第98話 屈辱【裏】
ナタと言った方が良いほどの大きなナイフが俺に向かって振り下ろされる。
鳩尾へ強烈な肘を食らい、腹まで踏まれた俺は口に手をやりながら咳き込み続けることしかできない――と見せかけ、集めた土埃を口に含んで吐き飛ばす。
女が思わず顔を背けたところで足を払い除けて転がるように逃げ、バールを掴んで再び構える。
「……粘るものだ」
女は慌てることも怒ることもなく、顔を拭って向き直る。
横を駆け抜ける隙は微塵もない。
俺と彼女の実力差は歴然としている。
抵抗などせず一目散に逃げるべきだとわかっている。
「なのに出口が向こう側なんだよな」
階段も非常階段も全部彼女の後ろだった。
窓はあるが、この場所の見通しが良いと言うことは周囲に同じ高さのビルがないと言うことだ。
さすがに12階からのフリーフォールよりはこの女に挑みかかった方が生存率が高い
こうなったら自爆覚悟、最後の手を使うしかないかと覚悟を決めた時、階段からウエダがひょっこり顔を出した。
小脇に俺が置いていけと言ったモニタを抱えている。
どうしてもモニタが欲しくてこっそり電器屋に戻っていたのか。
呆れた男だが、そのおかげでチャンスが生まれた。
ウエダは階段に居て、女は俺の逃げ道を塞ぐよう立ちはだかっている。
つまり奴は女の背後をとっているのだ。
ウエダは一応状況を理解したのか、俺に向けて目でどうしようと聞いてくる。
俺は視線を読まれないよう視界の端だけでウエダを見ながら、バールを女に投げつける構えを取る。
「ふん」
女は小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
もちろん俺が正面から投げても簡単に弾かれるか避けられるだろう。
だからこれはウエダへの合図だ。
ウエダは頷き、抱えていたモニタを置いてバールを振りかぶる。
自分勝手なことする割に察しは良くて助かる。
目の前の女は俺など相手にならない強さだが2mの大男ではない。
無警戒な背中にバールが当たれば必ずダメージはある。
倒すことは不可能でも反撃のチャンス、あるいはよろめいた隙に逃げることはできるはずだ。
反撃、逃走、スミレの安否――とにかく状況を変化させなければ何もできない。
そしてウエダが女に向けて投擲しようとした瞬間――。
女が目にも止まらぬ速さで回転、空気が抜けるような音が響く。
「え?」
ウエダの手からバールが滑り落ち、その場にストンと膝をつく。
白いワイシャツの胸が一気に赤く染まっていく。
再び空気が抜ける音、今度は2連続だ。
同時にウエダの喉と頭から血飛沫が飛び、全身を数度痙攣させた後、前のめりに倒れて動かなくなる。
「拳銃……」
女が振り返ったところで俺はバールを捨てる。
残念ながら万策尽きた。
ピストル相手じゃどうにもできない。
しかも振り返りざまに撃って胸、喉、頭に1発ずつ、おまけにサイレンサー付きなんてどう考えてもプロ、意表をついてどうにかできる相手ではない。
「後ろに気付いていないと思ったか?」
女はバールをフロアの隅まで蹴り飛ばし、俺の顔面を殴りつける。
視界が揺らぎ、俺は腰から崩れるように倒れ込む。
そんな俺の顔を女は至近距離で覗き込んだ
そして溜息をつく。
「やはりお前か……なるほど、ここに目をつけるとは優秀だ。初手で殺さなくて良かった」
同時に俺の方も気づいた。
顔にペイントしていてわかりにくかったがこの至近距離なら判別できる。
「市民殺傷は極力避けろと命令されている。お前を殺す気はないし他2人も死んでいない」
どうやら抵抗しなければ死なずに済みそうだ。
スミレも無事なようで安心した……ウエダには悪いことをしたが。
「いずれお前に接触するつもりではあった。その前に別の調査を片付けたかったのだが」
女――もういいか、これは風里姉だ。
自衛隊とは聞いていたけれど、サイレンサー付き拳銃なんて持っているのは特殊部隊ぐらいだ。
そんなのに俺が勝てるわけなかった。
「状況が少々変化するのは仕方あるまい。少し話があるが……その前にお前は高校生か?」
「ええ……まぁ……」
こっちの世界では中学生のままだが年齢的には高校生だと返事すると風里姉は何故か笑みを浮かべた。
「やばい」
本能的に声が漏れた。
この笑みは慈愛とかそういうものではなく、肉食獣が得物に向けるような――。
「散々抵抗した罰だ。大人しくしていろ」
風里姉は俺の首筋に顔を寄せ、ガブリと噛みつく。
俺は反射的に悲鳴をあげるが、口を塞がれてそのまま風里姉にのしかかられていくのだった。
風里姉がタバコの煙を吐き出しながら俺の髪を撫でる。
「なかなか良いセックスだったぞダーリ――ゴホン」
「いやどう考えてもレイ……」
開始も強引で口塞がれながらビンタ3発と拳1発貰ったんだが。
「お前は監視されていた」
俺の訴えは流すらしい。
俺の顎下を優しく撫でながら風里姉は話し始める。
思わずキューンと言ってしまいそうになるが男のプライドで押しとどめる。
「ニューアラモ……アラモタワーと言った方がわかりやすいか。そちらも別の理由でな。まさかお前が転がり込むとは。随分と手間が省けた」
風里姉は俺の肩に深く刻まれた自分の歯形に滲む血を舐めとる。
「一体何の目的で?」
返事はない。
質問は受け付けていないらしい。
「面白いものを見せてやろう」
風里姉は全裸のまま立ち上がり、双眼鏡をもって俺を呼ぶ。
受け取った双眼鏡を覗くと、とあるビルの屋上で馴染みの奴……三脚が歩いている。
因縁の相手がついにここにもと悪態を吐きそうになったが、状況の不自然さの方が気になった。
「なんだありゃ」
ゲームのバグのように重そうな体で狭い屋上を歩き回る。
だがどこへ行ける訳もない。そもそも三脚の下半身は屋上の入り口を通れないサイズだ。
「あれは私が以前誘いこんだものだ。屋上に集めてからロープで階下に降りれば安全だからな。誘い込んだ怪物の一体がアレだったということだ」
「アレだった? それともアレに成った?」
俺が聞くと風里は答えず、同じ言葉を繰り返す。
つまり『成った』のではなく『だった』のか。
三脚は上下の動きが不得意だし、入口を通れないのでは屋上に入りようがない。
であれば俺も以前に見た通り、普通の怪物として屋上に来てからああなったのだろうが……『だった』と言うなら三脚は普通の怪物が変化してなるものではなく、最初から三脚でありながら普通の怪物に擬態していると言うことだろうか。
「奴はもうすぐ死ぬ。屋上の怪物を食いつくして随分と経つからな」
それが引き金になったように、屋上の三脚は苦しみ始めて倒れて動かなくなる。
「アレの餓死なんてそうそう見れるものじゃない。特殊な環境でも無ければ餌は無限にある」
「やはり三脚はゾンビを食う?」
思わずゾンビと言ってしまったがこれは重要なことだ。
「当然だ。その為のモノだったのだから」
風里姉はこれ以上は答えないとばかりに俺から双眼鏡を奪い、服を着始める。
『表』で会った時も思ったが凄い体だ。
身長も女性にしては高い175cm程あり、かつ腕や肩の厚みが違う。
ただ筋肉ムキムキなのではなく、必要なところに必要なだけついている。
肉体の美しさなどは捨て置いて、ただ最高性能で稼働させるための体……そんな印象だ。
服を着終えた風里姉は俺に向けて何かを投げた。
「お前は今まで通りタワーに戻って生活し異常が起きたら知らせろ。玩具みたいな性能だが逆に傍受の危険が少ない。私は常に電波の届く範囲にいる。……目は多い方がいいからな」
投げられたのは片手サイズの通信機だった。
つまりスパイしろってことか。タワーに入る時にやったことと言いもう完全に悪役だ。
「異常なんて言っても朝から晩まで異常だらけ――ぐっ」
言い終わる前に股間を握られる。
「屁理屈をこねるな。お前の目線で異常だと思ったら……だ。あとはお前も無事でいろ。必要になったら使え」
次いで投げられたのはスパイ道具よりもっと不穏なものだ。
「拳銃……」
「『H&K USP 45ACP』怪物にも十分効果はあるが、サイレンサー無しでは外で使えん。使う相手はわかるな?」
「俺はただの高校生だぞ……こんなもの使えない」
言いながら安全装置らしきものを外す。
「なら使えるようになれ。それともアラモタワーの奴らは仲間だから使えないか?」
数人を除いてそんなこともないので何も答えない。
俺は怖々とした様子でピストルを触るふりをしながらスライドを軽く引く。
「あぁこっちを忘れていた」
風里姉は俺の隣に弾の入ったカートリッジと弾を一発置き、殴られ腫れた俺の頬を抓って笑う。
完全に読まれていた。
というか風里姉はとんでもないドSだ。
「セックス以降のことは全て秘密だ。もし誰かにしゃべれば……タワーの中に居てもお前と周りの奴を殺すことぐらい私には簡単なことだ。敵対的な生存者に襲われ命からがら逃げかえった。それだけだ」
ここは同意するしかない。
なんの躊躇もなく人を射殺してその隣で高校生の俺を犯すような女だ。
アオイが子どもだから容赦してくれるなんて思えない。
「最後に1つ。いや2つか」
「まだあるのかよ……」
俺は半分破られた服を着直しながら聞く。
「追い詰められていたとはいえ、こいつを生者に数えていたなら観察力不足だぞ」
風里姉が死んだウエダを指す。
既に息絶えた男は胸、喉、頭、そしてふくらはぎから流れ出す血だまりに沈んでいた。
「噛まれてたのかよ!」
さては一人でモニタ取りに戻った時だな。
それで躊躇なく撃ち殺したのか。
「それでもう一つは?」
風里姉が笑う。
もちろん慈愛ではなく肉食獣の笑みで。
「とても良かったぞ。機会があったらまた抱いてやる」
「二度とやられてたまるか」
俺は笑う風里姉から逃げるようにフロアを出た。
そして大きく深呼吸する。
色々あったが動揺して緊張を欠けばたちまちウエダみたいに噛まれてお陀仏だから。
まずは屋上で猿轡を噛まされていたスミレとヒデキを救出。
「す、すまん。なにかに襲われて一瞬で……って双見もボロボロじゃねえか! まさか俺を襲ったのと同じ奴に!?」
「誉、首を噛まれて……あれ? でも歯形だけ……? 後のは……キスマーク……?」
スミレとヒデキは顔を見合わせる。
「スミレさん。俺達を襲ったのって女だったよな? あぁ……」
「うん……すごく、力が強かったけど、多分女性……あっ」
二人は俺の乱れた服と噛み跡だからけの首筋を見て気まずそうに目を逸らす。
「グス……もう忘れる……帰ったらすぐ隔離室に行くから松野には適当に説明しといてくれ……」
俺はがっくりと肩を落としたふりをしながら、無線機と拳銃をチェックされない場所に隠すのだった。
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6月15日(火)『表』
時間は朝の5時過ぎだ。
タワーに戻ってからは大変だった。
俺が怪物に噛まれたと思った松野が――いや止めておこう。
「二度寝……はできる感じじゃないな」
割と衝撃的な体験に心が少々傷ついたのかもしれない。
傷一つないはずのこっちの体が軽く震えている。
俺はすっくと立ちあがって紬の部屋に向かい、躊躇なくベッドに潜り込んだ。
【裏】
主人公 双見誉 負傷
拠点 両河ニューアラモレジデンス『アラモタワー』 調達班
環境 出入口損壊
人間関係
仲間
アオイ「保護」タイコ「療養」ミドリ#14「察し」ヒデキ「察し」スミレ#9「慰め」
中立
松野「怒」横須「市長」木船「可哀そう」
敵対
久岡「嘲笑」風里姉#2「協力強要」
所持
拳銃+弾x13発 小型無線機
備蓄
食料60日以上 水365日以上 電池バッテリー∞ 麻酔注射器三回分
経験値 170+X