おくすり
手術が怖い。
いや、一番怖いことは足を失うことだ。
右足を失うと、もう走れない。ボールを蹴ることもできない。
足を切ろうと親にいわれた時、目の前は真っ暗になった。
仲間になんて言えばいいだろう。折角レギュラーに選抜されて、試合だって近くて、だからあんなに熱心に頑張っていたのに。だから、足の傷だって誤魔化したし、隠していたのに。
『そのまま放置しておくと、他の場所まで壊死してしまうからね』
壊死してしまった右足を切る。医者はこっちの恐怖なんて全く知らないからそんな平然な顔で言えるのだろう。両親が宥めるように僕の肩に手を置いた。
「先生、頭がシュワってなるお薬ください」
「駄目だ。何度も言っているだろう。君に与える薬はもう全て渡してある。あの薬のことは忘れるんだ」
僕が病院に来て、三日目。緑葉の木が大きく映える窓の外を見つめながら車椅子を漕ぐ。三日目にもなると、流石にチームメイトが見舞いに来るだろう。僕はそれが嫌で、病室を抜け出した。
前方から足早に急ぐ白髪の医者と、顔のやつれた薄気味の悪い男性がやってきた。
「そんな。僕あの薬がないと、バクが来てくれないんですよ」
「へえ、バクね。いいか、君。バクはたくさんの夢を喰らいすぎるとお腹を壊してしまうんだ。だから酷使してやるのは……」
ほんの二日前に顔を合わせた仲だ。白髪の医者、平林先生はすれ違う直前、僕の顔に目を落として、足を止めた。僕は極力目を合わせないようにしていたというのに。
「ああ、君。確か……松伊くんだったね。すまないね。手術は早い方がいいんだ。だけど大きな病を持っている患者さんから優先させてあげなきゃいけない。ほんの少しの間だけ堪えてくれ」
(一生、手術の番が回ってこなければいいのに)
平林先生は眉を下げて本当に申し訳なさそうに言ったが、話のそらし口をタイミングよく見つけただけのように思えてならない。
僕がぎこちなく頷くと、「良かった。じゃあ、僕は忙しいから話はまた今度」と柔らかい笑みを浮かべ、小走りに立ち去る。
後には僕と例の男性だけが残った。追いかけないのだろうかと僕が視線を彼に寄越すと、彼は興味津々に僕の足を見つめている。
右足は白い包帯で巻かれているからだろうか。にしてもジロジロ見られていい気はしない。自然と眉が寄る。
「手術って足の手術?」
「えっ……」
話しかけてこられるのは予想外で「まあ、はい」なんてハッキリとしない返事をする。
「大変だね、辛いね」
男は労いの言葉を吐きながら笑って僕の頭を撫でた。
(臭い)
僕の右足も腐っているが、男はまるで全身が腐っているかのように、奇妙な臭気を漂わせている。
おかしな人に目を付けられてしまった。背筋に冷たい汗が流れる。
「苦しいものも怖いものも全て消してくれるとても良い薬があるんだ。松伊くん? も試してみない?」
「い、いえ、結構です!」
つい最近学校で習った薬物に関する授業が脳内を駆け、慌てて打ち消す勢いで手を振って断る。
『危ない薬を勧められても必ず意思表示をし、断ること』
概ねの生徒達が、自分にそんな機会が訪れることはないと踏み、つまらなそうに聞いていた授業だ。当然、僕だってその内の一人だったのに。
「ええっ。折角バクに会えるのに」
「バク?」
はっとして口を押える。つい反応してしまった。
相手は確かに顔がやつれた男性だが、声の調子、トーンを聞くとそこまで大きな年齢の差が無いように感じた。高校生あたり。だからかつい気が緩んだ。
「そう。悪いものは全部バクが食べてくれる。バクは可愛い生き物なんだ。君のその足の悪いところだって、バクが全部食べてくれるよ。……まあ、今はあの先生に薬を全部取られてしまったから、手元にはないんだけどね」
男は濁った瞳を細め、舌打ちをする。口の端から悲鳴が漏れそうになった。怖い。強固として断りたいのに、どんな言葉も口の外に出る前に消えてしまう。
「でも安心して。伝手があるから。また薬が手に入った時には勿論、君にだってあげるからね」
男は商売上手な狐のような笑みを浮かべ、軽く手を振ると、踵を返しさっさと行ってしまった。僕も素早く方向転換すると、自身の病室へ向けて車椅子を漕ぐ。
安易な判断で病室を出るんじゃなかったと後悔しながら。
病院の入り口。ソファーが何脚と並び、受付のあるエントランスホール。
観葉植物の隣に電話が置かれてある。普段なら点滴台を引きずった患者が身内に自身の容体の報告なんてものをするのだが、この日は違った。
この日というのも、心配して見舞いに来てくれたクラスメイトをホールまで送って、病室へ戻ろうとした時だ。電話が設置されてある場所にふと目をやると、例の男性が何をするでもなく、腕を組んで僕を見ていた。必然的に目が合うこととなる。
(しまった)
車輪を転がしエレベーター前まで走らせボタンを押す。もどかしい。
足さえ動かせれば自慢の駆け足で走って逃げきれるのに。エレベーターはこういう時に限って中々、開いてくれない。
やっと開いたかと思えば、後ろから車椅子を押された。彼が押したのだ。エレベーターが閉まると完全に二人だけとなった。
「先生に聞いたんだけど、手術が近いんでしょ?」
上がっていく箱の中で、男は白いビニール袋の中から、白い粒状の薬を取り出した。
「いや、あの……大丈夫ですから」
上がっていく嫌な心拍の中、必死に言葉を絞る。
「あはは、大丈夫だって。別に強制的に飲めなんて言わないし。ただ、心配してるだけだよ。ほら、恐怖が続くって地獄だし。この薬は本当に、恐怖をなくしてくれる優しい薬だよ」
男は、「まあ、試してみてよ」と一粒だけ切り取って、僕の病衣の内へ忍ばせてきた。
「ちょっ……!」
「じゃあね、松伊くん。バクに会えたら教えてよ」
エレベーターの扉が開き、男は手を上げ出ていく。三階だ。
扉がゆっくり閉まり、上がる。僕は彼に押し付けられたその薬を取り出す。
一見何も言われずに渡されただけだと普通の薬にしか見えない。
こんな薬物、飲むわけがない。だけど彼が言ったことは確か。直に足を切断されてしまう。そうなると本当にもう。
怖い。先の事を考えるたびに不安で苦しくて怖くて堪らなくなる。
つい一カ月前は、先の事を考えるだけでわくわくして、試合で活躍している自分を想像してニヤケたり、とにかく楽しみで堪らなかったはずなのに。
包帯に巻かれた右足を摩る。叩く。擽る。もう何も感じなくなっていた。力を入れても指示を出しても、右足はもう何とも言わない。
「くそっ!」
左足で地面を蹴った。
両親が病室を出ていくと、部屋の中は静まり返る。
(一粒くらいなら大丈夫かな)
ふと魔が差す。どう足掻いても、足を失うことになるのなら、永久に走ることも出来なくなるなら。せめて、手術に対するこの怖さを少しでも薄めることが出来るなら。
『苦しいものも怖いものも全て消してくれる』
掌を開く。一粒の錠剤。こんな小さなもので。喉が鳴った。
(一粒だけなら)
わざわざ水を取りに外へ出ると怪しまれるかもしれない。僕は錠剤をそのまま飲みこんだ。
はっと目が覚める。
上体を起こすと、そこは病院のベッドの上ではなかった。心地よい風が吹いて、辺りを見回す。青い空の下、草原の上。ふと、足下に見慣れた白と黒のボールが転がってきた。足の先に当たる。
「おーい、何やってんだ」
「松伊―! パス、パス!」
仲間の声が耳に滑り込んでくる。
「パスって」
ふざけんなよ、と僕は立ち上がった。
(あれ?)
足の先のボールを蹴り飛ばす。気持ちいいくらいボールが飛んでいく。
「おっしゃ、一気に攻めんぞ!」
「松伊ー! 前!!」
仲間に急かされ、走る。
走る。
走っている。
気持ちいくらい風が流れていく。
「嘘だ」
右足が治っている。両足で駆けて、蹴って。あの頃に戻っている。
もう、二度と戻れないと思っていたのに。また仲間たちと。
また、もう一度――
「颯斗!」
揺さぶられ目が覚める。母が心配そうに僕を見下ろしている。
「どうしたの? あまりに長く眠り続けるから心配したのよ。中々起きてくれないし」
「あぁ……」
上体を起こす。足を摩った。右足。包帯が巻かれた右足。動かない足。もうすぐなくなる僕の足。
「嫌だ」
視界が歪む。ぽろぽろと雫が零れ落ちて、布団に沈む。
「いやだよ! なんで、動かないんだよ! もうすぐ試合だったのに! なんで失くさなきゃいけないんだよ! いやだよ! こわい!」
両手で拭っても止まらない涙の雨。やがて訪れる喪失感に怯えて、みっともなく泣きじゃくる。母はしばらく僕の頭を抱いて背中を摩ってくれた。
「先生、顔をバクに喰われました」
手術が明日に迫った頃、僕は三階に居た。「狩野」と書かれた個室、半開きになっていた扉から中の様子がよく見えた。例の彼がベッドの上に座って、鏡を見つめて一言そう零す。
隣に座る平林先生の顔は険しい。先生の手元を見てどきっとした。
あの白い錠剤を持っている。
「狩野くん。この睡眠薬はどこから? こんなにたくさん。どうするつもりだったのかな」
平林先生が彼の顔を覗く。一方、狩野と呼ばれた彼の瞳は虚ろで焦点があっていない。
何を見ているのだろう。ぞっとするほどその瞳には、平林先生の顔も見つめている鏡ですらも映っていないようだ。
「先生、僕の顔はどれですか」
先生の質問に答えず、彼は鏡を指さした。
「どれ、とは?」
平林先生は、白紙の紙に、ペンを走らせながら、斜め背後に佇む看護師に目配せで何か合図をする。看護師は顔に緊張を走らせ、制服のポケットから注射器を取り出した。僕は息を飲み、見守る。
「分からなくなりました。たくさんあるんですよ、女の人の顔とか、子供の顔とか。僕の顔は、僕はどんな顔をしているんですか。どんなだったっけ」
看護師が狩野さんの隣に立つ。それでも狩野さんは気付いていない。
ずっと鏡を見ては、次第にニヤニヤして、「あれ、僕男ですよね、あはは」と体を小刻みに揺らし始める。看護師は狩野さんの腕を掴むと勢いよく注射針を刺した。
すると電池の切れた人形のように、狩野さんは意識を手放しベッドに沈む。鏡が彼の手を滑り落ち、地面に落ちた。
ガシャンと割れた音が響き、看護師の女性は注射針を抜いて先を拭うと、こちらを振り向いて固まる。
「あの、彼、どうかしたんですか」
震える声で尋ねると、その声に先生も振り向いた。
「ああ、お見苦しい所を見せたね」
先生は一度目を丸くしたあと、苦笑した。
「彼には鎮静剤っていう、大人しくなる薬を打ったんだよ」
平林先生が立ち上がると、狩野さんのベッド脇に写真が飾られているのが目に入る。遠くてあまり見えないが、女性と狩野さんが一緒に写っているようだ。
僕の視線の先に気付いたのだろう。平林先生は大きく息を吐いた。
「彼の失ったものだよ」
「え?」
「松伊くん。これから君はその右足を失う。きっと辛く悲しいことだ。でもね、どんなに苦しくても、危ない薬に手を出してはいけないよ。彼のように、全部、喰われてしまうからね」
大きく皺だらけの手に頭を撫でられる。その後肩を軽く叩き、先生が病室を出ると、看護師も「先生」と後に続く。
「ああ、薬を多量に摂取している。あと睡眠薬も一錠……」
二人の背中があっという間に遠のく。僕はそっと、床に落ちた鏡を拾った。
パラパラと零れる破片。割れてしまっていたがそこに映るのは確かに僕だ。僕の場所にバクは来なかった。
僕は鏡を部屋のゴミ箱に捨てると、彼の部屋を出て自室へ引き返した。
麻酔を打たなくても、もう切断の時に痛覚は働かないだろうと平林先生は言った。右足の包帯が解かれる。
左足と比べると色は全く違う。母親は頻りと心配して手術室の中にまで入りたがった。
僕の手を握って少しでも安心させようと思ったのだろう。不思議とあんなに足を失うことが怖くてたまらなかったはずなのに、部屋に入った途端、どうでも良くなってしまった。
確かに走れなくなるかもしれない。もうみんなと同じ夢を目指して進むこともできないかもしれない。
だけど、自分が何なのか分からなくなることと比べると、ちっぽけな恐怖のように思えた。何故狩野さんがああなってしまったのかはまだ僕にはわからない。
だけど、どんなつらいことがあっても、あんなふうに自分をいじめるようになるぐらいなら、腐ったものを切り離して先へ進んだ方がきっとまだマシなのだ。
目を閉じると、もうあの景色は現れなかった。真っ黒な闇。その闇が一番、今は心地いいと感じた。