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その表札のない古めかしいがけして大きくはない日本家屋の門を、制服姿の高遠は滅多にしない緊張をしながらくぐった。
中からは無防備な幼い笑い声が聞こえる。
無防備だ、ここが結界師の家だということを否定するかのように無防備だ。
その無防備さがなぜだか高遠には怖く思え、玄関に手をかけることがためらわれた。
「ばあ!玄関に人がいる!」
玄関先で立つ高遠の横っ面を張り飛ばす感じで幼い声がかけられた。
高遠は恐る恐る声の方に顔を向ける。
縁側から首を突き出して、賢くは見えない幼女が高遠に向かってにかっと笑いかけてきた。
そして、何の前触れもなく高遠の前の引き戸がガラリと開かれた。
「ようお越しになりましたね」
『ばあ』と呼ばれるには年が十分若いが何の変哲もない女性が、涼しげな絽の着物を綺麗に着て招かざる客の高遠を出迎えた。
よく磨き抜かれている家だなと高遠は通された部屋でこっそりと家の中の様子を観察した。自分の生家の木もこんな色をしていたことを、使い込まれた目の前の机を、部屋の敷居を、玄関からこの部屋までの廊下を見て思った。
「まゆこはね、ママとパパとあのおおきなおうちのうえのほうにすんでるの。でもね、きょうはママがおしごとでいそがしいからばあのおうちでねんねしなきゃいけないの」
高遠を見つけた幼女が高遠の向かいに座り聞いてもないのにきゃっきゃと高遠に話しかけた。『おおきなおうちのうえ』とは多分その縁側の向こうに見える高層マンションの高層階ということだろう。
「さあ、カルピスですが召し上がれ」
幼女の祖母はお盆にカルピスの注がれたグラスを二つ置いて戻ってきた。
氷の入ったグラスは結露でじんわりしずくをつけていた。
机にそれが置かれるとまゆこと自分のことを馬鹿っぽくよんだ幼女は慌ててグラスを両手で握って口をつける。
「ゆっくりのみなさいね」
女性はまゆこにそう言ってやっと高遠に視線を向けた。
「えらい、厄介な力をもってはるんやね」
女性は穏やかに言う。まゆこに注意をするのと何ら変わりのない声だ。
「まだ何もしていませんが」
高遠は恐れを封じ込めて挑発的に言った。
「そんなに体中から炎を撒き散らせて?」
女性は顔色を一切変えることなく高遠に言う。
高遠はポーカーフェイスで感情を抑え込んでそこに座っていたが、心臓がドクンと波打った。
「ほのおってハナビ?」
まゆこが半分ほどカルピスの残ったグラスをぐっともって女性に聞いた。
「あなたはちょっと外で遊んでなさい」
女性はほんの少し媚びるような声でまゆこに言った。まゆこは少し不服そうにだが「はーい」と決して賢くはなさそうな返事をした。不服だが逆らうことはない。ぐっと握っていたグラスからぱっと手を離し、すくっと立つと青のチェックのワンピースをはためかせて縁側からおいてあったサンダルを履いて庭に出て行った。
「京都の人ですか?」
話をはぐらかす気はなかったが高遠は女性に聞いていた。
「こっちに来て長いけど、産まれたのは京都です。あなたと一緒」
女性はやっぱり穏やかに答えた。
高遠は今日この女性と初めて会った、女性の話す言葉には京言葉が少しだけ混じっていたが、高遠は流暢な標準語で話していた。
「ここに来たのは、力を求めて?」
女性は視線を庭で遊ぶまゆこに向けた。
高遠は少し緊張に顔を強張らせてこくりと頷いた。
最高の結界師と呼ばれる人がいると人づてに高遠は聞いた。皇居や首相官邸、国の機密機関などの結界を依頼されたと聞いて見に行った。素晴らしい結界だった。手出しする気が失せるというような、手を出す前に諦めさせるような、圧倒的な力の差を感じた。どんな人が張ったのだろうと思った。会ってみたいと思った。会ったら自分は新たな力を手に入れることができるのではないのかと思った。
「若い人はみんな力でどうにかなると思っているのね、私もそうだったかしら……」
女性が目を細めて言った。
そして、少しの沈黙。
「力なんて手に入れない方が幸せになれるわよ」
高遠は正直拍子抜けして、まじまじと女性の顔を見つめた。
「ばあ!なんかいる!へいのむこう!こわいのいる!」
バタバタと喧しい音を立ててまゆこが部屋に入ってきた。
「まゆこ」
女性はゆっくり塀の向こうに視線も向けずに自分の傍に転がるようにやってきたまゆこに言った。
「目に見えへんものを見たらあきません」
声はけして大きくはなかったが強い声を女性は出した。
「だって、まゆこにはみえるもん」
ぐずぐずとまゆこは甘えるように言った。
「見えません」
はっきりと女性はそう言った。
まゆこは納得してない顔で女性の顔を見たが、それ以上はぐずらなかった。
「あなたも、人間の目に見えてはいけないものは見ない方がいいですよ」
膝にしがみつくように懐くまゆこをあやしながら女性は高遠に言った。
高遠も納得いかない顔で女性を見た。
女性はやんわりと高遠に微笑みを向ける。
「それでも私は力を求め続けると思います」
女性はそれ以上高遠に何かは言わなかった。
高遠はその後何度もその家に流れていた不気味なほどの穏やかさを思い出す。
最高とは、最強とは、あの空気のことだと歳を経て今ならばよくわかる。