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「カサブランカ」
にこにこと高遠は言った。上機嫌だ。
「花言葉は純潔、高貴、威厳、雄大な愛。撫子さんにとてもよくお似合いで」
白い花、白い壁、白い天井、白いベッド。
検温に来ていた、白衣の天使が顔を引きつらせる。
「それは私に、早く首を落とせという意味か?」
白いベッドの上で撫子が眉間の皺を深くして高遠に言った。
「いえ、悪霊になるお手伝いを少々」
悪びれない笑顔で高遠は言う。
「死んだかと思い近づくとあなたが呼吸をしていた時の、あの私の落胆があなたにはわかりますか?救急車を呼ぶべきか、このまま放置するべきか、あんなに悩んだことは今までなかったな」
高遠の言葉に撫子のベッドの横に立っていた看護師さんが声をなくす。
「敵は一人でも、少ない方がいいですから」
「悪霊になったら更に強敵になるぞ」
「それは困るな」
撫子は受け取ったカサブランカをそのまま高遠の顔に投げつけた。
次の日は鉢に根付いたナデシコを持って来た。
「首を落としていただけないのであれば、せめて寝付いていただこうと思って」
撫子は躊躇いなく高遠から受け取った鉢を高遠に向ってお見舞いしてやった。鉢は高遠の左頬にあたり、重力に導かれ床に落ちて、派手な音を立てて砕けた。汚らしい花と土と破片が床に散乱する。鉢の面の部分があたったせいか高遠に左頬が少し赤くなっているぐらいで目立つ外傷はない。
「あっ、怒りました?」
「別に」
「片付け、誰がやるべきかな?」
「お前だろ?」
「普通に、投げつけた人間が片付けるべきでしょう」
「投げつけられるようなことをしたのは誰だ!」
二人が言い争っているうちに、昨日の一件で高遠を要注意人物だと警戒していた看護師によって鉢は綺麗に片付けられて、高遠は早々に退室させられた。明日からは撫子の病室に入ることさえできないだろう。
そして、高遠がこなくなったと思ったら次は星港が前触れもなく撫子の病室にやってきた。
「地上の人間の業に怒りを覚えた神様は『神に従う無垢な人』ノアに巨大な箱舟を作らせ、全ての動物の雄雌一組ずつ箱舟に乗せました。神様の起こした洪水により地上の人間の大半が死に絶えましたが、箱舟に避難したノアとその一族だけは無事だったのです、メデタシ、メデタシ」
ベッドの傍らに置かれた味気ないパイプ椅子に座って星港は饒舌に且つ楽しげに、寝る前に子どもにするようなお話しを撫子にした。
「なんだそれは」
馬鹿にされているようで不愉快な撫子は眉間の皺を少し濃くして、一応星港に訊ねた。
「ノアの箱舟のお話し」
「知っている」
「じゃぁ、『なんだ』なんて聞かないでよ」
「何か意味があって話しているのかと訊ねたんだ」
「お見舞い品、何もって来ても顔にぶつけられそうで怖かったから、代わりにお話し」
高遠がお見舞いに来たときのことを言っているのか、二日とも見ていたというのならば悪趣味だし、暇人すぎて同情するぐらい気味が悪いと撫子は思った。
なるべく関わり合いにはなりたくないのだが、制服姿しか覚えていない同級生に撫子は聞かねばならないことがあった。
「お前は、どうして今、現れたんだ?」
「さーねー」
「味方か?敵か?」
「じゃぁ、聞くけどなでしこちんはたかとーの味方なわけ?たかとーはなでしこちんの味方?」
答えを躊躇う撫子に星港はにぃっと笑った。
「オレも、そういうこと」
撫子は早い段階できっかけをつかまなければいけないと頭の中で少し焦った。この男が自分の人生に敵として現れたのか、味方として現れたのか。敵でも味方でも厄介なことは間違いないが、現れた以上対処しなければ。一瞬躊躇えば、一瞬判断を間違えば、自分も高遠もこの男に喰われてしまうだろうと思った。
糸口を頭の中で必死に探す撫子を星港は楽しげに眺めていた。自分を無視できない撫子が愚かで愛おしかった。
「なでしこちんは、たかとーが手を差し伸べてくれたらたかとーの箱舟に乗るのかな?」
撫子はまた少しだけ眉間の皺を濃くした。星港はそんなこと構わずに寧ろ撫子の眉間の皺を楽しむように次の言葉を口から紡ぎ出す。
「オレがさー、真摯な気持ちでお願いしたら、オレの箱舟に乗ってくれる?」
「お前が真摯な気持ちでお願いなんてしたら絶対乗らないな。私を乗せようとするその箱舟にはお前は絶対乗らないだろうから。確実に沈む箱舟に自ら進んで乗るほど愚かではないつもりだ」
「ひどいなー」
「真摯な気持ちなんてものになったことがない人間がよく言うな」
「いつもオレは、誠心誠意、清廉潔白なのに」
「そんなものが欠片でもあれば私はここにいないだろうな」
「あ、ばれてた。あれ仕込んだのオレだって」
「刺し方が甘いな、こんなのでは人は死なない。私を刺した人間が逃げる時お前の様子を窺い見ていた」
「ま、殺すことが目的じゃなかったから。それにしてもよく見ているね、あんな状況で」
「あんな状況だからこそ、よく見える」
飄々と悪気なく答える星港に、一拍置いて撫子が言葉を続けた。
「藤原の駒の力を量ったのか?」
「うん、邪魔されたけど。邪魔されたけど、大したことないっていうのはわかった。本体は」
「まぁなんでも、お前の邪魔をできたことは嬉しいよ」
「へー。でもさ、自衛隊員がこんな簡単に一般人に刺されちゃっていいわけ?この国の防衛能力もたかが知れてるな」
「それは否定できないな」
「どうにかする気ないんだ?」
「上を全部変えることをお薦めする」
「たかとーの仕事でしょ」
「じゃぁ、お前は何をするんだ?」
「さーね。さしあたってはノアの箱舟作りかな」
「作り終わったら?」
「乗って逃げる」
「洪水は起こさないのか?」
「何?そんなにオレに興味ある?」
「残念なことにあるな」
「じゃぁ、後は怪我が治ったらベッドの中で」
「お前の体には興味がない、頭の中だけだ」
「ひどーい」
「どっちが?」
「じゃー、なでしこちんの愛に免じて一つヒントを」
「愛はないが、なんだ?」
「オレはさぁ、人殴るのちょー苦手なんだよね。殴られるのはもっと苦手だけど。知ってた?」
「そうだな、人を使って殴るのは得意なのも知っている」
撫子はこんな男とまともに話しをしなければいけない自分の運命を呪った。
「純粋に殴りあいしたら、撫子ちんにもたかとーにも、悪魔付きのオジョーサンにも負けるかもしれないから……」
「だから?」
「だから、なってみた」
元々線が一本ブチ切れている人間だと思ってはいたが、もう撫子の前にいる星港は、人間でさえなくなっていた。
「死ににくい体ってヤツに」
にっと笑った星港の口の端からチラリと牙が見えた。
「吸血鬼化……」
撫子が予想していた答えを、確信を持って口にした。星港は撫子の出した答えに満足げに笑った。
「色々考えて、色々試してみたんだよー。でもなかなかうまくいかなくてさ。あの悪魔付きのおじょーさんはなかなかやるよね、オレも一応悪魔よびだそうとかしてみたんだけどなー。吸血鬼ってなんかいまいち手間かかりそうじゃん、血とか毎日飲めるか自信なかったし、オレ牛乳嫌いだったの覚えてる?給食の牛乳どうやって処分するかホントに毎日悩んだしぃ」
撫子は星港の話を右から左に聞き流しながら彼の給食の牛乳の処分の仕方を思い出した。口があいた牛乳パックをうっとうしかった体育教師が校舎の下を歩いていたタイミングで三階から落とす。クラスでリーダー格だった男子児童の鞄の中に口を開けた状態で入れる。他にもいろいろ思い出すが、思い出すのも馬鹿馬鹿しくなって思考をフッと切った。
「撫子ちんは結婚しないわけ?」
「お前に答える必要はない」
「まぁ、別にいいんだけどねー。たかとーは婚約者ほったらかしてるの?」
「あの男のことなど知りたくもないな」
「ふーん」
星港は意味ありげに笑った。
「ところで、たかとーは小野篁にでもなろうとしてるの?」
「知るか」
昼は朝廷に仕え、夜は冥界の閻魔大王の片腕として裁判を補佐したという冥官伝説の持ち主・小野篁。
確かに、都を守るスーパーヒーロー大陰陽師・安倍晴明よりも、冥官伝説や妹との悲恋物語など影がちらつく小野篁の方が高遠によく似合っているなと、撫子に興味を失って星港が出て行った病室で撫子はこっそり笑った。
撫子が窓から外にそっと目を向けると花を抱えた見慣れた女子高生がこの建物に向かってやってくるのが見えた。
余計なことをと小さく舌打ちをした。