第4話 裏の世界 4月12日【裏】
コップ三分の一の水を口に含み、うがいとゆすぎを同時にしてから吐き出す。
ほんの少し、濡らす程度の水で目やにをとりながら自室を出る。
まずは四階の外廊下……異常なし。
次いで六戸の部屋を全て確認……窓も壁もいつも通りだ。
階段で三階に降りて同じように外廊下と各部屋の確認……大丈夫
二階も同様、これで朝の見回りは終わりだ。
四階の自室に戻って文具ノートを確認する。
書き連ねられた備蓄物資の残量は頭の中の認識と大きな違いはなかった。
ノートの数字を減らしてからガスコンロに鍋を乗せ、ギリギリ浸かる程度の水でパスタを茹でる。
ツナ缶を乗せ、上から大量のマヨネーズをぶっかけてかきこむ。
最後にサプリを一粒飲み込んで食事は終わりだ。
「食料と水の備蓄が割ったな。予定通りいくか」
備蓄が二週間分を割ったところで調達に出ると決めている。
もちろん悪天候だったり『アレ』が多かったりすればその限りではないが。
今日はそのどちらにも当たらない。
朝は快晴、昼前から少し曇るが雨は降らず夕方にはまた快晴になる。
厚手の皮ジャンを着てジーンズを履き腕と太ももに布を巻きつけ革手袋をする。
背中にはザックを背負い1m弱のL字バールと5メートルのロープを吊るし、ペンライトと小型双眼鏡をポーチに入れる。
さて出発と自室を出たところで足を止める。
「これをしょっちゅう忘れる。無意識にやりたくないと思っているのかも」
持ち出したバケツには口をすすいだ水から生ごみ排泄物まで汚い物が全部詰まっている。
マンションの屋上まで登り、どの部屋の窓も向いていない方角に向けてバケツを振りかぶる。
「『表』でこれをやったら大ひんしゅくなんてもんじゃないだろうなっと!」
撒き散らされる汚物。
文句を言う者はもういない。
俺の住むマンションにはもちろん、向かいの木造アパートにも遠目に見える市営住宅にもいない。
文句を言う者どころか多分生きている者が居ない。
人々が法を守り法に守られ、マナーを語り破る者を責める。
そんな世界は少し前に終わってしまった。
この『裏』世界で人々の関心事は厳しすぎる世界で生き残ること、それだけだ。
俺は近くに『奴ら』がいないのを確認し、二階のベランダからハシゴを中庭に降ろす。
飛び降りられなくもない高さだが足でもくじいたら大変だ。
ここに住みついて八か月程。
何十回と繰り返した動きで軽快に中庭に降りる。
中庭に降りると同時に立てかけたハシゴを取り外して無造作に置かれたブルーシートの下に隠す。
このマンションは四階建て。
二階から四階が住居、一階は管理人室だけがあり残りは柱と駐車場だけのピロティ構造だ。
もちろん本来は外壁に梯子をかけての上り下りなど想定していない。
エレベーターは最上部からワイヤーを切ってカゴを地下まで落とした。
外側の非常階段はボルトを全て外して倒壊させ、内部の階段は一階の踊り場部分から瓦礫とセメントで埋めて完全に塞いだ。
今このマンションにはまっとうに通れる出入口が一切ない。
「いくか」
できる限り静かに出てきたつもりがそれでも梯子をかけて降りてと少なくない騒音を立てている。
物陰から『アレ』がフラフラと寄ってきている可能性は大いにあるので、さっさと移動してしまうに越したことはない。
ひび割れたコンクリートを踏みしめ、申し訳程度の遊具が置かれた中庭からアスファルトの道路へ。
通り過ぎ様にマンション名が刻印されたプレートを流し見る。
『両河ドリームヒルズ』
毎度出かける前のルーチンワークになっている。一度も欠かしたことはなく、一度も笑わなかったことはない。
「ドリームヒルズね」
一棟丸ごと焼け落ちたマンションから未だに薄く煙が上がり、黒焦げの何かが転がっている。
「ナイトメア」
電柱に突っ込んだバイクの脇に男が倒れている。
顔面は全て食い千切られ、胸から下は肉片となって道路一面に散らばっていた。
「ヘルズの間違いだろ」
男の傍に立っていた女性が振り返る。
白濁した目に削げ落ちた鼻、血塗れの大きく開いた口から呻き声をあげ、脇からブランドバックのようにこぼれた内臓をぶら下げて迫って来る。
俺は反応しない。
叫びもしないし攻撃もしない全力疾走で逃げもしない。
ただ相手との距離と速度を計り絶対に触れられない位置取りをして淡々と通り抜ける。
女は呻きながら追いかけてきたが徐々に離れて見えなくなる。
振り切ったと歓声はあげないし安堵の溜息も吐かない。
ただのルーチンワーク、珍しいことも特別なことも何もない。
奴らは『アレ』もしくは『怪物』などと呼ばれている。
『アレ』は元人間だ。ある時を境に多くの人間がこうなった。
そのせいで世界は崩壊した。
原因は誰も知らない。
簡単に言えばそういうことだ。
「どう見てもゾンビだよな」
まだラジオで人の声が聞けた頃からあえて避けられていた呼び方だったが、もう俺の中では分かりやすくゾンビでいいだろう。
ゾンビだゾンビ、ゾンビゾンビ。あぁなんとなくすっきりした。
心の中の笑い声に反応したはずもないが、突如生垣の中から痩せぎすの男が転がり出る。
喉部分が半分無いのに向かってくるのだから確かめるまでもなくゾンビだ。
白濁した目はしっかりと俺を捉えている。
「これで見えてるってのが気持ち悪い」
奴らの目は見えているし耳も聞こえている。
確かめる機会は少ないが鼻も利いているだろう。
人間だった頃と同じ全ての知覚を持っていて、その全てが鈍くなっている。
近眼で耳が遠く風邪気味な人ぐらいの感覚だろうか。
ただ知能だけは無くなってしまったのか、一度こうして人間を見つけるとただ一直線に向かってくる。周りに知らせたり仲間を呼んだりすることはないのだが――。
ゾンビの潰れた喉から耳障りな呻き声が漏れた。
少し時間を置いて近くの民家の窓から脳天にガラスの刺さった女ゾンビが、更に二階の窓から男のゾンビが転げ落ち、凹んだ頭のままで立ち上がる。
仲間を呼ぶ知能はないものの、ゾンビは他の個体が立てる呻きや騒音にも反応するので、結果的に一体に見つかると次々集まってきて囲まれることが多い。
さて目の前の状況はすり抜けられないことはないが無駄に危険だし、この通りは目的地まで一直線なので下手するとずっとついてこられる。ここは一旦下がって迂回するべきだろう。
踵を返して後退してから迂回した筋で様子を伺っているとゾンビ三体は俺が逃げた方向へ一直線に歩いて行った。
奴らは相手が逃げれば逃げた方向へ延々と追いかけ、音がすればその場所を延々と叩き続ける。
裏口を探して回り込んだり周囲を探索するような知能はない。
手先も極めて不器用で自分の側にある鍵を開けることもできない。
「油断していて偶然ドアノブを開けられたこともあるけどな」
個体差はあるものの足元もふらついて普段は這うぐらいの速度、標的を追いかける時でもせいぜい早足程度の速度だ。
階段は登ってくるものの角度によっては転げ落ち、ハシゴの類は絶対に登れない。
俺が階段を潰してハシゴで出入りしているのも奴らが侵入しないようにする為だ。
だが一方で――。
グチャグチャと異音に気付いて足を止める。
民家の庭にゾンビ二体が座り込み、若い女性の内臓を引きずり出して貪っていた。
庭に置かれた物置が大きく引き裂かれている。
物置に隠れているところを見つかり、破壊され引きずり出されたのだろう。
俺は足を忍ばせてゾンビの後ろを通り過ぎる。幸い気付かれることはなかった。
知覚も動きも鈍いゾンビだが、力だけは人間を上回る。
同年代少女のゾンビと組み合いになったこともあるが、危うく押し倒されかけた。
おまけに痛みもまったくないらしく爪がめくれても握り締め、腕が折れても叩き続けるので下手な扉やバリケードなどでは簡単に破られてああなってしまう。
またも別の呻き声に目をやると路上にゾンビが一体倒れていた。
そのゾンビは頭が何か所も凹み、胸と腹はズタズタ、手足はミンチになるまで潰されていた。
明らかに生きている人間が袋叩きにしたとわかる。
「だが、これだけやっても……」
ボコボコゾンビは俺に気付いて呻きながら芋虫のようにのたうつ。
これだけやってもこいつらは死なないのだ。
完全に殺すには頭を破壊するしかない。
それも人間を殺すレベルではなく首から上を切り落とすとか、頭が原型を留めないぐらいに叩き潰さないといけない。
包丁で喉を裂くだの、心臓を貫くだのは無駄でしかない。
だからゾンビとの戦闘は他に手段がない時以外は避けねばならない。
RPGに例えれば、素早さ1で攻撃力2倍、HP10倍の相手とエンカウントするようなものだ。
レアアイテムでも落とすなら頑張るがお金もアイテムもドロップしない。
『逃げる』以外の何を選択するというのか。
突然、助けを求める悲鳴が響き渡る。次いでガラスが割れる音と何かが落下する音、そして悲痛な絶叫……遠いな。
俺は何事もなかったかのように歩き始める。
助けに行くには遠すぎる。
できることは何もない。
「もし『表』だったらそこら中の窓が開いてみんな顔を出すだろうなぁ」
ある者は助けに走り、ある者は警察かどこかに通報し、モラルの無い者は動画でも撮ってひんしゅくをかうのだろう。
だが『裏』では誰も何もしない。
俺のように遠くで叫びを聞いた者は反応せず、近くにいる者は音によってくるゾンビを警戒して逃げ去るだろう。
誰も助けない。助けられない。表と裏では命の重さがあまりに違う。
「表と裏、我ながら面白い呼び方を考えたもんだ」
『表』とは俺が新入生として高校に通っている世界だ。
ちょっとした騒動でスマホをダメにしたが代わりにこれから俺を好きになってくれるかもしれない美少女と知り合えた嬉しい世界。
電気も水道もあり、犯罪者がいれば警察、体調が悪くなれば救急車が来てくれる世界。
平凡な5人家族の一員として平凡な生活をしている世界。
『裏』とは終わってしまった世界。
死体が転がりゾンビのような怪物がうろつく中、延々と隠れるか食料と水を求めて歩き回る世界。
インフラは止まり、無法者は殺すか殺され、動けなくなればそのまま死ぬ世界。
たった一人でマンションに籠って生き延びている世界。
二つは別々の世界ではない。
ちらりと視線をブロック塀に移す。
『旧市街 北通り三丁目○○ー△△』
この場所は『表』にもある。
同じブロック塀の同じ場所に同じ看板が貼り付けられ同じ建物が立っている。
今となっては確認できないが同じ人が住んでいたはずだ。
空を見上げる。
快晴だった空に雲が湧いてきたが雨の心配はないと言い切れる。
『表』の今日がそうだったからだ。
地形も地名も天気も何もかも同じ。
だから『表』と『裏』と呼んでいる。
そしてこちらが『表』のはずがない。
さて到着した。
目的地は二階建てのありきたりな公民館だ。
ポーチから双眼鏡を取り出して周囲を観察する。
遠目に数体のゾンビは見えるものの、これだけ距離があれば奴らからはこちらが見えない。
大きな音さえ立てなければ気付かれないだろう。
俺は素早く公民館の敷地内に入り、音に気をつけて扉に手をかける。
幸いにして扉は施錠されておらず、バールで叩き壊す必要はなかった。
物音に注意しつつ慎重に玄関から入ってホールを通り抜けて進む。
迷うことはあり得ない。一昨日『表』の方で下見をしているからだ。
ちょうど老人会が催しをやっており、おはぎを貰ったことを思い出す。
「あった」
『休憩室』のプレートが下がった和室の押し入れから『災害用備蓄』と書かれたダンボールを見つけて引っ張り出す。
「水のペットボトル、ツナ缶、レトルトの米、果物缶、乾電池にカセットボンベ、完璧だ」
思わず笑みが漏れてしまう。欲しい物が全部残っていたからだ。
食料とは無縁に思える公民館に来たのは正解だった。
ザックの中に物資を放り込む。
そして少し考え水のペットボトル一本戻してから背負い直す。
最大重量は15kg。
これ以上は背負わないと決めている。
もちろん強がりでなくやろうと思えばもっといける。
20kgぐらいは余裕だろうし30kgでもまあ動ける。
だがそれはここが『表』であったならだ。
壁にかけられた日めくりカレンダーを見て動きが止まった。
「4月2日」
今年では無く1年前のことだ。世界に存在するほとんどのカレンダーは去年のこの日からめくられなくなった。
何もかもが変わってしまった日、俺にとっては世界が割れて一日が二回になった日。
その時、近くで物音が聞こえた。
俺は弾かれたように立ち上がる。
ガタンガタンと扉を叩く音が二度、扉が必要以上の力で開かれて壁に当たる音、板張り廊下を不規則なテンポで踏み鳴らす音……。
姿こそ見えないがもう確定だ。
和室と廊下を隔てるふすまを静かに閉めて穴をあける。
ゆっくりそれでいて確実に迫る足音……現れた。
身長は150cmない程度、四肢は細く僅かに残った頭髪は白く長い……元老婆だな。
俺が休憩室にいるとまではわかっていないのだろう、廊下の突き当りまできてフラフラしている。
トイレか物置かに居たのか。
静かに動いたつもりだがダンボールから物資を取り出す音は室内にいる奴らが反応するには十分だ。
ともあれ慌てふためいている訳にはいかない。
外に出るには廊下を通らなければならず、そこに老婆ゾンビが陣取ったのだ。
取り得る方法は三つだ。
一つはこのまま休憩室に潜んで老婆が去るまでやり過ごす。
相手はこちらにはっきり気付いておらず、静かにしていればどこかに行ってしまう可能性も高い。
しかしもし老婆が移動しないまま夜になってしまったらそれこそ悪夢だ。
もう一つは窓から飛び出すこと。
この部屋は一階だから多少の段差はあるものの怪我をする高さではない。
一方で窓は最初に観察した方向とは逆側に当たるので詳細が分からず、また伸び放題の植え込みも近い。着地した瞬間に大量のゾンビが……という可能性も十分ある。
最後は老婆ゾンビの排除だ。
相手はこちらに気付いておらずこちらからは見えている。
襖を開くなり一撃を加え起き上がれなくして玄関から出れば問題はない。
多少の音は発生するかもしれないが、老婆さえ倒せば玄関まで10秒もかからない。
屋内の奴らが反応してもさっさと外に出れば問題無いし、外の奴らが反応するほどの轟音は出ない。
「やるか」
『ゾンビとの戦闘は他に手段がない時以外は避けねばならない』
これは鉄則だ。
だがこの世界ではその『他の手段はなお危険』の状況が多すぎる。
俺はふらふらと揺れる老婆ゾンビを観察してタイミングを計る。
そして反対側にふらりと揺れた瞬間に勢いよく襖を開いた。
音に反応したゾンビがこちらに向き直る瞬間、渾身の力で側頭部にバールを叩きつける。
本来はくぎ抜きに使うでっぱりがゾンビの側頭部にめり込む、このまま床に引きずり倒して後は両膝を砕けば……。
バキリと煎餅が割れるような音がした。
俺自身の表情が強張ったいるのが分かる。
元老婆だから骨が弱かったのか、俺が火事場の馬鹿力を出してしまったのか。
老婆ゾンビの首がねじ切れて、頭部をバールの先に残したまま体だけが吹き飛んでいく。
「……う、うぇい」
思わず漏れた頭の悪い声の十倍の音を立て、老婆の体が窓ガラスを突き破った。
窓の外に落ちた胴体は『北通り老人会199○年』と書かれた木製の棚をなぎ倒し、枯れ果てた盆栽の鉢を地面に落として全て割る。
「……」
硬直すること約三秒。
「「「「オォォォォォォ」」」
四方八方から呻き声が聞こえ、窓から見える全てのゾンビと目が合った。
悪態一つも吐きたいものだが、そんな余裕はどこにもない。
バールについたままの首を廊下の奥に放り投げ、休憩室の窓から外を覗くと植え込みから十本以上の手が突き出していた。
「窓は無理」
反転して玄関へと走る。
玄関を半包囲するように十数体のゾンビが迫っている。とてもすり抜ける余裕はない。
「こっちもダメだ」
緑の案内標識が示す先へ向かう。
「非常口……」
そう書かれた金属のドアが外から太鼓のように連打されていた。
玄関、窓、非常口全て潰れてしまった。
更に公民館内のトイレからも呻き声が聞こえ始め、どこかの窓が割れる音も聞こえ、ゾンビの集団が押し合いながら玄関に迫っている。
荷物を捨てて走らないと……まずどこに走る。
他の窓から……窓が割れた音はどこからした?
裏口があるはず……位置取りはどうだった? トイレの前を通るんじゃないのか。
焦りと緊張で思考がまとまらない。
「落ち着け。良くあることだろ」
俺はあえて何も考えず、大きくゆっくりと息を吸いこむ。
一度、二度、三度、焦りと恐怖を消し闘争心も押さえ込む。
心を落ち着ける……いや凍らせる。
全ての感情を全て停止して生き残る為に最善の行動を考える。よし入った。
耳を澄ませてゾンビの侵入した窓を特定、玄関に迫るゾンビも見据え、下見で覚えた脳内の見取り図と重ね合わせる。
「余裕は十五秒か。なら捨てなくてもいいな」
俺は放棄しようと手をかけていたザックを背負ったままで階段へ向かう。
走りはせず早足程度だ。
室内の短い距離を走っても短縮できる時間はせいぜい1秒2秒、今回はそれぐらい遅れてもゾンビには捕まらないし、逆にその程度の時間を稼いでもなにができることもない。
下手に走って転びでもすればそれこそ危機となる。
トイレの扉が壊れて倒れ、中年女性らしきゾンビが階段への進路に顔を出した。
音から想定していたので驚きはない。
呻きをあげて掴みかかろうとするゾンビの額をバールで突く。
重心が崩れて上体が反れたところで身を屈め、前に突き出た膝をバールで横薙ぎに殴りつける。
もともと肉の見えていた足は膝下で砕けて折れ曲がりゾンビはその場に倒れ込んだ。
俺はバタつくソレを飛び越えて階段を上る。
早足のままでリズミカルにあがり踊り場で半秒ほど停止してまた昇る。
上り切ったところで襖が倒れて老人ゾンビが飛び出す。
その突き出された腕をバールで下から上に弾きつつ横へ回り込み、体重を乗せた前蹴りを老人ゾンビの脇腹に叩き込む。
俺よりもかなり軽かった老人ゾンビは大きくよろめき、そのまま階段を落ちていく。
もちろん階段から落ちたぐらいで奴らは死なないが、手足全てが変な方向に曲がっているので、もう上ってはこれないだろう。
ありがたいのはゾンビはこちらに勘づくと呻いてくれることだ。
もし今の奴が襖の裏で息を殺していたら気付けなかったかもしれない。
俺は息を整えながら北側の窓へ向かう。
背後から階段を上る複数の足音が聞こえるが無視する。
つっかえないように気をつけながら身を乗り出し、まずは一階の屋根に降りる。
ザックを二階の屋根に放り投げ、自分も手をかけてよじ登る。
眼下の庭では二十以上のゾンビが俺に向けて手を伸ばし耳障りな呻きを合唱していた。
二階の屋根まで上りきったタイミングで俺の出てきた窓が割れ、何本もの手が突き出した。
その中の一体が勢い余って庭へと転がり落ちて行く。
ゾンビになっても間抜けな奴はいるものだ。
「さてと」
俺は瓦屋根の上で数度ジャンプし、足を開いて腱を伸ばす。
目標は隣の民家二階の屋根だ。
ザックを掴んで放り投げ、次いで助走をつけて俺自身も跳躍する。
距離は目測で7m半、俺の運動能力ではややきついが、公民館は屋根が高く普通の民家なら2・5階分の高さがある。
これならば踏み切りをしくじらなければ十分届く――。
「――ぐっ!」
俺は何十と群がるゾンビ共の頭を上を飛び越えて無事民家の屋根に着地、足をやらない為にあえて瓦屋根の上を派手に転がって勢いを殺す。
「いってぇ……」
上手く転がったつもりだが、それでも瓦の上を転がるのはかなり痛い。
だが呻いてなどいられない、ここからが一番の速度勝負だ。
俺は即座に起き上がってザックを蹴り落とし、自分も民家の庭へ飛び降りる。
豪快に跳躍した甲斐あって公民館に群がっていたゾンビ達はまだこちらまで来れていない。
ザックを背負いながら転がるように道路に飛び出し、今度は早足ではなく全力疾走で離脱する。
今は先ほどと違って1秒の違いが生死を分ける。
道路に飛び出したところで左右から若い男女のゾンビが迫っていた。
一瞬バールを握りしめたが、思い直して前方に転がる。
伸ばした腕で俺を掴み損ねた二体のゾンビは上手い具合に衝突し、そのまま口を合わせながら絡みあって倒れた。
まるで唐突なラブシーンに見えるな。
女が男の頬を食いちぎり、男が女の下あごをもぎ取っていなければだが。
ともあれ道は開き、窮地を脱した。
地響きのような呻きと百に届きそうな足音を背に受けながら淡々と駆ける。
やがてそれらは小さくなっていき遂に聞こえなくなった。
俺はふらふらとよろめき、周囲に奴らがいないことを確認しながら電柱に手をつく。
「本気で危なかった。死ぬかと思った」
冷たくなっていた心に熱が戻り焦りと恐怖、言い様のない興奮が戻って来る。
トイレの奴に足を掴まれていたら? 階段の奴に気付けなかったら? ジャンプが届かなかったら?
着地の時に足が折れでもしていたら? どれか一つでもミスがあったら死んでいた。
息を整え、音がでないように拳で頬を叩く。
電柱から手を放して再び歩き出す。
「それでも、また生き残った」
マンションに戻った俺はザックの中身を確かめるより先に屋上に行って全裸になった。
そしてバケツに貯めた水を被りながら体を洗う。
外に出た時には、特に今回のようにゾンビと戦った時には絶対にやらねばならない。
奴らはこちらを食い殺そうと迫る直接的な脅威だが、それを抜いても腐乱死体に近く極めて不潔だ。
そしてこの世界で病気になったら病院など無い。
命がけで薬局にでも忍び込んで薬を手に入れ、それができないor効かなかったら諦めて死ぬしかない。
体を清潔にするのは好き嫌いの問題ではなく必須事項なのだ。
夕陽が眩しくてつい南の方向に視線を逸らしてしまった。
「あそこが南通り四丁目、五丁目、六……」
俺は顔を重点的に洗う。
埃が目に入ったに違いないから。
物資を整理し、朝と同じ夕食を食べ終えたところで完全に日が落ちた。
電気の来ていないこちらの世界では陽が落ちたら一日は終わり、出歩くことはほぼできない。
それだけに外で日が落ちかけたら大変だ。
イチかバチか拠点まで走るか、覚悟を決め適当な場所に籠って朝まで息を殺すしかない。
もちろん電池やバッテリーはそこらの店や家に結構転がっているし、それで点灯する灯りぐらいある。あるにはあるのだが……。
俺は窓を二度確認してから電池式のLEDライトをテーブルに置く。
こんなライトを点けられるのは部屋の窓が毛布で完全に塞がれて外に光が漏れないからだ。
ライトを点けて外など歩けばどうなるか。
ゾンビは感覚全体が鈍いが、鈍いなりに見えてはいるのだ。
月明かりしかない夜にライトなんてつけたら街中の『奴ら』が反応してしまう。
少し前に近所のアパート三階に陣取っていた奴らが何のミスか窓から煌々と光を漏らしていたことがあった。
一目でまずいと分かったが伝える手段もないので様子を見ていると翌朝にはアパート全体が蠢く腐肉に覆われていた。
入り口はバリケードなどで塞いでいたはずだが、一晩漏れ続けた明かりに集まったゾンビ共は折り重なり、遂に二階まで手が届いてしまったのだ。
こうなっては逃げ場などあるはずがなく男女二人組は食われるよりはマシと屋上から飛び降りて自殺を試みるも、腐肉の海がクッションとなって生き残り、解体されながら食われていった。
『裏』ではとにかく一つのミス、一つの油断が即ゲームオーバーに繋がってしまう。
こっちと比べれば表世界の荒事なんて遊びみたいなものだ。
金曜日の騒動だって結局そうだ。
逃げた晴香は見知らぬ人に助けを求め、マッチョ達と警察がちゃんと来てくれた。
これが裏なら一人逃げた晴香はすぐにゾンビに襲われ、見知らぬ人は窓を締めて閉じこもり、警察官なんてどこぞやで呻き声をあげながらふらついていることだろう。
相手を挑発すると罵倒してくれるのも密かに嬉しい。
『ぶっ殺す』『許さねえ』『ふざけんな』どれを聞いてもホッとする。
何を言っても『あー』だの『うー』だの言うだけの奴らに比べれば人間なのだと実感できる。
「もう寝よう」
俺はライトを消して毛布を被る。
体の疲れは裏に置いて行けるが心の疲れはついてくる。
明日は穏やかに過ごそうと思いながら目を閉じた。
この瞬間が幸せでたまらない。
涙まで出そうになる。
ゆっくり意識が薄れ、俺は楽しく幸せな眠りへと落ちていく……。
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