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高校生にもなって家族の絵を描かされる授業、っていうのはどうなんだと制服姿の高遠はうんざりした気持ちでスケッチブックにむかった。
高遠から少し後ろの席では撫子が淡々と父と弟の姿を壊滅的に下手な絵で描いていた。
高遠の前の席では男子生徒が問題なく幸せそうな四人家族を描いている。両親と男子生徒と弟だろう。前の席の男子生徒が高遠の視線を感じてかくるっと振り向いた。描き終わった為か閉じられたスケッチブックの表紙には『時凍星港』と彼の名前が書かれている。
「妹さん?」
男子生徒はにこっと笑って高遠に訊ね掛ける。高遠のスケッチブックには産まれた街においてきた可憐の笑顔が中途半端に描かれている。
「いや、婚約者」
無造作に高遠は答えた。
「可愛いね」
「どーも」
「藤原くんって京都の人なんだよね、関西弁全然ないね」
「京ことば……」
「え?」
「いや、別に……」
なんとなく掴み所のないヤツだなと高遠は星港を評価した。軽い笑顔にシンプルに整った容姿が何かを覆い隠しているような気がした。
「親の転勤とかでこっち来たの?」
星港は少し高遠の方に身を乗り出して訊ねてきた。
「いや」
「じゃー、一人暮らし?」
「まぁ」
「もしかして婚約者と二人暮らし?」
「いや、可憐は京都」
「『可憐』っていうんだ」
「あぁ……」
「綺麗な名前だね」
「うん」
「『可憐』て、綺麗な名前の婚約者さん、藤原くんの『紫の上』ってわけだ?」
「別に……」
「ふーん」
つかみどころのない二人の会話は歯切れ悪くそれ以上続かなかった。
時凍星港・某外食チェーン社長の息子。成績・上の下。人に絡むがけして友達を作ろうとはしない。一匹狼気取りか?と数日の観察で高遠は星港をそう評価を下した。
違和感が時凍星港という人物を覆っているように高遠は感じた。まるで、もっと力があるのに普通を目指して行動しているかのような違和感。高遠には星港がそうすることの意味が全く解からない。
「藤原の婚約者って小学生なんだろう?」
蔑むには次元が低い、からかいの口調でクラスの男子が、休み時間・近くの席のクラスメイト達と当たり障りのない話をしていた高遠に言った。
彼は高遠が来るまで成績学年首位だった生徒と仲が良かったなと高遠は瞬時に思った。高遠が入学しなければ、入学式の新入生代表挨拶はその元学年首位がすることになったのだろう。教室の後ろのほうの席で元学年首位とその仲間たちがくすくす笑って成り行きを見守っている。
「ああ、それが?」
高遠はクラスメイトのからかいの口調を馬鹿にするようにフッと鼻で笑って答えた。高遠と話していたクラスメイト達が不穏な空気に顔を少し歪めた。
「ロリコン?きもちわりぃ」
高遠に馬鹿にされた男子生徒がわざと教室中に聞こえる大きな声でそう言った。
「なんとでも」
動じることなく、落ち着いた声で高遠は言う。
「少なくともオレの婚約者は、くだらない事で人に絡むしかできない君達がこれから付き合うであろう女性たちよりもレベルは高いしね」
どちらが愚かか結果ははっきりとしていた。どちらについた方が賢明かもはっきりした。
自分の席で次の授業の課題を解いていた撫子は自分の心臓が高遠の言葉でドキリとするのを感じた。
その時撫子がドキリとしたのは、そう言った高遠にか、それとも、高遠にそう言われた婚約者にか……。
教室の窓の外でそっと葉桜が頼りなさげに揺れていた。
藤原高遠・由緒ある公家の家の一人息子。成績・上の上。幼い頃に両親と死別、婚約者有り。交友関係は広く浅く、クラス委員も任される。
撫子は最高の内申書を教師に書かせる行動をとっている男子生徒をじっと見つめた。
それは恋心か、単なる興味本位か、その判断は制服姿の撫子自身には上手くできなかった。
「見ていたのならば解かっていると思うけど、正当防衛だから」
高遠は撫子に笑って言った。薄い、感情の読み取れない笑いだ。気持ちが悪い。
馬鹿が一人、廊下には転がっている。
「殺してないよ、気を失っているだけ。彼はただの人間だから。でも、素手で相手にすると負けそうだったから。負け犬にはなりたくないんだ、絶対に」
珍しく高遠は言葉に力を入れて言った。『負け犬になりたくない』、それが彼の弱いところなのだなとなんとなく撫子は思って、廊下に転がる馬鹿に視線をやった。本当に死んではないらしい。ピクッと反射のように腕が動いた。どうせくだらない理由で高遠に喧嘩をうって、返り討ちにあわされたのだろう。確かその馬鹿は高遠が現れるまで学年首位を守り続けてきた男子生徒だ。
特別教室が連なるこの廊下は普段の人通りが少ない。今も撫子と高遠以外に通る人はいない。
オレンジ色の夕日が窓から廊下を染めている。
「綺麗な夕日だね」
ふと窓の外に目をやり高遠が言った。
撫子も視線を窓の外に向ける。
ビルの谷間に夕日が落ちる。
撫子は、今床に気を失って倒れている男子生徒と高遠の体が触れた時、高遠の手の平に炎……、のようなものがあった気がした。
馬鹿馬鹿しいが確かに見えたのだ。錯覚かと疑う自分の心を落ち着かそうとする。『騒ぎ立てる感情を落ち着かせなければ、真実は見えてこない』、剣道道場の師範をしている撫子の父が繰り返し撫子と弟に言ってきた言葉だ。
「凡人とそうでない人間の違いは、誰もが見ているのに重要性に気づくことが出来ない事実に気づくかどうかだと思う」
高遠は撫子を見た。撫子も高遠を見た。
「君は落ち着いているね、撫子さん」
「下の名前で呼ぶな」
「失礼、織田さん。いいと思う、その君の落ち着き具合。君はきっと重要性に気づくことが出来る人間だね」
嘘っぽい友好的を顔に張り付けて高遠は笑った。
「生かされているならば知りたくないか?世界はどうしてできたのか、何が世界を作っているのか」
窓の外の夕日は少しずつだが確実にビルの谷間に消えようとする。
「世界の一番上に立ったのならば、それがわかるかもしれないと思う」
淡々と穏やかな声で彼は言葉を紡ぐ。
「馬鹿のいない世界にずっと行きたかったんだ、ノアの箱舟にでも乗って」
彼は少しだけ寂しそうに言った。
「ずっとノアの箱舟が来ればいいと思った。でも、来ないのならば、自分で作ればいいだけだと考えただけだよ」
狂気など微塵も感じさせない笑顔で言った高遠を撫子は危ういと思った。
なぜだか撫子は彼を止めたいのは自分だけだと確信した、その道を進めば彼自身は幸せになれないのではないのかと思った。だから彼とは違う方法で彼の言う世界で一番上を目指す。彼の上に立たなければ、彼を止めることなど叶わないが彼の上に立てる自信は撫子になかった、ならばせめて傍にいなければ、彼が崩れ落ちるとき支えることができないから……。
うまく自分の気持ちがまとまらない、うまく自分の気持ちがわからない、どうしてこんなに自分が高遠に執着するのか説明できない、だけど彼とのこの僅かなつながりを切ってしまえばきっと後悔する撫子は制服のリボンの下の胸の中でそう思った。
「こういう世界をまっていたんだよ」
高遠の掌から発生した炎を確認したもう一人の人物が笑いながら小さな声で呟いて、高遠と別れて生徒玄関に向かう撫子に近づいた。
「ね、なでしこちん。神様は何のために人間を創って生かしているんだろうねー」
いつもより少しテンションが素で高い星港の異変に気づきながら撫子は「遺伝子を残させる為」と短く答えを切り捨てるように呟いた。
「神様は何を企んでいるんだろうね。遺伝子を残させて、それで?オレたちに一体どうさせたいんだろう?」
「ゴキブリが一番正しいんじゃないか?」
「ただひたすら、遺伝子を残すためだけに進化する」
生徒玄関についてローファーを取り出した撫子はチラリと隣にいる星港を見た。
その整った顔は珍しく興奮を押さえきれないように、溢れ出てくる高揚感を隠そうともせず、顔を歪めていた。飛び切り無邪気に楽しげに。
「それじゃぁ、男は女に頭なんて上がらないな。女がいなきゃ遺伝子を残すことができない」
なぜこんな会話を星港としているんだ馬鹿らしいと思いながら撫子は何気なく言ってローファーを履いた。
「そーだね。女性はきっと神に近い。自分の体の中で新しい命を作り出すことができるんだから」
星港もローファーを自分の下駄箱の中から取り出し履いていた。
「なんにせよ、答えを教えずに這いずり回させるなんて、優しい性格の持ち主がさせることじゃないだろうね」
高揚感を締めくくるように星港はにやりと言うと撫子を置いて歩き始めた。
撫子は長年一緒の学校で過ごした星港の異常な部分には気が付いていた。今それが何か大きなうねりのようなものを起こしていることにも気づいていた。
「死にたくない、死後の世界なんて何の確証のないものに身を委ねるなんて賢い選択だとは思えない。できるだけ長くこの世で楽しみたいな」
撫子の視線を背中に感じつつ星港は呟いた。