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品のない喧しい足音が扉の向こうから近づいてきて、高遠はこの建物の見取り図には載ることのない部屋でげんなりとため息をついた。
力がないのならせめて大人しく、音無しく言われたことだけすればいいものを、馬鹿ほど喧しく騒ぎ立てる。
馬鹿ばかりだと高遠は座り心地の良い椅子にずっしりと体重を預けて体から力を抜いた。
「どうして、東宮御所が狙われるか教えてもらっていいですか?」
下品な音で扉が開くと同時に、まゆこは十七回目の東宮御所への結界張り直し依頼への不満を高遠にぶちまけた。まゆこの背中にはピッタリと、人間ではないと主張するように冷たく美しい顔の悪魔が張り付いている、『私は何もかもお見通しですよ』というような薄いアルカイックな微笑みを口元に浮かべて。
身長は高いがどう差し引いても幼さが残る平凡な高校の制服姿のまゆこと、婚約者から誕生日に贈られた品がいい緑のネクタイを付けたスーツ姿の高遠、そして普通に生きている人間には見えない悪魔。異色の組み合わせだ、共通点が見つからない。
高遠一人に与えられるにはもったいないぐらい広い部屋には大きな机と応接セットがきっちりと置かれていた。机にもテーブルにもソファーにも、そこで人を接待することはないのか大量の書類で埋められている。書類の上にはうっすら埃まで溜まっている。掃除はされていないらしい、この書類の山では掃除のしようもないだろう。
「君の結界があまりにも隙だらけだからじゃないのか?」
大きな机の向こうで高遠は面倒臭げな様子を隠す気もなく、視線は左手に持った書類から動かさず、さらりと言った。
「そうですね、それはそうですね!」
まゆこもイラッとした感情を隠すことなく言った。なら自分で張りやがれ、さぞ素敵な結界が張れることだろう、焼き尽くされて、そこに守るべき物体は残っていないだろうがと心の中で高遠に毒づく。
「私が張った、こんなちんけな結界一発で壊せます!壊滅ですね!でも、攻撃をしている人間はけして壊さない。わざわざ、壊さないように、でも力があることを誇示するように、壊れないぎりぎりの負荷をかけているように見えます」
まゆこが挑むように高遠に言った。高遠の眉がわずかに、本当にわずかに動く。まゆこがじっくりと高遠の顔を見つめていなければ見つけられなかったほどわずかにだ。
「しかも、」
ここからが本番というようにまゆこは、高遠の表情筋の動きににやつきそうな口元を少し引き締める。
「室長は結界の張り直し以外のことは言わない。それって結界にちょっかいを出しているのが味方、というよりも、敵ではないからですか?」
高遠の表情がピクリとも動かない。それでまゆこは自分の推測が正解に近いことを確信する。『敵ではない』というところがミソだとまゆこは少し得意げに心の中で自分の導き出した答えに頷いた。
「敵ならば、室長は容赦なく始末しろというはずです!」
まゆこが傲慢に勝ち誇ったように宣言しても高遠は何も言わなかった。その言葉をまるで聞かなかったことにするかのように。
まぁ、今日のところはこれで十分かとまゆこは数日間考え抜いた結論の結果に満足して引き下がった。この男からまともな肯定などもらえるとはまゆこも思ってはいない。
「結界を、張り直せばよいのですね?りょーかいです」
悪魔を引き連れてまゆこはくるりと踵を返した。短いスカートから伸びる白く長い足は男心をくすぐる。書類の影からその足を見ていた高遠に悪魔が視線をおくりクスリと笑った。高遠は焦げ茶色の髪の毛をポリッと掻いた。
「盛り塩って埃被ったら効果ないですよ」
まゆこが扉の横に忘れられたようにおかれた盛り塩を見つけぽつりと言った。
「それは有益な忠告だ、善処しよう」
馬鹿のくせにそういうとこだけ目ざといと高遠はうんざりしながら返答した。
「意外。室長って風水とか信じるんですか?」
取っ手に手をかけながらまゆこは感情のこもらない声で言った。
「風水は統計学だ」
「ふーん」
まゆこによってバタンと無造作に閉められた扉はすぐにごくわずかな振動で静かに開く。
「悪魔付きの少女か。お前もあの子もよく人ならざるものになっても平気な顔で生きていけるな」
今廊下ですれ違った少女の後ろに張り付く撫子には見えない未知の何かを思いながら、フッと馬鹿にしたような笑みを口元だけに浮かべてシンプルなスーツ姿の撫子が入ってきた。背中をおおう色素の薄い髪の毛がふわっと硬い表情とは正反対に柔らかく揺れた。美人に分類される顔つきなのに、眉間の皺と不機嫌そうな表情が玉に大きな傷をつけている。
「私の力は人が得ることができる力、たかが陰陽師ですのでね。残念ながら私はまだ人だ、撫子さん」
高遠は顔をわざとらしく歪めた笑顔で撫子を迎えた。
「その名で呼ぶな」
撫子は嫌悪感を精一杯に含んで言った。
「失礼、織田さん。でも私は悪魔に魂を売った覚えはないですから」
「天皇にならば魂を売るのか?天皇直属機密調査室室長殿」
撫子が無造作に口にした役職名に、にぃっと高遠が薄く笑った。
相変わらず、煮ても焼いても喰えそうにない笑顔だと撫子は思った。何が『残念』だ、いつかお前は人ならざるものになろうとしているのだから。
「先日の一件についての始末書や報告書、その他諸々だ」
何の変哲もない茶封筒に入った書類をすっと差し出して撫子は表情や声色を抑え言った。撫子は部屋の主との距離を計りながら慎重に部屋の中へ足を進める。最適の距離を計っていた、敵にならず、かといって彼の懐の中にも取り込まれない最適な距離を探していた。
「織田さんをお使いに出すなんて自衛隊もよっぽど暇なんですね」
「自衛隊が暇じゃない時なんてあったか?」
「練習で忙しいのかと」
「結果の出ない練習ほど無意味なものはないな」
「いや、日本も物騒ですから。自衛隊には練習に励んでもらわないと」
「フッ。悪魔に悪魔付きの少女、火を自由に操る人間か……。確かに物騒なことこの上ないな」
「織田さんは人間外の力にご興味がおありで?」
「なんだ?」
「それではロンドンに行かれてみては?」
「は?」
「気候のせいか、結構いますよ。吸血鬼」
「……」
「お手軽なら吸血鬼か悪霊ですよ。吸血鬼は噛まれるだけですし、悪霊なら根性入れて死ぬだけですよ。織田さんお好きでしょう?根性とか我慢とか」
「当分、人間をやめる予定はない」
撫子は高遠の話しに付き合うのはもうたくさんと、手に持っていた茶封筒に入った書類の束を接待用のテーブルの上にボンと置いた。茶封筒がテーブルの上に置かれた瞬間ふわっと埃が舞う。
撫子は静かにドアノブに手をかけた。
「もうすぐ昼ですし、食事でも」
手に持っていた書類を机の上に置いて高遠は立ち上がった。
「遠慮する、食べ物が不味くなる」
感情の取り除かれた声を残して、ほんのわずかな物音しかたてず扉は静かに閉められた。
「そりゃ、どうも」
高遠は手持無沙汰に焦げ茶色の髪の毛をポリッと掻いた。
撫子は閉じた扉の向こうでそっと呼吸を整え、廊下の窓の外に視線をやった。
ガラスの向こうの世界には桜の木が枝を広げていた。ガラス越しに感じる日の光には冬の空気がやっと緩んできたのを感じる。
まだ蕾さえつけていない桜の木、でもその枝はそっと桜色に染まってみえる。これから花を咲かせるために木全体が力を溜めているかのよう。
ふとした瞬間に想い出される。もう忘れたいと思っていたのに。
撫子は言い訳がましく心の中で囁いた。
数年前に自分の前に再び現れた高遠が、自分と同じように正当な試験を受けて然るべき面接を受けて、国家公務員になったのではないと撫子は感じていた。
彼がどういう方法をとってその地位を手に入れたかは真っ直ぐに人生を歩いてきた撫子には想像できない。それでも撫子は知っていた、今より幼稚で稚拙な高校を卒業する時。だから撫子は防衛大に入ったのだ。この国の国防にかかわる場所、その道を真っ直ぐ進めばきっと高遠にもう一度会うことができると知っていた。彼が今世でしたいことはきっとソウイウコトだから……。
会いたいと思っていた、会いたくないと思っていた。会ったら私は私でいられなくなる。それでも会いたいと思っていた。
この再会を高校生の時の撫子は知っていた、確信をもって、いやこの再会ができる道を自分で選んだ。
撫子の胸の奥がぐぐっと疼いた。
私もいつか咲くのだろうか?と撫子は心の中で呟いた。考えられないけどと心の中でこっそり嗤った。この想いは多分死ぬまでずっと引きずっていくものだと撫子は胸の奥にぐぐっと押し込んだ。
ガラスの向こう側の世界では花をつける前の枝がまだ冷たい風になぶられていた。
桜の木の向こうを先ほどすれ違った女子高生が撫子の失った若さを見せつけながら遠ざかっていく。
撫子はゆっくり瞬きをしてから、薄暗い廊下を歩き始めた。