~名探偵パート②~ 推理開始、絶対時感
「あ、推理もう始まっちゃいました?」
いつの間に戻ってきていたのか真由美が大屋の隣にいた。何故かドレスの上に白衣を着ていた。
「いや、これからだよ。お疲れ様」
「あ、そうですか。良かったあ。さいかちゃん、一緒に見よっか?」
「うん」
そう言って真由美は白衣を脱ぎ捨て少女と手を繋いだ。
何故白衣を着て、戻ってきた瞬間にまた脱ぐのか、大屋には理解出来なかった。
「先程に述べた通り、僕の時間に関する記憶は完璧です。犯人さんが席を立った午後6時17分42秒44。そして会長が倒れた時間午後6時25分31秒58。これは僕の絶対時感が証明します。そして、給仕さん。給仕さんに関しては僕の視界に一切入っていませんでした。ですので、残念ながら絶対時感は適用出来ません。僕は絶対時感であり、千里眼じゃありませんので。刑事さん。給仕さんがワインを持って会長の下へと歩きだしたのが?」
「6時18分37秒03」
監視カメラのモニターに表示された時刻カウンターを見ながら刑事が即答する。
「会長がワインを手にしたのが」
「6時19分30秒21」
「ふむ。6時18分37秒03から6時19分30秒21。その間、53秒18。この間にワインに毒は入れられ、被害者の下へと届けられた」
それはすなわちたったの一分足らずで犯人による被害者を殺害する為の仕掛け、つまり犯行が進められたという事である。
「この会場にはあらゆる場所に多くの監視カメラが仕掛けられています。これらの情報は皆その監視カメラから得た情報です。給仕さんの行動時刻はその活躍によって埋める事が出来ます。しかし、事件を解く上で困った事。そう、大変困った事が起きました。一つは犯人さんがワインに毒を入れる決定的瞬間が映っていない事」
言うまでもない。その瞬間がもし映っていたのならばとうの昔にこの事件は解決している。山之内少年の出番などそれこそ無かったであろう。
「もう一つ。と言いますか突き詰めれば同じ事なんですが。給仕さんが最初のワインを手にするシーンは映っている。そして、ワインを被害者に渡すシーンも映っている。しかしながら、給仕さんがワインを手にしてから被害者にそれを渡すまでのその間。その道行き、歩いて被害者の下まで向かうその全てが映されているわけではない事です。そうですよね、刑事さん」
「ああ、その通りだ、山之内君。そして彼はそのカメラに映っていないその間のどこかである人物とぶつかり、ワインをこぼしてしまった。気が動転しているうちに盆にその人物が持っていたワインを載せられ、顔を上げるともういなかった、という訳だ」
ふんふんと楽しそうに頷く山之内少年。
「では今からその問題点。給仕さんのカメラに映っていない道程を、解決していきましょう」
「解決とは?」
「なに、社会と数学の授業ですよ」
そう言い、周りを見渡す。
「地図を作ります。犯人さんと給仕さんがどのルートを通ったのかという、ね。見えなかったものを見える様にしてしまえばいいんです。その為には幾つかの計算も必要になってきます」
少年は右手の人指し指を立てる。
「刑事さん。給仕さんがワインを手にした場所はどこですか?午後6時18分37秒03の時点の居場所です。なるだけ正確にお願いします」
「ああ、それなら、ここだな」
モニターを確認しながら刑事は給仕がワインを手にしたビュッフェカウンターのワインが並べられていた場所へと立つ。
「その地点に何か印しを」
「分かった」
刑事は自分の足元に赤ワインの入ったグラスを置いた。
「そして次に給仕さんがその2秒後、午後6時18分39秒03の時点の位置を確認してください」
「いいだろう」
モニターを早送りして、その時の給仕の立っていた場所に刑事がワインを置く。
「この2つのワインの距離を測ってください」
警官が鑑識のメジャーで測定する。手際よく警察を自らの手足の如く駆使する。
警官が2つのワイングラスの距離を測り終え、結果を少年に伝える。
「2メートル46センチです」
「秒速1メートル23センチという事ですね」
午後6時18分37秒03と午後6時18分39秒03。その差は2秒。2秒で2メートル46センチ進む、すなわち1秒で1メートル23センチという計算になる。
「給仕さんの歩くスピードは毎秒1メートル23センチです。まあ人間の歩くスピードですので、精密な速さという訳ではありませんが、そこは悪しからず」
それはまさに最初に山之内が宣言した通り、数学の授業の様だった。
「ちなみに統計では人間の歩くスピードは時速15キロです。分速500メートル、秒速1メートル30センチ。盆を持って人ごみの中を歩いているわけですから平均よりは少し遅いんですね」
これで簡易だが給仕の歩く速度が求められた事となる。
「次です。給仕さんの通った道筋、その二つの赤ワインをロープでもチョークでも何でも構いませんが、直線で繋ぎ、更に延長してください」
迅速に、刑事の部下の警官が動いた。
ビュッフェからテーブルの間を縫って、赤いラインが直線で描かれた。そして延長したそのラインの先には、被害者の倒れた後の人型のチョークの枠へと繋がっていた。
「被害者の元へと真っ直ぐ伸びた赤いライン。つまり、給仕さんがワインを取って、この道を直進したという事になりますね」
それは見た目でざっと50メートル程の直線のラインとなった。
「刑事さん。この赤ワインの……」
と二つ目に置いた赤ワイン、つまり午後6時18分39秒03の給仕の位置を指差し、言った。
「更に一秒後の給仕さんは?まだカメラで捕捉出来ていますか?」
直ちに刑事がモニターを確認する。
「ああ、映っている」
「ではその場所に、再び赤ワインでチェックしてもらっていいですか」
そして刑事は地面の赤いチョークのライン上に更に赤ワインを置いた。
「ありがとうございます。では更に1秒後は?給仕さんはカメラに映っていますか?」
「ああ、もう消えているな。映っていない……いや、別のカメラに入っている!映っているよ」
「ではそこに赤ワインを」
それからはお互い心得たもので途中から少年と刑事も声を出さず、黙々とモニターを見ながら一秒、また一秒といった風に、一秒単位で赤ワインを置いていく作業へと変わった。
警察機関と山之内少年の迅速な作業により、床の赤いライン上には瞬く間に赤ワインの列が作られた。正確な数字を述べると、40個の赤ワインのグラスが置かれていた。
この作業の過程で給仕がワインを盆に載せ、被害者の下へとスタートした午後6時18分37秒から、ワインが渡された午後6時19分30秒までの53秒間で、給仕がモニターに捕捉されていない瞬間は、地点で言うのならば5ヶ所である事が判明した。
それらは一つのカメラが死角となっても、別のカメラが、そのカメラが死角となったらまた別のカメラという様に、お互いがお互いをフォローし合う位置に絶妙に配置されていた。「給仕がモニターに映っていない5ヶ所」とはつまり「移動している状態での5秒連続の死角等存在しない」という意味である。1秒の単独の死角が5ヶ所。本当にほんの1区画、それこそ床面積で換算すると1平方メートルの一切カメラに映らない場所が5ヶ所存在するという事。だが、それはセキュリティとしては驚異的である。それこそ重箱の隅をつつく程の隙しかない、厳重な警備であったという証明であった。
「分かりやすいな」
「そうですねー」
遠巻きに床を眺めながら大屋と真由美は声を上げた。
床には給仕の通った赤いラインと赤ワインの列。
「これ、あの頼りなさげなお兄ちゃんが通った道?」
少女が真由美を見上げて訊ねる。頭を撫でながら答える真由美。
「そうだよー。よく分かったね」
「山之内君は、僕達にも分かりやすく説明してくれているんだね」
「そうなんです。徹君の推理は分かりやすいの!それはまるで素直になれない幼馴染の女の子が毎日主人公を家まで起こしに来て言う『別に好きで毎日起こしに来ている訳じゃないんだからね』っていう台詞くらい」
「それは素晴らしく分かりやすいね」
「分かりやすい~」
きゃっきゃと少女がはしゃいだ声を上げた。
「そして次は犯人さん。犯人さんの午後6時18分37秒03の時の位置ですね」
「山之内君、それは。その時間、モニターには映っていないんだよ。だから位置を測る事は・・・・・」
そんな刑事に少年は目を瞑り、口元に人指し指を当てた。そして少年は次に口元で何かをぶつぶつ言いながらテーブルからテーブルを歩き廻り始めたのだ。
「6時18分37秒036時18分37秒036時18分37秒036時18分37秒03ろくじじゅうはちふんさんじゅうななびょうれいさんロクジジュウハチフンサンジュウナナビョウレイサン……」
何を言っているんだ?
大屋のいる地点からその呟きは少し聞き取りにくかった。数字を口に出しているのだけがかろうじて分かった。そんな山之内に刑事が何事か話しかけているが、彼は気の無い返事を返すだけの様だった。
しばらく近所を彷徨った後、少年はある地点で立ち止まった。
「ここです」
少年は地面にワイングラスを置く。給仕の同じ時間の地点には赤ワインだったが、男のその時間の位置に置かれたグラスには白ワインが注がれていた。
「で、次は、午後6時18分39秒036時18分39秒03ろくじじゅうはちふんさんじゅうきゅうびょうれいさんロクジジュウハチフンサンジュウキュウビョウレイサン…………」
次ははっきりと聞こえた。少年は時刻を呟いているのだ。
「そうか……」
「新聞記者さん?」
「さっきあの刑事がやった事と同じ事をしてるんだな。彼は」
「え、でも刑事さんはあんなにぶつぶつ言ったりとか、うろちょろしたりとかして無かったですよ?」
真由美が首を傾げる。そんな彼女に説明する様に大屋は手振りを加えて言う。
「モニターだよモニター」
「モニター?」
「そう。山之内君の頭の中のモニターさ。彼は絶対時感を持っている。時間に関しては完全記憶みたいなもんだ。誰がどうした、彼がこうしたという時間を完璧に記憶している。その記憶の中のモニターで彼は今午後6時18分39秒03の周囲の状況を思い起こしているんだ。彼の頭の中は一体どうなっているんだ。精密なハードディスクが丸ごと入っている様なもんじゃないか。脳内でまき戻し、一時停止も可能なんだな。彼の存在自体が防犯カメラと同じ働きをしているんだ」
「へえ、徹君、すごい!」
真由美は心底嬉しそうに幼馴染の少年を見つめ、感嘆の声を上げた。
それは口に出せば簡単に凄いで終結してしまう感嘆であったが、実際問題、それが事実なのだとしたら、それは空前絶後で前代未聞でその感嘆は簡単に言葉で言い表せないレベルの凄い事であった。絶対時感を用いてカメラに映っていない人物の場所を特定する捜査など過去にも例がない。
そしてすぐに次の位置も確定する。少年は先程白ワインを置いた位置から数歩離れたある地点に、もう一つ白ワインを置いた。
「ここと、最初の距離を、お願いします」
待っていましたとばかりの勢いで警官が動きだし、その距離を測り出す。
「4メートル90センチです」
「秒速2メートル45センチという事ですね。犯人さん。かなり早足ですね」
これで給仕と犯人の移動速度が求められた事になる。
「給仕さん、秒速1メートル32センチ。犯人さん、秒速2メートル45センチ。さて、事件当時の二人の秒速が出揃いました。次に参りましょう」
山之内少年の授業は続く。
「犯人さんのその二つのワイングラス。それも給仕さんと同じ様に繋いで、延長させて…………はい、そうです。ありがとうございます」
少年が言い終える前にその作業は開始され、すぐにもう一つ、男が直進した場合の、今度は白チョークを使った白いラインが完成した。この短期間で警察は少年の指示を理解し、痒い所にも手が届く程のレベルにまで昇華されてきている。
そうして、パーティー会場の床には2つのラインが地面に描かれる結果となった。給仕の赤ラインと男の白ライン。その2つはある地点で紅白となり交差している。
「犯人さんのワインが白ワインって言うのはちょっと皮肉ですね。黒ワインというのがあれば良かったんですけどね」
一言多いコメントを挟んでから少年は更に話を進める。
「さあ、クロスラインが出来ましたね。では、給仕さんと犯人さんのスタート地点、つまり午後6時18分37秒時の地点ですね。そのお互いのスタート地点から白線が交差した地点のお互いの距離を測って下さい」
「はっ!」
疾風怒濤の勢いで少年の命令を遵守する警察集団。メジャーで給仕のスタート地点から交差地点の距離、男のスタート地点から交差地点の距離を測っていった。そしてその結果が書かれたメモを刑事が受け取る。
「測ったぞ山之内君。給仕の彼が……」
「給仕さんが8メートル91センチ。犯人さんが17メートル76センチ。ですね?」
「な……」
思わず刑事が絶句する。
「どうですか?間違っていますか?」
「……その通りだ。給仕の距離が、8メートル91センチ。そちらの男性の距離が、17メートル76センチだ」
「やはり……ですね」
「何故、分かったんだい?」
刑事は目を点にしながら、尋ねた。
「驚く事はありませんよ刑事さん。これは全く驚く事ではありません」
そこまで喋ると、山之内は刑事の顔をじっと見つめる。
「話の途中ですが刑事さんに質問です。今回の事件で犯人さんが一番『やったらおしまい』な事は何だと思いますか?」
「それはやはり、その給仕とぶつかる瞬間をカメラで捉えられる事じゃないのかね」
刑事は難しく考えず、簡単に答えた。それに少年は満足そうに大きく頷く。
「その通りです。犯人さんが一番やってはいけないこと、それは『ぶつかった瞬間がカメラに捉えられる』という事です。もうそんな失態を犯してしまえば、その時点でゲームオーバー。即刻逮捕。最悪です。どれだけ頭を捻ろうがどれだけ計画を練りこもうが、その瞬間、その事件はミステリにもならないレベルまで大暴落する事でしょう。当然、僕も登場しません」
そうなればそれはほぼ現行犯での殺人事件で終わりを迎える。
「ですが、僕達は今、こうやってこの事件の真相を頑張って解こうと努力しています。それは何故なら、言うまでもなく犯人さんがカメラに映っていないからです」
淡々と畳み掛ける少年の断定。それは見ている人間が当てられてしまう気を含んだ一種の毒気。
「ですから、ぶつかった瞬間というのは、これは必然的に『カメラに映っていない時刻』という事になります」
「それはそうだ」
「では簡単。つまり給仕さんと犯人さんがぶつかり、ワインの交換が行われたのは、カメラの死角となった5ヶ所ということです」
それはつまり給仕の白ライン上の赤ワインが存在しない、5ヶ所。
「そして実際にぶつかった地点、それはここです」
少年はスタスタと移動し、給仕と男の2人のラインが交差する紅白地点に足を下ろした。
「ここは……。山之内君、本当かね」
「ええ、間違いありません。ここです」
確かにその紅白地点に赤ワインは存在しない。男がカメラに映っていないのだからそれは当然である。見えない二人が見えない場所で出会う。成程、それは考えたら理に適った思考である。少年が今立っているあの場所で給仕は誰かとぶつかり、ワインを零した。そしてその誰かとは……。
「ちょ、ちょっと待て」
慌てて男が口を挟む。
「何でしょう犯人さん?」
「なんなんだ。何でここだってことになる。さっきから黙って聞いていたら好き勝手に言いやがって。このラインが何だって言うんだ。たまたま俺のラインと給仕のラインが重なっているからお前はそう言っているだけだ。待てよ。他にも可能性はあるだろうが」
ここで少年にこのまま事態を進められたら決定的に不利になる。
本能的に男は悟った。床に描かれた赤いラインと白いライン。二人の存在証明を意味するワイン。その視覚情報が会場の人間達の頭にすんなりと入ってくる。
それもしっかりと順序立てて、優秀で、分かり易く、雑談等で生徒を飽きさせることもない有名予備校の人気講師の授業の様に浸透する。
今、人々の頭には絵が浮かんでいる。ワイングラスを盆に載せた給仕。テーブルから移動する男。その2人がラインの交差した地点でぶつかるであろう未来予測図、いや、過去回帰。それこそまるで見てきたかの様に、見ているかの様にこの会場の千人の頭に浮かんでいるビジョンとなる。
その状況は男にとってはあまりにも危険過ぎる。
ここでなんとしてでも止めておかないと取り返しがつかなくなる。危機感が溢れる。取り返さなければならないと思って当然だろう。
「あと4ヵ所ある事を忘れてはいないだろうな」
「はい?」
男の言葉に恍けた様に首を傾げる少年。
「あとの4ヶ所はどうなんだよ」
「何がですか?」
「4ヶ所だよ」
「…………はい?」
「お前、分かっていて…………。なんて恐ろしいガキだ…………」
少年の組んでいる筋書きに、男の顔が青ざめる。
「このライン上を見たら、そりゃあ誰もが、ここで!俺と!給仕がぶつかったと思うに決まっている!何故なら!」
「何故なら?」
「そういう風にお前が仕組んだからだ。ご丁寧にお膳立てしたからだ!俺だってなあ、俺だって確かにこんな立場にいなかったら普通に思っているよ。そんな自信があるくらいだ」
視覚的に分かりやすい図を描いての推理。それはまさに少年の印象操作と言えた。
「お前はわざと言おうとしていない。言わない事は嘘ではない。でもな、だからって罪じゃない訳じゃないだろう。嘘をつく罪があるのなら、あるって言うのなら、真実を言わない、分かっていて言わない罪だって成立するだろうよ。黙秘権だか沈黙は金なりだか知らないがな、探偵、俺にとってはお前のそれは罪だよ。お前の沈黙は成る程、十分俺を殺すだけの力を持っている。本当に恐ろしいガキだな」
血相を変えて少年を責め立てる男。だが当の標的の本人は相変わらずの涼しい表情である。
「犯人さん。どうされたんですか?申し訳ありませんが、僕にはさっきから何の事だか分かりませんけれど」
「…………とことんしらばっくれる気か。だったらいいぜ。だったら俺が言ってやる。言ってやるからな!」
「ええ、どうぞ」
何の抵抗もなく先を促す少年。
「残りの4ヶ所、給仕が映っていない4ヶ所で、『俺じゃない別の誰かとぶつかった可能性』があるだろうが!それをお前は隠した。それも床にラインを描いて、周りの皆に先入観を植え付けて!」
その悲痛な叫び声は会場中に響き渡った。大屋にも男が口を挟んだ時点で何を言いたいのかは薄々勘付いてはいた。『5ヶ所映っていない』というのは『5ヶ所可能性がある』という事である。つまり、給仕と男とがぶつかった可能性は5分の1の20パーセントであり、少年はその事を隠匿しながら話を進めていたのだ。
それはまさしく、演出という言葉で表現するのが適切であった。
「小学生の漢字ドリルと一緒だ。点線で書くべき漢字が書いてあったら、『海』って書いてあったら、誰もがその点線をなぞって書くだろうが、『海』って。誰もそこに『山』なんて書こうとしない。閉じるに決まっている。思考を!そういう事をお前は故意に今しているんだ!」
犯人の言葉を受け、少年は笑いながら手を叩いて喜んだ。
「ははははは!漢字ドリルね!犯人さん、貴方随分と上手い事を言いますね!」
「笑い事じゃねえ!」
己の策を露見されようが全くもって少年の余裕な態度に変化はない。
「どういう事だ。説明しろ!何故そうやって俺を犯人にしたてあげる!一体何が目的だ」
「…………」
笑い顔のまま、
「その通りです」
少年は観念した様に首を縦に振る。
「犯人さんの言う通りです。僕は黙っていました。犯人さんにも、皆さんにも」
何の悪気もなくあっさりと事実を認める。
「確かにここ以外にも給仕さんがカメラに映っていない場所は4つ存在します。それは犯人さんの仰るとおりです。そしてそれは同時にここ以外に4ヶ所、ワインが取り替えられた可能性のある場所が存在するという事ですその可能性はゼロです」
「ほらみろ!やっと白状しやがったな。俺の言ったとおりじゃ…………え?今、なんて?」
山之内少年の告白に更なる追求を重ねようとした男の言葉が、止まる。少年がどさくさに紛れて最後に言った言葉が引っかかったのだ。
「それらの説明を避けていたという犯人さんの指摘、その通りです。僕は故意的にそれらの可能性について言及はしませんでした」
「ほらみろ!一体何の目的が…………」
「それは可能性がゼロだからです」
「…………」
再び沈黙。可能性はゼロ、と少年は断言した。男の声は既に気圧され気味で、先刻より幾分弱々しいものだった。それでも力を振り絞り男は言った。
「だからお前、適当な事を…………」
手の平を差し出す、たったそれだけの挙動で、山之内少年は男を制す。
「それに関して、では説明しましょう。簡単な事です。本当に簡単な事」
そう言って山之内は地面を指差すのであった。
「2人がこの紅白で交差している地点でぶつかったという事実、それは床を見たら一目瞭然です。それは線上に配置されている赤ワインの列を見て頂ければ。明らかにおかしな点がありますからね」
床に描かれた給仕の赤線上には赤ワインが40個。
「数が合いませんよね?」
少年は言う。
「最初の赤ワインはスタート地点という事で0秒換算なんですが、2つ目はそれから2秒後の位置に置いてありますから、まあ、難しい事考えずにグラス2つだから2秒と考えてもらって構いません。そしてそれからの1秒単位でカメラに給仕さんが映っている場合には赤ワイン。数は40個。結果、映っていない場所は5ヶ所。スタートからゴールまでは53秒。さあ明らかにおかしい。どこが?」
「それは…………」
突然の質問に言葉を詰まらす男。どういう事だ?大屋にもよく理解出来なかった。
それは、と山之内は続ける。
「とっても簡単ですよ。赤ワインは40個ではなく48個なくてはならない、という事です」
「な…………」
少年の言葉を受けて床に向けた顔を更に地面へと近づける男と会場の人間。
先述した通り給仕の赤線上には、赤ワインが40個しか置かれていない。それは48個ではない。
「このライン上に置かれた赤ワインは『53秒を1秒単位で切り取った軌跡』です。ですから5ヶ所はカメラには捕捉されず、その分の赤ワインは不在。53マイナス5で48。赤ワインは48個ある筈なんです」
大屋はすんなりその説明を理解出来た。
「では、何故赤ワインの数が足りないのか。まあ、これも少し考えたら本当にすぐ分かる簡単な話なんですけどね。監視カメラは素晴らしい。連続で映らなかった場所はないんです」
では何故なのか。何故赤ワインの数が足りないのか。
「答えは簡単です。だったら『連続して映らなかった時間がある』という事。そしてそれこそが」
少年は歩く、そしてある地点で立ち止まる。
「ここなんです」
そこが、男と給仕のラインが交差している場所だった。
給仕のスタート地点からワイングラス2つと赤ワインの4つ目と5つ目、その丁度中間の地点。4つ目と5つ目の赤ワインが2メートル程離れている。そこは給仕の最初の死角だった。
「4つ目の赤ワインと5つ目の赤ワインのこの間はカメラの死角で、空白の1秒地点です。ですから赤ワインがない。そして、紅白地点ですね。お二人の午後6時18分44秒の場所です」
更に少年は話の確信へと触れていく。
「そして何故赤ワインの数が少ないのか?更に何故ここが毒入りのワイングラスが交換された犯行現場であると限定出来るのか。同時にお答えしましょう」
一瞬、ほんの一瞬の間を置いて少年は答えた。
「午後6時18分44秒から午後6時18分54秒の10秒間、給仕さんはこの場所に留まっていたからです」
大屋を含め、その言葉を受けた人間は、少しの間考え、そして次の瞬間には直ぐに、本当に簡単にその全てを理解するに至った。
「なるほど!」
刑事が叫んだ。
「そうか、そう考えてみればそうだ。私とした事が」
有名な数学者が悔しそうに唸った。
山之内少年の言う通り、赤ワインを減らす方法は2つあったのだ。1つは「カメラの死角に入る事」。カメラの死角に入れば位置が捕捉されず、赤ワインを打つ手段がなくなる。
そして、もう1つは「その場に留まる事」。その場で留まれば留まるだけ、その分母である53個のワインを、1秒なら1つ、2秒なら2つと減らしていく事が出来る。
その場がカメラの可視ゾーンならば最初の1つの赤ワインが打たれるが、それ以降は同じ場所に打たれる事となるので、重複。同じ地点で赤ワインが積み重なってタワーになっていく事となる。
その場が不可視ゾーン、死角ならば、そもそも視認されないので赤ワインが打たれない。更にその不可視ゾーンで留まっているならば、「打たれない赤点が溜まっていく」という現象が起きる事となる。見えないワインタワーが形成されるのだ。
カメラに映っている赤ワイン40個+カメラに映っていない赤ワイン(1秒間)×4ヶ所+カメラに映っていない赤ワイン(10秒間)=53という計算で全ての辻褄が合う。
それは普通に考えれば一瞬で理解出来る話であった。何故、その事が頭に浮かばなかったのか、その事自体、恥ずかしいほどである。
「給仕さんの死角は全部で5ヶ所です。午後6時18分44秒~54秒。午後6時18分58秒。午後6時19分03秒。午後6時19分15秒。午後6時19分23秒。刑事さんにお願いして確認してもらいましたので、これらは監視カメラの映像データにしっかりと記されています。後半の4ヶ所はその次の瞬間には実際の映像で確認しても給仕さんはカメラに登場しています。つまりイレギュラーなく、歩き続けているという事なんです」
1秒の間に人とぶつかりワインを零し、グラスを交換すること等出来ない。しかも、給仕側の速度を変えずになど、すれ違い様に神業でワインを入れ替えでもしない限り不可能である。
「空白の10秒を要した場所。ずばりここが、全ての始まりであり、死のワインが盆に乗せられた、犯行現場です」
最早少年の言葉に口を挟む者はその場にはいなかった。
「後は逆算です。秒速1メートル23センチの給仕さんと秒速2メートル45センチの犯人さんが7秒後にぶつかる、それが分かっていれば簡単な話です。2人がぶつかるこの地点までのお互いの距離を計算するのは、それはもう算数の世界です」
秒速が出て、所用時間が判明すれば後は秒速×秒数=距離という公式で答えが出る。
「但し、7秒というキリのいい数字なら良かったんですが、スタート地点から7秒ジャストで接触するという事もそうそうありません。当然微少ながらも、誤差が生じます」
スタート地点の午後6時18分37秒03から、ぶつかった時間が午後6時18分44秒03で完全7秒後という事は確かにないだろう。現実に流れている時間は算数の授業で習うようなキリの良い数字とは限らない。周りの人間は皆それぐらいの誤差、ゼロコンマから下の世界に関して文句を言う気は毛頭ないのだが、少年はそれでも妥協を許さない。
「誤差は0、25です。これは僕の絶対時間を使っての修正ですが。つまり7、25秒後に衝突した、と計算してもらえば式を補正出来ます」
そして、その数字に基づいて計算をする。
「給仕さん。秒速1メートル23センチ×7、25秒=8メートル91センチ75ミリ。犯人さん。秒速2メートル45センチ×7、25秒=17メートル76センチ25ミリ。と、こうなります。まあ、なにぶん人間の自然な動きの事なんでミリ単位はご容赦下さい」
少年は申し訳なさそうに頭を下げる。
「それではもう一度聞きましょうか」
そしてすぐにいつもの不敵な顔に戻り、刑事に問いかける。
「刑事さん。先程測られた距離は?」
「もう一度言おう。君の言う通りだ。給仕が8メートル91センチ。そちらの男性が17メートル76センチ、だ」
「つまり今の僕の計算も推理も間違っていないという事です」
両手を広げ群集を見つめる。
警察の「測る」というもっとも簡単で確実なアプローチで至った答えに、少年は「速度」と「絶対時感」を用いた「計算」というアプローチで全く同じ解を導きだしたのだ。その結果、犯行現場発覚と同時に少年の「絶対時感」という能力も証明される事となった。
「それではまとめです。つまり、秒速1メートル23センチで歩いていた給仕さんと、秒速2メートル45センチで早歩きをしていた犯人さん、それらの距離と時間を推理、計算すると、バーカウンターと被害者の延長線上を歩く給仕さんとテーブルから席を立ち歩き出した犯人さんは午後6時18分秒44秒28になった地点で、衝突をしました。そして、10秒のロス、空白の時間がここで生まれた」
誰も少年に口を挟まない、挟めない。只々張り詰める様な沈黙だけが会場に鳴り響いている。
「それではここで犯人さんに質問です」
爽やかな微笑を浮かべながら、山之内は言った。
「午後6時18分44秒から午後6時18分54秒、この10秒間のアリバイを教えて下さい」
少年は「絶対時感」を見事に駆使し、その10秒に男を追い込んだ。
―――― ―――― ―――― ――――
――この間は大変でしたね。
給仕「あ、あの、その、本当に、す、すいません」
――貴方が退出する時に付き添ってくれた女の子。川原真由美さんと言うんですが、貴方を救った山之内徹君とは幼馴染みなんですよ。
給仕「ああ、そうらしいですね。従業員控室まで行く間に色々と聞きました」
――しっかりしてますよね
給仕「まったくです。自分が情けなくなりますよ。あ、でもあの子……」
――何か……?
給仕「いえ、僕が案内しているんですけどあの子フラフラと別の方向に行っちゃって、機関室だとか大きなモニタールームに迷い込んで……。結構大変でした」――
……まあ、中学二年生の女の子ですからね。
―――― 大屋メモ ――――
「さあ、犯人さん、どうですか?午後6時18分44秒28から午後6時18分54秒、この10秒間です。どこで何をなさっていましたか?」
「く、そんなの、覚え…………」
「覚えているわけがありませんよね。そうでしょう。誰だってそうです。ただ、僕は覚えていますけどね。昨日の午前9時45分24秒67では、学校の1時間目の授業で歴史の大橋先生が大化の改新を黒板に板書する際、大イカの改心と書いて生徒に指摘され『すまんすまん』と謝った2回目の『す』を言った瞬間です」
「…………」
「間違いありません」
「ま、待てよ。そ、そうだ。これは罠だ…………」
自分への不利な空気に、男は必死に抵抗する。抵抗するしかない。今抵抗しなければ、取り返しがつかない所まできている。焦り、反論を口にする。
「お前が、わざわざ、その給仕と俺がその交差上でぶつかるという体で計算したに決まっている。俺を嵌める為に!」
「はは、面白い事を言います。一体何の為にそんな事をする必要があるんですか?僕のアプローチに於いてわざわざ必ず犯人さんと給仕さんを衝突させようと誘算するのは、生半困難だと思われますね。いくら僕でもそれらの計算を頭で行いながら、僕の都合の良いような時間を設定していては頭がパンクしてしまいますよ」
男のなんとしてでも、どんな事を言ってでも自己弁護を行いたい気持ちがの周囲にも痛いほど伝わってくる。だが、それは山之内に対して言い掛かりをつけているという風にしか受けとられない。
「しかし、今のお前の話はただの推測に過ぎない…………」
「疑わしきは罰せられずですか。ではこんな例えはどうでしょう」
尚も、山之内少年は男を追いつめる。
「クラスで女子のブルマが10日間連続で盗まれました。どうやら音楽や美術の移動教室の際に犯行は行われた様です。そのブルマ泥棒の犯人を探していた所、ある男子生徒のアキラ君が、10日間盗まれた授業の最中に必ずトイレに行くと言って教室を出ていっていたとの事です。その事実は間違いなく、真実です。アキラ君がブルマを盗む所や、女子更衣室に忍び込む姿を見たという目撃証言はありませんが、同時に、犯行時刻にアキラ君が授業を受けていた姿を見たという目撃証言もありません。さて、ブルマ泥棒の犯人は誰でしょうか?」
「…………」
「…………」
変な例えが出た!
なんなんだその例えは!
大屋は驚愕を覚えた。
なんでそこでブルマ泥棒なんだ。
だが、そこはやはり中学生。例えも身近なものにしてしまうのだろうか?
「……答えはなんなんだい?山之内君?ブルマ泥棒の犯人は?」
刑事が真剣な面持ちでブルマ泥棒の犯人について尋ねる。
「勿論」
少年は即答する。
「犯人はアキラ君でした。これで事件解決です」
それは暗に怪しきが犯人。グレーは黒だと明言したも同然であった。実際今も状況は同じではある。周りの人々の印象、少年に対しては「稀代の名探偵」。男は「事件の首謀者」といった所である。それは男の疑心暗鬼では、とうになくなっていた。不利も不利。風は逆風、それも灼熱の温風ときたらたまったものではない。
それでも男は折れない。決して認めない。
「へん。偶然だ」
平然とした顔で嘯く。
「なるほど、確かにお前の言った通り俺が通ったルートの証明にはなるかもしれない。不在の証明だってか?それでもな、一緒だよ。変わらない。『俺が給仕にぶつかった証明』にはならないだろう。偶然に決まっている。確かにお前の言う通り、そりゃあ俺が怪しい。怪しくてたまらないのはよく分かる」
それでも、と男は続ける。
「それでもアキラ君がブルマを盗んだとはいえないんだよ。たまたまアキラ君がブルマの盗まれた時刻にたまたま本当にトイレに行きたくなっただけかもしれない。それがたまたま偶然にブルマが盗難された時刻と重なっただけ。アキラ君にとっちゃ悲しい偶然だ」
何故先程から話しの主軸を少年の例え話ベースで進めているのか。大屋は残念でならなかった。
「よって答えはこうだ」
今までのお返しとでも言わんばかりに山之内少年に人指し指を突きつけ、男は言い放った。
「アキラ君は周りの疑いの目を気にする事なく、学校生活を続け、無事に卒業し、今では二児の父です!!」
そして男は肩を軽くすくめた。その態度は打って変わって清々しいものである。
「確かに、俺はこのルートを通ったかもしれない。でも、それは俺が他所のテーブルに料理を取りに行っていたからだ。俺の延長線上にはビュッフェのテーブルがあるだろう?」
あれだけ少年の言っていた推理を否定していた男だが、ここでその事実を簡単に認めた。そして、確かに、男がいたとテーブルから山之内少年が見た男の進んでいった方向、そこで給仕とぶつからなかったとしたら辿り着くであろう道のりの先にはビュッフェのテーブルがあった。
「そして、それが一切カメラに映っていなかったのは、今言った通り、ただの偶然だ!!アキラ君も偶然だ!偶然たまたまブルマ泥棒の犯行時刻にトイレに行きたくなったんだ!」
アキラ君の友達かという程アキラ君の肩を持つ男。ルートはビュッフェの為。映っていないのは偶然。男はそう断言した。全てが偶然。怪しいのも偶然。男が犯人であると思われるのも、何もかもが偶然で皆にそう思わせているだけなのだと、主張した。
「ビュッフェを……?」
「ああ、そうだ」
「何を召し上がったんですか?」
「覚えて……ねえよ」
吐き棄てる様に言葉を放つ。じっと、山之内少年は男を見つめる。
二人の睨み合いはしばらく続いた