第7話 無知なる三人 4月13日【裏】
4月13日(火)【裏】
自室
日課の確認作業をしながら頭を抱える。
「やっちまった……」
今日は『表』で覚悟を決めて眠った記憶がない。
つまり寝落ちしたということだ。
それ自体は別にどうってことはないが最後にしていたことが多分まずい。
確か晴香の送ってきた画像を見てムラムラきて……ああしてこうしてすっきりしてそのまま寝てしまった可能性がある。
「姉さんが起こしにきたらまずいぞ」
とはいえ戻るのは不可能だし『裏』の世界で早寝しても『表』の朝早く目が覚めることもないのでどうしようもない。
俺は頭を抱え、どうしようかと天を仰ぎ――最後に自分の頬を殴った。
「そんなことは戻ってから考えりゃいいだろ」
冷たい声で自分に言い聞かせる。
『表』での失敗なんて9割9分は取り返しがつく。
そんなことに気を取られて裏での単純作業を一つでも忘れるとそのまま破滅することもあり得る。
「集中出来ていなかった。もう一度日課のやり直しだな」
陰鬱な一日が始まる。
「全て異常無し」
冷めた心で改めて確認して頷く。
物資は昨日の調達で足りているので今日は動く必要がない。
動く必要がない時は動かないでいるのがこちらの世界では最善だ。
『裏』で近所を散歩するのは『表』の紛争地帯を走り回るに等しい。
「勉強でもするか」
俺はLEDライトを机に乗せて教科書を広げる。
書店から拾ってきたもので全教科分と参考書などもどっさりある。
ふざけている訳ではない。
俺はこちらの世界で時間が余ればよく勉強をする。
勉強をしていると『表』の学校と繋がっているように思えて少し安心するのだ。
その甲斐もあって俺は『表』では授業中以外ほとんど勉強していないにも関わらず、上の中程度の成績を保っている。
小さなライトで照らされた薄暗い部屋にボールペンを滑らせる音だけが響く。
それ以外の音は何もない……ゾンビの呻き声はどこでも聞こえる環境音なので聞き流す。
「いや、これは異常だな」
ゾンビの呻き声は確かにどこでも聞こえるのだが四階の部屋まではっきり聞こえてくるのはおかしい。
咄嗟にライトを消して窓を確かめる。
目張りはしっかりしている。
そもそもこの時間は窓に日が当たっているのでライトの光を見られる可能性はない。
窓際に寄り警戒しながら外を覗く。
マンションの周りにゾンビが溢れている訳でもない。
音を出さないように気をつけながら屋上に登る。
全方位を探るならここに来るしかない。
「あれか……」
俺のマンションから少し離れた十字路に多数のゾンビが群がっていた。
いや単に群がるのではなく動きが揃っている……何かを追っているな。
動きの先へ目を凝らす――やっぱり居た。
「どんどん集まって来やがる! どこに逃げりゃいいんだよぉ!!」
「囲まれちゃう! いやぁぁぁぁ!」
「とにかく逃げこめる建物を探すんだ! なるべく頑丈なとこを!」
「くんな、くんなよ! このっこのっ!」
男3人に女1人の4人グループが叫びまくりながら右往左往している。
「あいつら馬鹿なのか?」
あんなにめちゃくちゃ叫びながら逃げたら一帯のゾンビを全部引き寄せてしまう。
追われている時は心の中で悲鳴をあげながら無言で走り抜けるのが最善なのだ
「誰か! 誰か助けてくれー!」
また叫んだ。
今の奴らの状況を見て助けに来る者などいない。
来るのは追加のゾンビだけだ。
「いぎゃぁぁ!!」
男のうちの一人が足に食いつかれて血が飛び散る。
他の者が助けようと手を引っ張る。
もう手遅れどころか助け出してしまったら大問題だぞ。
幸い……にして男の腹が裂かれて内臓が引きずり出された時点で他の奴は諦めた。
残った男二人は怒鳴りまくり、女は半狂乱になって甲高い悲鳴をあげる。
ゾンビが犠牲者を貪っている間にできた貴重なチャンスを生かせていない。
「あまりにも無知すぎる。とても助けられない」
距離的にはいけなくもないが状況が悪すぎる。
近場だけでゾンビが20体はいる。
彼らの叫び声を聞きつけてその数倍が向かってきているのも見える。
ようやく我に返った一人が金属バットでゾンビを一体殴り倒すも、その音に反応した三体に迫られて転がるように逃げる。
もう一人の男は路地に逃げようと指示を出したが、先から新たに二体が現れて破綻する。
次々と逃げ道が潰れていく。
そして遂に死んだ男が食いつくされ、大量のゾンビ共が立ち上がった。
「見捨てるべきだ。危険すぎる」
逃げ惑っていた女が転び、起き上がろうとした拍子に屋上の俺と目があった。
彼女は助けてとばかりにこちらへ手を伸ばす。
俺は視線を振り切るように屋上からかけ降りる。
「今日は一日平和になるはずだったのに」
自宅に戻って厚手のジャンパーを羽織り、革手袋とバールに水筒も引っ掴む。
「どう考えてもやばい。わかりきってる」
いつもの梯子は使わず、四階から垂らしたロープを掴んで一気に滑り降りる。
これは緊急用なので戻るのが大変になるのだが仕方ない。
全然仕方なくないが仕方ないとしておく。
「目があったらダメだよな」
飛び降りると同時に周囲の安全確認は捨て置いて全力疾走する。
近くであれだけ騒げばゾンビは全部向こうに行っているはずだ。
目があったのがおっさんとか不快な感じのチャラ男ならば、これも運命と念仏を唱えただろう。
だが俺とそう歳の変わらない女の子だとそうもいかない。
ボブカットで前髪はぱっつん、いかにもぶりっ子しそうな感じで……。
「ああいうの好きなんだよなぁ」
ゾンビで溢れる街路を避けて民家の庭に飛び込み、生垣を飛び越えながら走る。
少なくとも彼女が目の前で食われたらとんでもなく気分が悪い。
それでも本当にどうしようもないなら諦めて凹むしかないのだが……。
危険でやばさ満点ながら、今ならギリギリ間に合ってしまうのだ。
「もう後悔しないように」
3人の目の前まで走り、一つ呟いてから大きく深呼吸する。
マンション周辺は何度も物資調達に回ったのである程度は把握している。
ゾンビ共の密度を把握、逃げられそうな場所と進路を考える。
目途がつくと俺は叫びまくっている3人組に群がるゾンビ集団へ突っ込んだ。
短く息を吐きながらバールを振りかぶり、進路上のゾンビ一体の膝を後ろから殴りつける。
凶悪な膝カックンを受けたゾンビは膝の骨と軟骨を飛び散らせながら倒れ込む。
更に邪魔になりそうなもう一体が振り返ったところへ、下からバールの尖りを太ももにねじ込む。
そのまま渾身の力で一回転させて後頭部を地面に叩きつける。
3人組への視界が通った。
「た、助けに来てくれたのか!?」
男の問いに答えず、その後ろに居る中年女ゾンビの鼻先をバールで叩き、体勢が崩れたところで膝を狙って叩き割る。
「ついてこい」
ここでの無駄口は時間を消費してゾンビまで呼び寄せる最悪の行動だ。
マンション方向に視線を戻してみたが、既に大量のゾンビに塞がれていた。
こいつらを連れて戻ることはもうできない。
「待ってくれ【シズリ】が足をくじいているんだ! それに回り中奴らだらけでどこに……あと助けは君だけなのか? 他に誰か――」
俺は男が言い終わる前に女の子に肩を貸して立たせ、血の滴るバールで進路を指して走る。
返答している時間がない。
お前達が騒ぎまくったせいで一帯のゾンビ共は全部ここに向かっている。
一秒ごとに生存率が減っていく。
「これでどうだ! おら死ね! 死ねってんだ不細工がよ!」
怒鳴り声と派手な殴打音が聞こえる。
「【ヒロシ】もうやめろ、逃げるんだ!」
「はぁはぁ……見ろよ【スグル】頭割ってやったぜ。クソ化け物共が……」
倒れたゾンビを金属バットで叩きまくっている痩せ型でガラの悪そうなのがヒロシ、やたら体格は良いのに今一つ頼りない感じなのがスグル、俺が肩を貸している前髪ぱっつんの女の子がシズリ……か。
ヒロシは叩きまくったゾンビに唾を吐いて勝ち誇る。
しかし頭を割られたゾンビが脳みそを零しながら立ち上がると、悲鳴をあげて俺達を追いかけて来た。
「ど、どこへ行くんだよ! てかお前誰だよ!」
こいつらはどうして今の状況で自己紹介を求めるのか。
「そこの筋を左折、左手のフェンスを破って中学校の校庭へ」
正門前にも5体ほどいるのでフェンスを突破するしかない。
説明中に大柄小太り男ゾンビが植え込みから飛び出す。
「うおっ! みんな気をつけろ!」
「てめえら汚ねぇんだよ!」
スグルは後ずさり、金属バットを持つヒロシが小太り男をフルスイングした。
バットは肩口にあたり嫌な音がする。
人間なら肩の骨や関節が砕けているだろう。
だがゾンビは怯むことなく呻きながらヒロシに手を伸ばす。
「上半身はダメだ。膝から下を狙って立てなくしろ!」
しかたなく大きめの声で言うもヒロシは聞く耳もたない。
「おらぁ!」
腰の入った一撃が側頭部に命中し、金属音と共に黒い血液と髪のついた頭皮が飛び散る。
しかしゾンビは倒れることなく、そのままヒロシに掴みかかった。
「頼む」
俺はシズリをスグルに預けて走る。
「た、助けて、助けろ! うわぁぁぁぁ!」
俺はヒロシに食らいつこうとするゾンビの頬にバールの先端を叩き込む。
歯と頬骨を砕きながらヒロシから引き離すと、ゾンビがこちらに向き直り、肉と骨の見える手で掴みかかってきた。
俺は避けずにあえて掴まれてから後ろに下がる。
ゾンビが掴んだのは袖を通さず羽織っていたジャンパーだけだ。
俺を引き寄せるつもりでジャンパーだけを掴み取ってしまったゾンビは勢い余って後ろに重心を崩す。
上半身が仰け反って突き出た膝へ上段からバールを振り下ろす。
骨を叩き割る手ごたえがあったがまだ倒れない。
大柄小太りの怪物は足もぶっとくて見るからに耐久力が高そうだしな。
俺は仕方なく踏み込み、全体重を乗せて追撃の蹴りを膝に叩き込む。
大柄ゾンビは後ろによろめき、膝下で折れていた骨が外に飛び出して地面に倒れ込んだ。
尚も元気に呻いているが、足が折れ曲がっては立てまい。
這いながら伸ばす腕に捕まるほど間抜けでもない。
「噛まれたか?」
確かヒロシ……に確認する。
「い、いや大丈夫、掴まれただけだ……」
なら助かったな。
俺は目だけで合図して再び駆けだす。
いつの間にかスグルがシズリを背負っていた。
少し残念だが体格的にも最善なのは明らかなので文句は言えない。
スグルはまるでラグビー選手のような体型だから。
俺達は無数のゾンビに追われながら予定通り中学校の校庭に進入する。
ちなみにバールで破ろうと思っていたフェンスはスグルがタックルで突き破った。
怪力に感心するがどうして戦ってくれなかったのかと腹も立つな。
金属バットを振り回してイキっているヒロシは痩せ型で俺でも勝てそうなのに。
どう考えてもバットはスグルが持つべきだ。
「また周り中から集まって来てる! 早く校舎に――!」
校舎を指すシズリに首を振り、別の方向を指し示す。
「あっちだよ」
俺が差したのは校舎の何十分の一かの大きさの建物……いや小屋だな。
「……体育倉庫……?」
俺は有無を言わさず飛び込み、3人はワラワラと続いた。
内部を観察すると見た目通り、古いタイプの体育倉庫兼資材倉庫だった。
構造はコンクリート製、扉は分厚い金属製で内開き、2mの高さに小さな格子のついた窓が一つ。
「こ、こんなところより校舎に逃げた方がいいんじゃ」
スグルの抗議は聞かない。
「扉の前に重いものを置く。取手には棒状の物を片っ端から挟め」
俺の迫力に押されたのか、迫りくる呻き声に急かされたのか、シズリ以外の二人が動きだす。
扉の前に山盛りの重量物が置かれ、取手には俺のバールや何の競技で使うのかわからない金属製の棒がギチギチに噛まされる。
「とりあえずこれで……」
完了宣言を言い切る前に扉がバンと叩かれた。
俺以外全員の肩が跳ね上がる。
まあ絶対にこうなるよな。
打撃音は瞬く間にドラムでも演奏しているような連打になっていく。
扉以外の壁にもやつらが群がっているようで、肉を打ち付ける音が周り中から聞こえた。
扉はガタガタと揺れ続け、乱打音と凄まじい呻き声が止まらない。
時折聞こえる肉が潰れる音は後ろから殺到するゾンビに押されて前の奴が潰れている音だ。
ものすごい数が群がってきているのは疑いが無い。
上から見ればこの建物はアリの群れに投下された砂糖みたいになっているはずだ。
「ひぃぃ……むぐ」
俺は悲鳴を漏らしかけたシズリの口を塞ぐ。
華奢で痩せ型なのに胸が結構大きいな。
叩きまくられている扉を観察する。
凄まじい勢いで叩かれながらも分厚い扉は健在だ。
閂代わりのつっかえも曲がってはいない。
コンクリート製の壁にも破損する様子は見えない。
窓は高いし、そもそも小さいのでいくら奴らが積み上がっても入ってはこれない。
「持ち堪えられる」
呟くと3人の顔に安堵が戻った。
「夕方ぐらいになれば静かになってくるさ」
3人の顔が盛大に引きつった。
――夕方。
「「「……」」」
俺以外の3人は疲れきってマットの上にへばっている。
ただ息を殺してじっとしていただけなのだが、8時間近くあの状況では無理もないか。
今でも時折扉は叩かれるものの散発的になっている。
他の音が聞こえない程の呻き声もマシに……あんまりなっていないな。
ふとスグルがこちらを見て口をパクつかせていた。
話しても良いか聞いているのか。
「小声なら」
そういうとスグルは大きく息を吐いてから近寄って来る。
「助かったんだよな? 夜は厳しいかもしれないけれど朝には外に出れるよな?」
「それは無理だ」
即答する。
やっぱり奴らのことを全然わかっていなかった。
「奴らの記憶力が持つのはせいぜい数時間、超えるとなにをしてたかわからなくなる」
だからこそ俺達への攻撃が止んだ。
「でも解散して家に帰るわけじゃない」
目標を見失ったゾンビはその場でなにもせずに立ち尽くす。
ふらふら動くにしてもその範囲はごく小さい。
「つまり、今ここの周りには……」
スグルが真っ青な顔で狭い体育倉庫をぐるりと一周見回す。
そう凄まじい数のゾンビが立ち尽くしているはずだ。
呻き声が全然マシになってないのはその証明でもある。
表に出れば即座に見つかり、さっきまでの再現になる。
いや音を聞いて集まってきた奴らもいるからなお悪い。
「マジかよ……」
ヒロシが拳を振り上げ、俺に睨まれて音がしないよう自分の太ももに落とす。
「じ、じゃあ逃げられないの?」
震えながら上目使いで聞くシズリに俺は微笑みかける。
ぶりっ子系のこういう仕草はたまらなく好きだ。
新しい刺激――つまりこいつら3人組みたいな集団が傍を通ったら即座にそっちを追うだろうが、こんなひどいのが二組もいる可能性は低い。
「概ね3日、新しい刺激を与えなければ奴らは自然に散っていくよ」
「し、調べたのか?」
スグルが聞いてくる。
「いや経験上」
前に同じようなことになった時、3日耐えれば楽だったが2日で出たら大変なことになった。
根拠はそれだけしかない。
3人はなんとも言えない顔で座り込む。
絶望ではないがまだまだ先は長く、根拠が俺の経験だけでは複雑な顔も仕方ないか。
「あ、あの……3日ってここには水も食べ物も……」
シズリが遠慮がちに呟く。
「無いな。だから体力消耗しないようにじっと耐えるしかない」
シズリは長い長い溜息をつく。
「……んなことならスグルのいう通り校舎の方に逃げれば良かったんじゃねえのかよ」
ヒロシが忌々しげに食いついてくる。
憎たらしい表情といいトゲのある口調といいクラスの誰かに重なるぞ。
名前もそのままか。
「学校なら非常食なりあるかもしれねえし、何よりこんなクソ狭めぇ……」
一応顔を凝視してみたが別人のようで安心した。
「100以上のあいつらに追われながら校舎に入ったらお終いだよ」
ガラス製の玄関なんか塞いでも即座に破られるし、一階教室の窓はエントランスフリーだ。
あとは上へ上へと追い詰められて屋上でジエンドだ。
他の住宅もマンションも同じこと、最初の数時間がまず耐えられないので、籠城を考える以前の問題だ。
百を超えるゾンビから身を守れるのは俺のマンションのように十分に準備された建物か、ここのような特殊な場所しかない。
用意なくそんな状況になった時点でほぼ詰みなのだ。
「とりあえず3日寝てればいい。それだけでいいし、それ以外には何もできない」
俺は話を打ち切って体育マットの上に横になる。
案外寝心地いいな。
ふとシズリが小さな声でうめきはじめた。
俺は慌てて跳び起きる。
「うぅぅ……くじいた足が痛いよぉ。腫れて来ちゃった……」
紛らわしいが可愛い女の子なので怒れない。
ヒロシがやったら多分蹴飛ばしてる。
「大丈夫か? 大したことはできないけど、一応応急処理だけでも」
俺はシズリの足を確かめ、折れてはいないと安堵してから水筒の水を飲ませる。
体育倉庫なら救急箱ぐらいあるはずだけど、もう誰かに取られているだろうか。
「水あったのか……言ってくれよ」
「なんか俺達と態度違わねぇか?」
スグルとヒロシが不満げに呟く。
それは仕方ない。
「俺は女の子が大好きだから、優しくなるに決まってる」
正直に言うと3人がまとめて噴き出して空気が少し軽くなった。
「そっかー。私みたいなの好みかー。ふふ」
シズリがニヤニヤと笑いながら水筒を返して来る。
「今なら自己紹介ぐらいできるよな」
スグルが差し出す手を一応取る。
これから丸3日、カビ臭い倉庫で過ごす仲だから。
次回更新は明日12日 18時予定となります。