第56話 謎の女性 5月18日【裏】
5月18日(火)【裏】朝
拠点 雑居ビル8F
小さなアルコールランプでカクテルシェイカーを温める。
5分程沸騰させてからレトルトパウチを取り出して封を切り、これまたシェイカーで無理やり頑張った微妙な焚き具合の米にかける。
周囲に独特の匂いが立ち込めてアオイの目はキラキラ音が聞こえるほど輝く。
レトルトカレーの出来上がりだ。
「いただきます!」
アオイは俺が声を押さえてと注意してしまうほどの勢いで言ってから食べ始める。
コーヒー用の小さなスプーンしか無いことなどものともしない。
「僕。カレーが大好物なんです!」
子どもらしい好物を主張しながら猛烈に食べるアオイを見ながらだと俺のお茶漬けも美味しく感じる。
「コスト重視、味度外視で商売してた店主に感謝だな」
お茶漬けキッチンカーで味を占めた俺は同じような車を狙い、またも『表』で食べたカレー屋の車を探し当てたのだ。
その店の看板には手作り熟成煮込みうんぬん書いてあった。
もしそれが本当なら材料なんてとっくに腐りはてているはずだが、車内をひっくり返すと『業務用』と書かれたカレーのレトルトパウチがドッサリ出て来たのだ。
「晴香のを一口貰った時にフードコートの味がしたからおかしいと思ったんだ。何種類も混ぜて誤魔化すとか悪質すぎるだろ」
しかしそのおかげでアオイが笑顔で食事できるわけだから大目に見てやろう。
食べ終わるとアオイは俺の手を取り、にこりと微笑む。
「おにいちゃん、いつも僕のためにご飯も水も持って来てくれてありがとう!」
「どういたしまして。これからも任せとけ」
感謝を受け入れてから出発の準備をする。
米とレトルトをまとめて手に入れたことで一息つけたが、水となにより調理器具と食器がまったくない。食器類は食料そのものよりは後回しだが、シェイカーで米を焚く現状はさすがにまずいから早急にまともな物が必要だ。
俺が調達に出た後、アオイはカウンターの後ろで過ごすことになる。
もし他の人間や怪物が入ってきたら食器棚の中に隠れるように言い聞かせている。
「一応夕方までには帰る予定だけど、もし帰ってこなくても探しに出るなよ」
「うん!」
元気な返事を受けて頭を撫でた。
トラブルが起きて夜までに戻れなくなる可能性は当然ある。
そこからアオイが心配して外に出て――というのが最悪の展開だ。
「但し三日戻らなかったら食料と水を抱えて人を探せ」
三日も戻らなければ俺はもう帰れないと思っていい。
その場合、アオイの生存率は1%も無いだろう。
俺が帰れなかったらアオイも終わりなのだ。
「いってらっしゃい」
アオイは俺の腰に抱きつき、スリスリと背中に頬を擦りつける。
高熱から復帰したアオイはこうして甘えてくれるようになった。
彼女はまだ小学生の歳だし、二人きりの共同生活で年上に甘えたくなるのは当然だろう。
「できれば早く戻ってね。おにいちゃん」
ただ目の奥に湿度を感じるような気がするが……勘違いだな。
小学生がまさかそんなはずがない。
拠点のバーを出た俺は足音を立てないようにビル内の階段を降りる。
その途中にひょっこりと顔を出したゾンビの前で足を止め、わざと見られてから階下へ駆けおりる。
「これで……5体目と」
俺は階段を下り終えたゾンビを待ち構えて膝をバールで砕き、歯の部分を後頭部に叩き込んでビルの外へと引きずっていく。
俺達が身を隠している雑居ビルの中で安全を確認したのは拠点にしているバー内だけだ。
他の店部分にはまだ結構な数のゾンビが残っている。
そのせいで思い切って火も使えず、大きな声で話すこともできない。
本来ならば早急に排除したいところなのだが、狭く暗い空間に踏み込んでの掃討は危険すぎる上、もし予想外の数が居て乱戦になればその音で通りから他のゾンビを引き込んでしまう恐れもあった。
だからこそ危険を承知でゾンビ隣人に我慢している訳だが、一匹でも少ない方が良いのは間違いない。こうして出発の度、顔を出した奴が居れば処分して外に放り出しているのだ。
「今日の目標はあのビル4Fにある居酒屋。ミネラルウォーターと食器と、できれば固形燃料か」
旧市街に居た時と違って物資調達が見込めそうな場所はそこら中にある。
距離も近く今回の目的地まではほんの50mほどだ。
だが決して簡単ではない。
むしろ旧市街での調達よりもずっと危険だ。
俺は大きく息を吸い込み、深呼吸と同時に走りだす。
旧市街の時のように早歩きでは足りず、走り続ける必要がある。
拠点を出た瞬間、左右から10体以上が迫ってきている。
彼らを振り切ったところで路地から3体、更に廃車の中から1体と半分――下半身が潰れた個体が這い出てくる。
車から距離を取るなり頭上に気配を感じて前に飛び込む。
同時に今まで俺の居た場所から鈍い音がしてゾンビの残骸が飛び散った。
ビルの中に居たゾンビが俺を見つけて追いかけ……るつもりで落下してきたのだ。
窓が健在なら、割れる音で落下を予測できるのだが既に割れている場合は気配で察するしかない。
かと言って上ばかり見上げていれば路地や廃車の下から突如出てくる奴らへの対処が遅れる。
前転した先にいるゾンビを回避して路肩に寄ったところで業務用大型ゴミ箱の中からチャラい服を着たゾンビが飛び出した。
「ゴミ箱にゾンビ捨てたやつ誰だよっ!」
予想外のことに体の反応が遅れてしまい飛び退くことができなかった。
仕方なく開いた口にバールを突っ込むとゾンビは構わず噛みしめ、鉄に負けた歯が折れて飛び散る。
俺はガリガリとバールをかじりながら肩に掴みかかるゾンビと力比べをし、当然負けかけるところで体を後ろに引きながら地面を転がる。
勢い余ったゾンビの両足が浮き上がり、更に俺がゾンビの鳩尾に足をついて跳ね上げると湿った嫌な音を残してゾンビは綺麗に宙を舞う。
「……うぇ」
まるで入れ歯のように歯茎ごとバールに残った歯を振るい落としながら跳ね起きる。
ゴミ箱の中を覗くと綺麗な女性、正確にはその頭部が恐怖に歪んだ顔のまま転がっていた。
後の部分は引き裂かれ食い荒らされ、赤くドロドロした残骸としかわからない。
一緒に隠れた男が中で怪物になったのか、一人で隠れたところにチャラ男ゾンビが飛び込んだのか。
いずれにせよ死体を前に考えても意味がないことだ。
俺は起き上がろうとするチャラ男を無視して駆けだす。
周囲には俺に狙いを定めているゾンビが数十体はいる。
チャラ男を追撃して無力化することになんの意味も無い。
「目が足りない」
どれだけ気を張っても対処が追い付かずに奇襲を許してしまう。
僅かな安全地帯も存在しない。どこを歩いていてもノータイムで奇襲されるリスクがある。
常に追われている状態が当たり前で足を止めて思考、分析することもできない。
常に全周を警戒しながら走り、更に走りながら考えなければならない。
これが新都を歩くと言うことだ。
ここでの50mは旧市街を500m進むより遥かに負担が大きい。
体感時間では2時間超、実際には3分ほど走ったところで目標のビルが見えて来た。
走りながら内部の構造を思い出して頭の中に置いておく。
しかし過剰に頼りにはしない、内部に複数のゾンビがいるのは確実で予定した進路でいける可能性の方が低いからだ。旧市街の時のようにじっくりと周辺や内部を観察する余裕もない。
作戦は立てても結局は出たとこ勝負だ。臨機応変になんとかするしかない。
俺はビルに向けて全力疾走する。
一階のカフェスペースの窓を割って飛び込み――。
「作戦変更!」
破ろうとしていた窓の前で野球帽を被った男の死体を5体のゾンビが貪っている。
あそこを突破するのは危なすぎる。
俺は裏路地へと飛び込み、カフェとは反対側にある非常口へと走った。
路地には当然とばかりに二体のゾンビが陣取っており、俺に向けて手を突き出してむかってくる。
片方は若い女性、もう片方は多分女性だが顔面がほとんど潰れていて完全に怪物の様相だ。
俺は速度を緩めずに飛び込み、バールが刺さらないよう気をつけて若い女性へ体当たりする。
バールが女性の肋骨を砕く感触を感じながら吹き飛ばし、もう一体も巻き込んでひっくり返す。
俺は足を止めてバールを振り上げ、倒れた女性の眼球部分を叩き潰す。
もう一体の方は顔全体がグシャグシャだから構わない。
そして懐から酒瓶を取り出して明後日の方向に投げる。
2体のゾンビは目が潰れたことで目の前にいる俺を見失い、酒瓶が割れる音を追って歩き出した。
罪悪感を感じる暇もなく鍵のかかった裏口をバールでこじ開けて中へと飛び込む。
もちろん内部にいる怪物も一体や二体ではない。
物陰に身を潜め、時には這いつくばりながらやり過ごしてビル内部を進み、階段を登ってようやっと居酒屋の前に到達した。
店内にいるのは一体だけ。
バイトだろうか胸に名札を下げたゾンビはただ棒立ちしていた。
「……これはやったほうがいいか」
俺を追っていたゾンビ達は既にビルの一階に入り込んで歩き回っている。
気付かれないよう隠れながら物資を探すより、さっさと倒してさっさと逃げた方が危険は少ない。
心配なのはバールで殴り殺すと結構な音が出ることだが……。
そこで俺は店内の調理台に置かれたある物に気付いた。
調理台からソレを取り、バイトの後ろから静かに近づく。
そして息を吸い込み、テーブルの下に小石を放り込む。
立ち尽くしていたバイトは小さく呻き、頭を下げてテーブルの下を覗き込む。
がら空きになった首筋を狙い、俺は包丁――ほとんどナタにしか見えない肉切包丁を振り下ろした。
湿った音に続いてゴトンと響く音……それっきり呻き声も足音も聞こえなくなった。
「これに慣れると『表』でサイコパスになりそうだ」
ぼやきながら必要な物資を集めていると階段が騒がしくなってくる。
いよいよ怪物どもが大挙して四階まで登って来たのだ。
「予想通りの動きだけど予想より速いな。どうしてすぐに上に来るんだろ……最近こういうの多いよな」
俺は首を傾げたが元々帰りに階段が使えないのは織り込み済みだった。
ビニール紐を束ねて編んだロープを取り出して調理台にひっかける。
そして反対側を腰に結びつけ、あとは一息にここから飛び降りて逃げるだけ。
もちろんただ降りれば足の下にゾンビがいるなんてこともある。
そこでいかにも音がなりそうかつ、投げやすく遠くまで飛びそうな金物を掴んで振りかぶる。
「そらっ!」
鍋はくるくると放物線を描いて飛び、対面のビルに命中して大きな音を鳴らした。
続いて二投目、そして三投目……。
店の正面に居たゾンビ達がワラワラと道路を渡っていく。
「さて今のうちに」
俺は割れた窓でロープが切れないようバールで払い除けて跳躍する。
我ながら簡単にやったけれどスポーツ施設であったボルダリングの数倍怖いなこれ。
なにより怖いのは手作りロープの信頼性だ。
アオイと一緒に30分ぶら下がって切れなかったからOKぐらいのテストだったからな。
それでも簡易ロープは俺の体重に耐えた。
もちろん使い捨てなのでナイフで斬って下に降りようとした時だった。
ゾンビ達が一斉に首を動かす。
俺の方ではなくまったく別の方向だ。
「ちっ」
俺は思わず舌打ちしてしまう。
ゾンビがこんな反応をする理由はほぼ一つしかない。
案の定、人間がこちらに走って来る。
帽子を深く被っていて顔は見えないが大柄の女性だ。
上下とも黒一色の服を着て背中には大きなザックを背負っている。
「まずいぞ」
女性の背後からは十体以上のゾンビが追いかけてきていた。
それだけなら新都では当然のことだが、女性の正面には俺が誘導したゾンビがこれまた十体以上いて挟み撃ちになってしまった。
しかも運悪く近くに逃げ込める路地がない。
近場のビルへの入り口は突っ込んだ車が塞いでしまっている。
「援護しないと」
俺は慌ててナイフでロープを切ろうとする。
知らぬこととはいえ、俺のせいで挟み撃ちになってしまった。
これで死なれたら最悪の気分になってしまう。
だが女性はそのまま前方のゾンビ集団に突っ込んでいく。
というか俺を見た瞬間、ものすごい音で舌打ちをした気がする……気のせいだよな。
「おいやめろ! 援護するからそこで止まって――くっそ頑丈すぎるぞこれ!」
ビニール紐の束が斬れない。
仕方ないので服の方を切ろうとした時、女性はそのままゾンビに向かって突っ込んでしまった。
俺は顔をしかめる。
女性は倒されて腹を喰い破られ内臓を引きずり出されて殺されるのだ。
また助けられなかった、また俺のせいなのだ。
だが目の前の光景はまったく予想外だった。
「嘘だろ」
思わず声が出てしまう。
突っ込んでくる女性を掴もうと伸ばした作業員ゾンビの両手が肘から切断された。
なくなった手に気付く間もなく、作業員の首が地面でワンバウンドする。
左右から同時に迫ったお洒落おばさんとダンディおじさんのゾンビの腕が女性を捉えることなく宙を彷徨う。
彼らの両目は一瞬で切り裂かれていたのだから当然だ。
血に染まったシェフゾンビを脳天から顎まで叩き割って即死させ、大学生ゾンビの両足を切断し、主婦ゾンビの首はなんと素手で圧し折った。
そこでようやく服が切れて俺は地面に落ちる。
「援護しないといけないんだろうけど」
女性はDQN男ゾンビとギャルゾンビの鼻へナイフ?ナタ?ククリナイフと言う物だろうか――を深々と突き入れ、一回転捻じって引き抜く。
完全に脳を破壊されたDQNとギャルは痙攣しながら倒れ込んで起き上がらない。
「これ、援護いらないよな」
あんな女性……いや女性でなくともあんな強いやつ見たことがない。
ゾンビの集団に突っ込んでナイフだけで皆殺しとかどこのゲームから出て来たんだよ。
路地裏から飛び出したゾンビが女性の背中を狙う。
だが女性は一度も振り返っていないのに正確に攻撃を予測して口にナイフを突き込み、もう片方のナイフで首を切り飛ばした。
深々と帽子を被っているので表情は見えないが、唯一見える口はへの字に結んだままで恐怖も興奮も何も映していない。ただ機械のように淡々とゾンビを処理し続けている。
この間僅か10秒弱、後方から来るゾンビもまったく追い付いていない。
「貴女は――」
俺が走り寄ろうとした時、女性が頭上を指差した。
反射的に前に向かって転がってからバールを構える。
なにもおきない。
「あれ?」
頭上を見上げるも何もない。
そして視線を戻すと女性もいなくなっていた。
「ええ……」
ほんの数秒で完全に見失ってしまった。
探そうにも彼女を追っていたゾンビの集団が俺をロックオンしている。
逃げる以外の選択肢はとれそうになかった。
拠点に戻った俺は必要以上に響かないよう、小さくひっかくようにドアを叩く。
室内からパタパタと可愛い足音が聞こえ、ドアに巻いたロープが解かれた。
「おかえりなさい、おにいちゃん! 今日早かったね!」
「楽勝だったぞー」
俺は疲れを見せないように気をつけながらアオイの頭を撫でる。
「食器と水と固形燃料……」
俺は調達したものを並べながら笑う。
お茶漬けとレトルトカレーがまとまった数あるので水と燃料さえあれば当分は事足りる。
「ありがとうおにいちゃん!」
「おう」
抱きついてきたアオイの髪が鼻の前を掠める。
そして合点がいった。
「あぁなるほど」
最近どうにもゾンビに気付かれるのが早いと思っていた。
見られていないし音にも気をつけているのに、何故か集まって来る。
「どうしたの?」
その理由がわかった。
当然のことなのに失念していた。
「アオイ、服を脱げ」
「ふえっ!?」
アオイはまず硬直し、次いで赤くなりながら俯き、どうしてか気合いを入れ直す。
「うん……わかった。おにいちゃんも女の人いなくてつらいもんね……僕まだちっこいけど……いいよ」
何故か上目遣いで答えるアオイの服を俺はゆっくりと脱がせていった。
主人公 双見誉 放浪者
拠点 新都雑居ビル8F 2人
環境
人間関係
同居
アオイ「OK」
中立
風里2尉「行動開始」
備蓄
食料30日 水10日 電池バッテリー0日分 燃料10日分
経験値91+X