも、本当に肩が凝る思いだった。
転生してそんな世界とはおさらばしたはずだったのに、王宮に来て二日目で、私はその気持ちを思い出していたのだ。
やっぱり、帰る……!!
こんな生活嫌……!!
夕方になり、ようやく今日のレッスンはすべて終了した。
魔物の世界でもマナーなんてあるの?
いや、これでも人間の国に比べたら緩いんだろうけど……一般人だった私にはキツいよ~!
汗を流すためお風呂に入り、バスローブを着て自室でぐったりとソファーに倒れ込む。
「フラッフィーナ様、そんな格好をしてはいけませんよ」
「……お願い、今だけは許して。誰もいないし、いいでしょう?」
アリエラに注意されたけど、今日は初日だし、本当に疲れてしまったのだ。許してほしい。
「仕方ありませんね。そんなにお疲れでしたら、マッサージの者をお呼びしましょうか?」
「え? 本当? うん、お願いしたい!」
「かしこまりました。では少しお待ちくださいね」
やれやれ、と呆れ顔をしながらも、優しく微笑んで部屋を出ていくアリエラ。
疲れたらマッサージしてもらえるんだ……それはちょっと嬉しいかも。
魔王様の妻、万歳……。
ソファーに身を預けながら、うとうとしてきていた私の耳に、ドアをノックする音が響く。
アリエラだ。早いなぁ。
そう思い、「どうぞ~」と緩く声を出す。
どうせマッサージするのに寝そべるだろうから、このままでいいか……。
そんな軽い気持ちだった。
「失礼するよ、フラッフィーナ。良かったら――」
けれど、聞こえた男の声に顔を向けると、そこには魔王の姿があった。
「……え、」
「あ……、」
…………!!!
「し、失礼した!!」
慌てて体を起こし、ソファーに座り直す。
勢いよく部屋に入ってきてしまっていた魔王は壁に張り付き、パッと顔を逸らして詫びの言葉を口にする。
「い、いえ……! すみません……!!」
思わず私が謝ってしまったのは、魔王が意外にもその美しい顔を赤らめて口元に手を運び、顔を隠すような仕草を見せたから。
なんとなく、初心いのだ。
チャラ男のくせに、なにその反応。演技?
そう思ってしまうけど、魔王は未だ顔を逸らして頬を赤らめている。
……あんなの、演技でできるだろうか?
「失礼しました、今日はレッスンの初日で少し疲れてしまって」
「そうだったか。いや、すまない……」
気にしないふうを装って、こちらが笑いかけてみた。
すると魔王は再び謝罪を口にした後、ようやく私の方へ視線を向け、少し近づいてきた。
「それで、何のご用ですか?」
「ああ、君が疲れているのではないかと思って、これを持ってきたんだ」
「……?」
バスローブ姿ってはしたないんだっけ?
魔王は未だ私を凝視せずに、手に持っていたバスケットを差し出した。
「……これは?」
「焼き菓子だ。甘いものは好きか?」
お菓子!?
中を覗き込むと、マドレーヌのような焼き菓子が見えた。甘い香りもする。
「大好きです! ありがとうございます!!」
さすが王宮!
トリアルの町ではこんなお菓子、食べられなかった。
前世ではクッキーやケーキが大好きだった私は、その記憶が戻ってからは甘いもの欲求にだけは耐えて生きてきたのだ。
それがまさか、ここへ来て満たされるとは……!
「……魔王様?」
「あ、いや。君があまりにも可愛い反応をするから」
「え……っ」
ぼんやりと見つめられて、尋ねてみるとその回答。
「失礼……」とまた謝罪の言葉を口にして顔を逸らす魔王に、ついドキッとしてしまった。
けど、違う! これは女を口説く作戦なのよ、騙されちゃダメ!!
「……それは、女性へのお決まりの口説き文句ですか?」
二人きりなのでつい、失礼なことを聞いてしまった。
「え?」
けれど、これはいい機会かもしれない。
お断りするなら、今がチャンスだ。今なら他に誰もいないから、魔王様を必要以上に辱めることにもならないだろう。
「あの……魔王様に、お話があります」
「……なんだ」
「今回の……その、結婚の話ですけど、なかったことにしてほしいんです」
私の真剣な様子に、魔王も表情を引きしめて顔を向けてきた。
「……どうして?」
「だって、いきなり魔王様と結婚と言われても、私には荷が大き過ぎます。貴方にはもっと相応しいお相手がいると思います。それに、占いなんかで決められた相手なんて、お互い不満でしょう?」
魔王の真剣な眼差しに、今度は私が目を逸らしてしまう。
直接プロポーズをされたわけでもないのに、こういう話をお断りするのは気持ちのいいものではない。
「……君は、私では不満か?」
「……貴方だから、というわけではなくて……」
むしろ顔だけならすごくタイプなんだけど。
そう思いつつチラリと視線を上げると、魔王はとても悲しげに瞳を揺らしていた。
う……、イケメンのそんな顔、やめて……!
この顔に何人もの女性が騙されてきたのだろうかと思いながら、心を鬼にして重たい口を開く。
「お互いのことなんて知らないですし、結婚って、ちゃんと好きになった相手とするものじゃないですか? 少なくとも私はそうしたいです」
預言者がなんだというのだ。
私は前世でも占いはあまり信じないタイプだった。
「……そうか」
思い切って言い切った言葉に、魔王は低く返事をした。
顔を見るのが怖い……。
悲しい表情をしていたらどうしよう。
いや、それよりも怒らせてしまっただろうか。
仮にも相手は魔王だ。本気になれば私の故郷の町のひとつくらい、潰されてしまうかもしれない……!
「……」
恐る恐る、視線を上げて魔王の表情を窺った。
「……あ、」
そして、困ったように切なげに微笑むその顔に、私の心臓は持っていかれた。
きゅぅっと掴まれ、締め付けられてしまったのだ。
こんな顔をする人を、私は傷つけてしまったのだろうか――。
「あ、あの……っ、」
「では、好きになってもらえれば、結婚してくれるということか?」
「え?」
「障害は、会って間もないから――ということだな?」
「……」
めげずに見つめられ、私の心臓は高く脈を刻む。
どうして? 断ったのに。傷つけたのに。
どうして、怒りもせずにそんなこと言ってくれるの?
動揺する反面、嬉しく思ってしまった自分がいた。
「……いや、それは……」
「確かにまだお互いのことをよく知らないね。わかった。では明日から、朝食と夕食を共にしよう」
「えっ!?」
「時間があればこうして会って話をしよう」
「あ、あの……っ」
「それでも私との結婚が嫌なら、四週間後にそう言ってほしい。でももし好きになってくれたら――その時はいつでも教えてくれる?」
「……魔王様」
彼のめげない姿勢に、言葉が出てこない。
思わずコクリと頷いてしまう。
こんなに求められたことは、前世でも経験がない。
それもこんなに素敵な男性に。
いや、女慣れしたタラシ野郎かもしれないけど!
けれどそれも、お披露目会までのこの四週間で判断すればいいのだ。
約一ヶ月あるのだから、それでも好きになっていなければ、きっと納得してくれるだろう。
「わかりました。では明日から、よろしくお願いします」
「ああ、側近の者たちにも伝えておくよ」
「はい」
にこやかに微笑んで、魔王は部屋を出ていった。