第71話 罠 5月24日【裏】
5月24日(月)【裏】
俺は助走をつけてビルの屋上から跳躍、隣の屋上に着地するも勢いを殺しきれず回転してしまう。
「ぐぇっ」
思わず呻き声を出してしまった口を自分で塞ぎ、突っ伏したまま聴覚のみで周囲を探る。
「セーフかな」
誰にも聞こえないよう呟いて屋上の扉を開こうとするも鍵がかかっている。
もちろん予想の範囲内だ。
「このタイプはバールでこじ開けるよりもこっちの方がいい」
薄い金属板を隙間に差し込み何度か抜き差しするとカキンと軽い音と共に扉が開いた。
『裏』で調達に動いていると嫌でもこういうの慣れるので『表』では一流の車上荒らしや自販機荒らしになれそうだ。
「6階、田和デンタルクリニックっと」
俺が屋上から入り込んだのはとても見覚えがある場所、紬に同行した歯医者だった。
この歯医者は本当にすごかった。
受付の人が巨乳でこれは嬉しいと思っていたら紬の治療に現れた助手はそれ以上の巨乳、更に最後に出てきた女医先生はもう爆乳と言える大きさだった。
治療室までついて来いなんてバカなことを言った紬に感謝するしかない。
恐怖で震えていた紬はそれどころではなかったようだが、治療の間中、先生と助手の巨乳が顔や体のあちこちにあたりまくっていたのだ。
そのタイミングで受付の人に『お兄さんも歯石除去の予約をしませんか?』なんて聞かれたので選手宣誓みたいな勢いで返事してしまった。
受付の女性はやたらニヤニヤしていたからわかってたんだろうな。
年上女性にスケベ心を見透かされて手玉に取られるなんてより興奮してしまう。
「……おいおい。しっかりしろ」
俺は自分の頭を軽く叩いて思考を『裏』へと戻した。
俺が田和クリニックに来たのは巨乳歯医者の回想の為ではないのだ。
息を殺してクリニック内に入るなり、ゾンビ2体と鉢合わせる。
もちろん未確認の空間に入るわけだからこれも想定内だ。
俺の緊張で少しだけ充血した目と、痩せた男性ゾンビの白く濁った眼球がガッチリと絡み合う。
痩せ男が腕を前に突き出して一歩踏み出した時、既に俺は攻撃に移っていた。
俺は左手に持ったバールを大きく振りかぶって男の側頭部を殴りつける。
男の頭から血が飛び散り頭蓋骨が凹む生々しい感触があるも、ゾンビに対して頭部への攻撃、それも左手で致命傷を与えるのは不可能だとわかっている。
だからこの攻撃は次の動きへつなげる連撃の一環だ。
側頭部を殴られたことで痩せ男は右に傾き、その体勢のまま左手を俺に伸ばす。
体が傾いたことで重心的に右手は出せないのだ。
これを読み切って利き手に持ったナタで痩せ男の左手を肘の下から斬り飛ばす。
傾いた体から更に左手分の重量がなくなり、いよいよバランスが崩れる。
俺はそこで一気に距離を詰めた。
噛まれないように後頭部の髪を引っ掴み、ボロ布化していたスーツも掴んで足を払う。
そしてそのままガラスが割れてなくなった窓から痩せ男を投げ落とした。
3秒ほどの静寂の後、湿ったモノが潰れる嫌な音が聞こえる。
「さてこの騒ぎの間に」
振り返るともう一体の怪物……ピチピチのジーンズを履いた太め女性ゾンビが目前まで迫っていた。
これも予想通り。
俺はあえてアクションを取らず、そのまま太り女に掴まれる。
俺より頭一つ身長の低い女性は体格通り、俺の上腕を抱えるように掴み……つんのめった。
服の上にあえて軽く羽織っていたボロ布を過剰な力で掴んで引き千切ってしまったからだ。
前のめりになった女性に俺はあえて得物を使わず、体重を乗せた前蹴りで窓に向かって蹴り飛ばす。
バランスを崩した女性が倒れ込んだのは先ほど痩せ男を落としたのと同じ窓だ。
顔面から窓枠に突っ込み、血と歯をばら撒いた女性の両足を後ろから掴み、これまた窓から投棄する。
「あー重かった」
男の二倍ぐらい重かったように感じる。
もう少しデカいのが来たら危なかったな。
少し前まではゾンビと戦うのはタブーなんて言っていたのにな。
我ながら相当強くなっているんじゃないかと思う。
経験上、調子に乗ったらえらい目に会うのがわかっているので勝ち誇るのはやめておくが。
ともあれこれで脅威の排除には成功した。
俺は待合室の奥に入り、本来の目的たる窓を開く。
田和医院の隣には中規模の商業ビルがある。
やや劣化した看板にはお洒落なレトルト食品や菓子を販売するブランド名が書かれている。
今となってはお宝マーカーを突き立てているに等しい。
なのでそこら中から人が群がる――とはならない。
商業ビルには元々人が多かったからか、それともお宝を狙った者が噛まれてゾンビ化したのか、ともかくビルの前の通りに無数のゾンビが徘徊しているのだ。
「正面からはとても無理。仮に押し入ることに成功しても通りの奴らが全部追いかけて来るからまともに物資を調達する余裕なんてない。しかし……」
言いながら俺は下を覗く。
正面からは死角になり、かつ金属のゲートで仕切られた場所に従業員用の裏口と地下の搬入口があるのだ。
「こっそり忍び込めれば美味しくて日持ちする大量の食糧を調達できる」
知っていれば狙わない手はない。
そして俺はこれをタイコさんから聞いた、つまりタイコさん拠点の居住者調達班は知っていると言うことだ。
タイコさんに聞いた限り、調達班の隊長は嫌味で傲慢だが有能であるとのことだ。
「ギリギリの食料事情、人数を減らした調達班……まともな思考ができれば絶対に来る。それも数日中に」
物資を調達に来るであろう彼らの行動を見渡せ、かつ比較的安全な場所がこの田和医院だったのだ。
ここに陣取って罠を張る。
全てが思うように転がれば、奴らは俺を子供のアオイと怪我人のタイコさんとセットで受け入れざるを得なくなる。
「さて頑張って罠作ろう」
俺はザックから大量のビニール紐と空き瓶を取り出す。
まるで女郎蜘蛛みたいだなと笑ってしまった時、ふと影が落ちた。
「――!」
俺は声を出す暇も振り返る余裕もなく前に転がる。
首筋をボロボロになった爪が掠める。
「あっぶねぇ」
心の底からの声を漏らしながら振り返る。
言うまでもなくゾンビ、待合室ではなく治療室の奥から出てきたらしい。
最初の戦闘に反応せず時間差で現れたせいで危なかった。
「先生かよ……」
そのゾンビは白衣を纏っていた。
更に噛まれて抉れたらしい首筋から胸元まで服が大きく裂け、そうそうお目にかかれないサイズの巨大な乳房がのぞいている。
崩れかけた顔も言われてみれば昨日みた先生だとわかる。
「もったいない」
心の底からそう思う。
そうは思うが手遅れだ。
さっさと殺してしまわないと俺が食われる。
おっさんゾンビに食われるよりは少しだけ幸せだろうが、俺の命にはアオイとタイコさんの命も乗っているのでやられるわけにはいかない。
幸い先生ゾンビは体の損傷が大きいのか動きが悪く、簡単に対処できそうだ。
どうするかなど言うまでもない。
ここには何度か通うことになるだろうから脚を潰すなどの無力化では不十分、同じ理由で室内に死体を残すこともしたくない。
「さっきの2体と同じ」
先生は特に右半身の損傷が激しかった。
俺は迷うことなく右から回り込み、先生の肩を一撃してとある小部屋内に転がす。
そして間髪おかずにドアを閉めて傍の机においてあった鍵で施錠した。
「レントゲン室……なーんで殺さず閉じ込めるかなぁ」
先生はすぐに起き上がりドアを叩きはじめたようだが、放射線を遮断する鉛入りの分厚い鉄製ドアはビクともしないどころか音さえほとんど漏れてこなかった。
一応これなら問題はなさそうだが。
「日和ったなぁ」
どう考えても殺しておくべきだったのにできなかった。
『表』で笑顔を見せられたばかりの巨乳女性が出て来るのは反則だろう。
しかも来週世話になった時には食事にでも誘い、胸を一揉みできないだろうかと思っていたのだ。
「まあいいや。もう済んだことだ」
俺は再び罠を張る作業に戻る。
夕刻、俺はアオイの待つ部屋に戻る。
「お帰り!」
「ただいま。声は抑えような」
気持ちの良い挨拶にも文句をつけないといけない悲しい環境には一刻も早くおさらばしたい。
「今日は大した収穫は無かったけど面白いお土産があるんだ」
「なになに、おにいちゃん」
期待に目を輝かせて近寄って来るアオイに向かって取り出したのは世の子ども達を震え上がらせる魔具――歯医者さんドリルだった。
「なんでそんなことするかなぁ」
タイコが呆れた顔で言う。
「軽い悪戯のつもりだったんだ……」
俺は『おにいちゃんなんて嫌い!』と言ったきりタイコさんの布団に潜り込んでしまったアオイを見て溜息をつく。今日は一緒に寝てくれないなこりゃ。
「本命はこっちだ」
俺は歯医者から調達してきた注射器と麻酔薬を取り出す。
「一応やり方はわかってるけど所詮は素人だから緊急時だけになるけど」
「……我慢できなくなったらお願いするかも」
俺は今も冷や汗を浮かべているタイコさんに頷き返す。
「ところで気になってたんだけど。双見君、そのずっとたって……」
人に言われると余計情けなくなるので自分から言ってしまおう。
「ブーストかかった時からなんか性欲がすごくてさ。ほんのちいさなきっかけでもたちまちこうなる」
「アオイ君に向けちゃだめだよ」
タイコさんはそれだけ言って横になってしまう。
「大人の女性がさっくり解消させてくれる展開は……」
寝息が立ち始めた。
どうやらないらしい。
俺は悶々としたまま布団に入るのだった。
「――をしてあげて欲しいの。おにいちゃんもう限界だから。僕じゃその気になって貰えないし……」
「い、一応恩もあるし人としても嫌いではないんだけれどなにぶん経験がね……」
「えっおねえちゃんもう――歳なのに?」
「と、トレーニングに打ち込んでたから!」
夢現の中、聞こえてくる声は寝込みつつある『裏』のものか、それとも目覚めつつある『表』のものか定かでない。
僅かな微睡みの後で目が覚める。
差し込む朝日を受けながら窓を開けた。
準備は万端、あとは奴らが調達にやってくるのを待ち構えるだけ――。
「ってこっちは何も万端じゃねえ! 本当に何もやってない!」
リアルに本当にマジに何もやってない。
「まさか『表』でも修羅場になるなんて……いいさ2本立てでやってやる!」
気合いを入れたところに寝ぼけ眼の紬が現れた。
「ふにーホマ君うるさい」
「すまんすまん……ってこの匂い、懲りずにまた寝る前になんか食べたな」
俺は寝ぼけてふらふらしている紬を抱き上げ、洗面所で歯を磨いてやる。
目ヤニも綺麗に落として……鼻毛も抜いて……眉毛も乱れてるな、ちょっとカミソリで整え……あっ。
「まあ大丈夫。死にはしない。怪我もしてない。大したことじゃない」
さあ学校に行く準備をしよう。
主人公 双見誉 放浪者
拠点 新都雑居ビル8F 3人
環境
人間関係
同居
アオイ「不貞寝」タイコ「清い」
備蓄
食料14日 水2日 電池バッテリー0日分 燃料0日分 麻酔注射器五回分
経験値95+X
次回更新は明日3月12日 夜予定です。