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私と私と

作者: うぐいす

純文学のつもりが少しホラーっぽくなりました。

中1の夏、私は初めて手首を切った。カッターのなぞった跡が鮮やかな赤い線となって膨れ上がる。腕を伝い流れた血がとろりと一滴床に落ちた。お風呂場の汚れた冷たい水色のタイルの上で、その赤は妙に生々しく映えて見えた。ぽたり。さっきより一回り小さな雫が滴れる。二つの血痕はお互いに引き合うようにくっついた。床の染みは、何か生き物のように見えた。心当たってぞっとする。胎児。そう、その形はまるで保健の教科書に載っていた胎児のようであった。私は目の前にあるシャワーを手に取り血痕に勢いよく水を当てた。血は、意外なほどするりと流れた。形を崩さぬまま、排水口に吸い込まれていく様子はまるで自らの意思で逃げているかのようであった。「アレ」は排水管の横にへばりついて私がいなくなるのを待っているのではないか。私が風呂場を出た瞬間、「アレ」はにゅるりと這い出してそうして次私が行くときには元落ちた場所にじっとしているのではないか。そんな想像が頭をよぎって、私は静かに頭を振った。そんな馬鹿なことあるわけがない。私はシャワーを止め、元の位置に掛け直した。風呂場を出るとき、ふと背中に視線を感じたような気がして私は振り返った。もちろん、風呂場には誰もいない。あの血痕もない。

「そりゃそうか」

呟いて、がたつくガラスの引き戸を左手で閉めた。

居間に行って、救急箱を取り出す。消毒液をかける。染みる。手首を切ってから初めて、痛みを感じた。ガーゼを当ててテープで止めた。どうやってこの傷を隠せばいいだろう。なんで私はリストカットなんてしたんだろうと改めて思った。よくわからない。説明は一応できるのだ。具体的な理由があるわけではなかった。ただ漠然とした不安感、違和感。息苦しくて、生きづらくて、それでも生きたくて。生まれ変わりたかった。確かに私は苦しんでいた。けれど今はその感情が微塵もない。気持ちが変わったのではない。私の苦悩は苦悩のまま血とともに私の体から流れ出て行ってしまったに違いない。心にぽっかりと穴が開いているのを私は感じていた。

それから3時間、夜の8時を過ぎて母親が看護師の仕事から帰ってきた。惣菜を中心に食事が並ぶ。

「はる、なんで夏なのに長袖なんか来てるの?」

「別に、特には。この服、好きだから」

「そう」

母は少し考えて言った。

「でも、暑いでしょう?腕ぐらいまくったら?」

「いいの、これで。柄が見えなくなっちゃう」

この人は、見えてるものにしか気が向けられないのだ。長袖の下に隠された私の哀しみになんて気がつけないのだ。自分から隠そうとしたくせに、いざかまってもらえないとなるとイライラした。イライラしている自分にも怒りが湧いた。私はもっと「大人」にならなければならない。その後も、私達は言い争いすることもなく、とりとめのない会話を交わしながら食事を進めた。

「ごちそうさま」

「はい、ごちそうさま」

母が微笑む。母は、綺麗だ。もう四十も過ぎているのに、どこか世間知らずのお嬢さんのようなところがある。旦那は、幼い子供を残して他の人と一緒になったというのにそれでも嬉しいことがあると少女のように笑う。信じやすくて騙されやすい。私の目も鼻も口も、母によく似ているけれど、私は母のように美しくはなれない。どんな整った顔も目が死んでいたら、ダメ。私はギリシャ彫刻だって美しいとは思わない。

母が食器を洗っている間に、私は風呂を洗う。例の染みは排水口から這い出てきてなどいなかった。

「そりゃそうか」

ほっとして、そして半分がっかりした。

予習を済ませ風呂に入った時もやはり何も起こらなかった。


2回目に腕を切ったのは友達との些細なすれ違いが原因だった。こちらが一方的に言葉を飲んだだけで、向こうはお互いにの間に確執があるとは思ってもいなかったかもしれない。その程度のことで、私は自分を傷つけた。二回目はハードルが低くなるのかもしれない。赤い血がポタリと床に落ちる。そしてそのままコロコロと玉のように転がって排水口に吸い込まれていった。

奇妙な光景であった。しかし三本、四本、十本、二十本と傷が増えるごとにそれを不思議ともなんとも思わなくなった。それだけではない。すべてのことに関して感情が、麻痺してきているように思われた。

そうして私は高校生になった。リストカットはもはやなんの意味もない癖のようなものになっていた。

ある夜、私が風呂に入っていると赤ん坊の小さな泣き声が聞こえた。近くの家かとも思ったが、どうも風呂場の中からのようだ。ふと、初めてリストカットをした日のことを思い出した。あの時、血の跡が何故か胎児に見えた。

湯船から出て、排水口のふたを開ける。赤く湿った塊を中に見つけて取り出すと、それは拳ぐらいの、しかしすでに人らしい形をした赤ん坊であった。すべてを理解した。

母を守らねば。私がしっかりしなければ。幼い頃からそう思い続けてきた私は人より大人になるのが早かった。いや違う。早いように見えた。それだけだった。正しい段階を踏まなかった私は本当に大人になることにつまづいた。生きづらい。しかし大人になる方法がわからない。そして私は、本能的に「子供」の自分を切り捨て始めた。そう。この手の中にある小さな赤ん坊は、私が血とともに切り捨てた幼い感情。小さな自分。

しかし……。ここにいる「私」は一体なんであろうか。あらゆる感情を捨て去った先に残ったもの……。

まあいい。こんなもの、母の目に触れさせるわけにはいかない。

「私」は手の中の「私」を握り殺した。





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