~名探偵パート①~ 山之内徹登場
超越探偵 山之内徹
その場に居合わせた人々の一人がこう言った。
彼こそが、本物の名探偵だ、と。
皆はもっともだと頷いた。
彼に犯行を暴かれた犯人はこう言った。
待て、奴をそもそも探偵と呼べるのか、と。
皆はもっともだと頷いた。
そして彼といつも一緒にいる女の子はこう言う。
徹君は凄いんです。そう、徹君こそ超越探偵なんです。
皆はもっともだと……。
第一話「名探偵は知っている」
~名探偵パート~
山之内徹 少年探偵
川原真由美 徹の幼馴染
大屋圭吾 記者
今岡文造 貿易会社会長。被害者
刑事 刑事。徹と顔見知り
給仕 被害者に毒入りワインを運んだ青年
男 犯人候補
少女 パーティーに参加していた少女
2011年、8月13日の午後6時20分。ある豪華客船で殺人事件が起きた。
その際、その船には殺された主人、家族、親類、そして各界の著名人や文化人、報道関係者等、名立たる数多くの人間が招待され、参列していた。
総資本百億を超える貿易会社の創設者であり、会長を務めていた今岡文造氏。創立三十周年と文造の生誕六十年を祝う為に催されていた盛大なパーティーの最中にその惨劇は起きた。
運ばれてきたワインを飲んだ次の瞬間、喉を押さえ苦しみ始め、口から泡を飛ばし、絶命したパーティーの主役。悲鳴、混乱。それは厳重な警備の中にも関わらず行われた大胆な犯行であった。医師の検死は毒殺。
船に駆けつけ、捜査を開始する警察。しかし、捜査の過程で浮かび上がってくるのは、出席者の群の中に星の数ほど潜んでいる文造を憎む者、疎む者の存在であった。
給仕が配膳したワインを毒の入ったワインと見事にすり替えた犯人。監視カメラにはその影すら捉えられていない。千人を超える出席者の中から絞り込むことが出来ない犯人。大勢の人々の眼前で行われた大胆な犯行に、いともたやすく行き詰る警察の捜査。千人の中に確実にいる筈の犯人の存在を、その他の無実なる九九九人の存在が足枷となり邪魔をする。
全ては犯人の思う壺だった。まさに木を隠すなら森の中。殺害の仕掛け実行時と殺害発見時に於いて強度のリスクを負うことになるが、それは犯人にとって大きな賭けであった。緻密な計画の下に企てられた犯行であると同時に大胆で大雑把な面の両方が見受けられる一か八かの勝負。それでも結果、犯人の博打は通った。犯人の置いた駒がその場に於ける有効打となったのだ。つまりこの犯罪が見事遂行されたその瞬間、犯人の勝ちは九九パーセント決まったと言っても過言ではなかった。
独壇場。そう、事件は犯人の手のひらで踊っていた。
独壇場。誰も森の中から木を見つけられない。
独壇場。イレギュラーはなかった。
ただし。
たった一つ。
その少年がその船にいたことを、除いて。
フリー記者の大屋圭吾が事件の起きた豪華客船に乗り込んでいたのは、偶然であった。馴染みの雑誌の編集者から頼まれて、経済界重鎮の誕生パーティーに取材がてら参加して欲しいとの依頼に、これは久しぶりに美味しい料理にありつけそうだと、単純な理由で快諾した事が全ての始まりであった。
客船の上でしばらく豪勢な料理を堪能して、さあ仕事に取り掛かろうかと愛用の電子メモを起動させたまさにその時、取材対象が絶命するというあり得ない事態に直面したのである。
慌てて船が波止場に戻ると、当然の事ながら直ぐに警察が乗り込んできた。
乗客は捜査が開始されれば直ぐに解決するだろうと安堵の表情を浮かべていた。だが、その期待もむなしく、明らかに捜査が行き詰っていく空気を、大屋は肌で感じた。
一番の原因は監視カメラの映像だろう。どんな手口を使ったのかは窺い知れないが、犯人は巧妙に行動していて、監視カメラにその姿を映していなかったのだ。そして、それが決定打となった。
――これは警察は完全に行き詰ったな。これから別室でそれぞれ事情聴取という線か。長くなりそうだ。
大屋は思わず溜息をついた。
現場を指揮している刑事が会場の人々を見渡し、口を開く。
「それでは、別室で皆さんに一人ずつお話を聞いていきたいと思います。夜分までかかると思います。皆さんには大変ご迷惑をおかけしますが、捜査にご協力お願いします」
予想通りの台詞であった。だが、こうなったら、それこそが最も堅実で現実的なやり方ともいえよう。犯人が海に飛び込んでもいない限り、しらみつぶしにあたれば犯人を逮捕出来る。思っていたよりも時間が掛かる事になった。ただそれだけである。
長い夜が始まる。大屋がそう思った時だった。
「その必要はありませんよ刑事さん。この事件、僕がもう解きましたから」
パーティーで使用していたスピーカーから声が響いた。
それは会場の時計の針が午後7時30分を指した時であった。まるで捜査が均衡して停止するのを見かねたかの様なタイミングでその少年は動き出した。
あっけに取られる人々、その全てが彼に注目した。
大屋は最初、子供が退屈にかまけてマイクで遊び始めたのかと思った。微笑を佇ませた、黒いスーツを着たなんの変哲もない少年。中学生程だと見受けられる。
当然の如く一人の警官がその少年を止めようとステージへと足を踏み出した。騒ぎはそれで終了と誰もが思った。だが、現実はそうはならなかった。その少年が掌をかざした途端、その警官の足が止まる。まるで待てをかけられた犬の様に。
その少年の瞳の奥には言い計れぬ強制力があった。周りの大衆はそれに呑まれ、彼がただこの場を乱すだけの子供とは違うことを無意識の内に確信した。
捜査を指揮していた中年刑事が人を掻き分けその少年に近づく。少年は刑事に微笑みかける。
「ごぶさたしています、刑事さん」
「君は……山之内君」
刑事は驚いた表情を見せ、少年の名前を呼んだ。ステージ上の少年を刑事は下から見上げる。
「山之内君、君も来ていたのか」
「はい、真由美のお父さんが、亡くなられた会長と知り合いで。今日僕はそれの付き添いです」
「なるほど。真由美君の……。先の事件では君には大変世話になったな」
「いえいえ、そんなことは。刑事さん、積もる話もたくさんありますが、またそれはこの事件が解決してからにしましょう」
肩をすくめる少年。頷く刑事。
「ああ、そうだな」
「とはいっても、この事件、もう解決していますけどね」
自信と確信に満ちた声で、少年はそう言い切った。その言葉を聞き、会場にざわめきが起こる。
「本当かい?山之内君」
刑事も驚きを隠せない。
「刑事さん、僕を誰だと思っているんですか」
笑いながらそう言い、少年が右手をサッと挙げたその瞬間、人々のざわめきが水を打った様にピタリと止まった。
そのまま、会場に沈黙が響き渡る。誰もがその少年の一挙手一投足に注目していた。じっとりとした沈黙の中を平然とした顔で片手を挙げ佇む。きっかり十秒、間をあけてようやく少年が動き始めた。
「謎は全て解けた」
そして少年はゆっくりと、円を描く様に右手を下ろす。
その動作には一切の迷いもない。何者かが少年に乗り移っているような荘厳とした雰囲気に誰もが呑まれ、千の瞳は少年の人指し指に注がれた。
その人差し指が、人ごみの中のある一点でピタリと止まる。
「簡単に、要点だけ述べます。犯人は百パーセントの確率で、貴方です」
千人の人間がひしめき、密集している会場である。少年が指差した先には何十人もの人間が固まっていたが、少年の視線は一点に集中していて、離れなかった。
その瞳は、人ごみの中のたった一人の人間を映していた。
その男。その男はスーツを着た、どこにでもいる、いたって普通の、千人を足して千で割ったらこういう顔になるという程の、会場に於ける平均値。派手でなく、良くもなく、悪くもなく、通常、平常、十人並み。年は三十代前半程度といったところ。
大屋自身、どこかで見た事があるのではないかと錯覚するほど、一般的な顔であった。
周りの人間が後ずさり、その男の周りに半径一メートル程の空間が出来上がる。
「……ちょ、ちょっと」
蛇に睨まれた蛙の様に動けないその男はやっとの思いで言葉を振り絞る。
「……待て、おい小僧。お、俺のことなのか?」
笑う男。だがその顔は明らかに引きつっている。そして静寂はまだ続いている。会場の誰一人として少年から目が離せないでいた。誰もが少年の次の言葉を待つ。そしてその口から放たれる言葉は更に辛辣で確信的だった。
「そうですよ。貴方のことですよ犯人さん。百パーセントあなたが、百パーセント会長を、百パーセント殺したと、百パーセント言っています」
切り捨てるかの様な言葉。男は当然、動揺を隠せない。
「な、なんなんだよ、突然お前なんなんだよ。そんなこと言い出して誰が信じるんだよ。俺のこと知っているのか。何を根拠に……」
「決まっているでしょう。百パーセントな論理的思考から生み出される考察、つまり推理によってですよ」
少年の口調から放たれるその言葉は推理という不確定な未来を予想する言語ではなく、死神が人間に下す死の宣告の様であった。
先刻まで犯人が支配していたと思われていた会場は少年の独壇場。気がつけば皆が夢中になっていた。
「……あの少年は、一体なんなんだ……」
ぽつりと漏らした大屋の呟き。それは独り言だった。思わず零れたその言葉に、空を切った筈のその答え無き質問に、返答があるとは思ってもいなかった。
「徹君ですよ」
振り返ると大屋の横に少女が立っていた。
黒く長い髪。前髪は眉毛のラインで綺麗に揃っている。その下にある吸い込まれそうな程に透き通っていて大きな瞳。身長は150センチ程、少し小柄な体型で顔立ちから見て、中学生ぐらいだろうか。清純を絵に描いた様な真っ白なドレスがよく似合う、絵に描いた様に可憐な少女だった。
「山之内徹君、名探偵です」
「……君は?」
「私の名前は川原真由美。徹君の幼馴染です」
それが、フリー記者大屋圭吾と、川原真由美との出会いだった。
一方的に行われた少年の犯人指名から一方的に質問が始まる。
「まずは貴方のお名前……いや、いいです。名前は別にいいです。面倒臭いんで」
「なにぃ!」
「貴方のことは、そうですね、犯人さんとでも呼ばせていただきます」
そう言って少年は時計を一瞥する。
「死因は毒薬。それは間違いないですね、刑事さん」
「ああ、それは確かだ。カプセルか、毒の入った容器を用意していて液体を流し込んだかは分かっていないが、間違いなく被害者は毒殺された。その毒はワインから検出されている」
少年の問いに対して、答える事が当然の様に刑事が応じる。
「おいおい、なんなんだよお前。一体何なんだ」
思わず男が口を挟む。
「なんで俺なんだ?この犯行はこの千人の中、誰にでも出来た。俺である必要などない!!」
男の言う通り、まだ彼が犯人である証拠などどこにも提示されていない。
「犯人さん」
「だから俺は犯人じゃないって言ってるだろう!」
激昂する男。それも意に介せず詰め寄る少年。
「何故人を殺そうと?」
「な、何を言ってるんだ」
「にしても、監視カメラに一切映ってないのは素晴らしいですね。どうやったんですか、犯人さん?」
「俺じゃない。犯人じゃない!」
「完全犯罪ですか。計画的なのか偶然なのか、まあ紙一重といった所ですかね」
「知らん!」
「いいじゃないですか。もう認めましょうよ。自分が犯人だって」
「ふざけるな!誰の事を言っているんだ!」
「当然、貴方の事ですよ。犯人さん」
「俺にはちゃんとした名前があるんだ」
「グーグルアースに映ってませんかね、犯人さんの犯行。あ、船内だからダメか……」
「……人の話を聞け!」
「ちゃんと聞いてますよ、犯人さん」
男の意志を完全に無視した怒涛の事情聴取が進む。
その様子を会場中の人間はただ茫然と眺めている事しか出来なかった。
大屋の隣でニコニコしながら少年を眺めている川原真由美と名乗った少女。両手にミニバッグを大事そうに抱えている。茶色地に小さな花の装飾。見た所持ち物はそれだけの様だった。そのミニバッグも彼女の純白のドレス姿には些か無粋に映る
大屋は電子メモを開くと、真由美に質問を始めた。
―――― ―――― ―――― ――――
――真由美ちゃん、だったよね?彼、山之内君とは幼馴染だって?彼はいつもああやって事件を解くのかい?
真由美「はい、徹君、いつも凄い速さで犯人さんを見つけるんですよ。で、捕まえちゃうんです」
――あそこの刑事さんとも知り合いみたいだけれど、どんな事件で知り合ったの?
真由美「はい。えーと。多分ニュースにもなったと思うんですけど、全国の有名なスキー場でお客さんが連続で殺される事件がありましたよね?あの刑事さんとは確かその時に初めて出会ったと思うんですけど」
――『全国スキー客連続殺人事件』(*補足1)……まさか、あの事件の犯人を……」
真由美「はい、突き止めたのが、徹君です」
――ええ!あの事件を?彼が?
真由美「あとは、『替え玉受験制裁殺人事件』『人気声優連続絞殺事件』『南海電車女性専用車両首なし死体事件』(*補足2)とかもです。もっとありますけどね」
――その全てを解いたのが……彼、なのかい?
真由美「はい!」
――そ、そうなんだ。
真由美「あ、記者さん、信じてないですね?えー、嘘じゃないですよ」
――いや、そんな事はないよ。
真由美「あ、記者さんが使ってるのって、電子メモですか?」
――ああ、これかい?僕は記事になろうがなるまいが、とにかく膨大な量を書き綴る質なので、こっちの方が楽なんだ。
真由美「いつもご贔屓にしてもらってるみたいで、ありがとうございます」
――ん?何の事だい?
―――― 大屋メモ ――――
(*補足1)『全国スキー客連続殺人事件』
三年前の冬、北は北海道から南は九州まで、全国各地の雪山で、スキー客が絞殺されるという殺人事件が多発した。その姿無き犯人はホワイトシリアルキラーという異名でその名を轟かせた。全国を股にかけるその機動力に警察やマスコミは撹乱され、それを嘲笑うかの様に連続して起こる殺人事件に人々は恐怖した。それはその年の全国のスキー客の割合を前年の半分にする程の影響力であった。だが、それ程までに世間を騒がせた犯人はある日突然、何の前触れもなく逮捕される事となる。逮捕された犯人の正体に日本は騒然となった。犯人はアルペンスキーの滑降競技の選手で、冬季オリンピックで銀メダルを取った事もある有名な人物だったのだ。全国の多くのスキー場を一人で周り練習をするのが彼の日課だった。誰もそんな地位も名誉もある人間が犯人だとは疑う筈もなかった。
(*補足2)『替え玉受験制裁殺人事件』『人気声優連続絞殺事件』『南海電車女性専用車両首なし死体事件』
「全国スキー客連続殺人事件」と並んで、どれも日本の近代犯罪史にその名を刻んでいる難事件。
大屋が電子メモの事を真由美に聞き返したその時である。足元に突然何かがぶつかってきた。見ると、そこには小学校中学年くらいの少女がカーペットに尻餅をついていた。
少女が申し訳なさそうに口を開く。
「ご、ごめんなさい」
「いや、それは僕の台詞だよ。ごめん。大丈夫?」
大屋は手を差し伸べ、少女を立たせる。
「怪我はないかい?お父さんか、お母さんはどこ?」
「あっち」
少女が小さな声で答える。
「あっち?」
少女が指差した方向とは全く別の向きを指差す真由美。少女は当然首を横に振る。ひょっとして真由美は目が悪いのだろうか。大屋はそう思った。
「あっち」
少女は大屋達から向かって斜め右を指さした。その方向を見ると、年なら30代半ば程の優しそうな男性と女性が立っていた。二人とも心配そうな顔をして現場を眺めている。
「お父さんとお母さんと三人で来たの?」
少女の目線に合うように少ししゃがみこんだ真由美が尋ねた。
「うん」
少女の笑みは一切の陰りのない微笑みだった。殺人事件を目の当たりにしたにも関わらず随分と気丈なものだと大屋は感じた。それともよく状況が理解出来ていないのだろうか。
何の汚れも知らないであろう無垢な瞳。茶色がかったサラサラの髪に、赤い唇。真由美とは正反対の漆黒のドレス。首には十字架のペンダント。頭には動物の耳の様に見えるデザインとして作られたのだろう、頭頂部の両端が少し盛り上がっているニット帽をかぶっている。それは熊なのか、犬なのか?大屋には一目見て判別が出来なかったが、その帽子が少女にこの上なく似合っている事だけは間違いなかった。
「また誰かとぶつかったら大変だから、今はお姉ちゃんと一緒にいよっか?」
「うん」
天使の様な笑顔で少女に呟く真由美。子供の扱いが慣れているのか、お互い子供同士なので打ち解けるのが早いのか、少女はもう彼女に気を許した様だ。こくりと頷き、白いドレスのスカート袖をきゅっと握り締めるのだった。
―――― ―――― ―――― ――――
――お名前は?
少女「こなかの、さいか」
――その帽子は?犬?熊?
少女「バク」
――バク?
少女「うん。バク」
――そうなんだ……。ありがとう。
―――― 大屋メモ ――――
あれからも幾つもの質問を矢継ぎ早に叩き付け、勝手に話を進める山之内少年。男の表情は不機嫌極まりないものとなっていた。
「あなたのテーブルはあそこですね、犯人さん。僕は隣のテーブルにいました。犯人さんがあちらの方と話をされてテーブルから離れたのを見ていました」
「……」
男はしばらく黙っていたが、少年の純粋な視線に渋々といった風に、口を開く。
「……ああ、確かに話をして席を離れた」
「イエス」
突然英語になった。
「突然英語になったね」
「突然英語になりました、はい。でも徹君は英語の授業は苦手です。でも六か国語を堪能に話す設定です。でなければならないのです」
「????」
真由美の言っている事の意味が分からない。
そして更に噛み合っていない、噛み合う筈も無い、そもそも根本から噛み合う物同士として作られていない歯車の様な少年と犯人候補の男。
「お前……まさか、それだけで俺を犯人だと言ってるんじゃないよな。被害者が倒れる少し前に俺が席を立ったからだなんて理由で」
「まあ、概ねそんなもんです」
少年のその言葉に男の表情が固まる。
「何だと、つまりただの勘か」
呆れ顔の男にすかさず少年は否定する。
「いえ、理論的、実証的、論理的考察に基づく結論です」
ビシ、と少年は男を指差した。
「そしてそれを世間では、推理と言います」
少年は自信を持って言い放つのだった。
気が付けばそこには自然と、少年が喋り、それを周りが聞く、という状況が生まれつつあった。この短期間でそのフィールドを作り上げたのは山之内自身である。
「それではここで犯人さんにワインを交換されたという新人の給仕さんに話を聞いてみましょう」
気が付けば刑事の横に一人の青年が連れて来られていた。給仕の制服を着ている。
短髪で線の細い、年は20代前半と言ったところ。うつむいて、顔面蒼白である。垂れ目がちの瞳の所為か、今にも泣きだしそうで、倒れそうだった。
大屋が聞きかじった情報では、ワインは文造に命じられ、一人分のみを盆に乗せ運んできたそうだ。
給仕の彼が言うには、運ぶ途中に一人の人物とぶつかり、ワインをこぼしてしまったところ、直ぐにその人物が元々持っていたワイングラスと取替えてくれたとの事。その出来事は一瞬であり、その瞬間、ワインをこぼしたことで頭がいっぱいになり、相手の顔を覚えることは愚か、見ることさえままならない状態だったらしい。勿論犯人も顔を覚えられないよう、そそくさと手際よく事を進めたのだろうが、この給仕がその人物のを覚えていれば状況は全く違っていただろう。
「給仕さん、ちょっと質問いいですか?」
「は、は、は、ははは、はい」
年下相手に極度な緊張を見せる給仕。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ。あなたがワインを運んでいてぶつかったという相手。それってこの人だったでしょ?」
そう言って少年は男を指差した。
「この人じゃありませんでしたか?」ではなく「この人だったでしょ?」と決めつける様に。
「いいいいい、いや、どうだったでしょう、か。そうだった?いや、どうだったかな。いや、もう、分かりません。全然覚えてなくて僕……。本当にすいません。分かりません」
見ている方が申し訳なくなる程に申し訳なさそうに頭を下げる給仕。
「あ、あの本当に僕何にも覚えてなくて、いつも先輩にも叱られて、あの、だっだだだっだだだだだだあだだだだ」
「落ち着いて、深呼吸して。では、僕の質問に」
そこで少年はメモを取り出し、穏やかな表情で給仕への質問を始めた。
「給仕さん、お名前は?」
「日向小次郎です」
「身長は?」
「169センチです」
「体重は?」
「は、ははい。62キロです」
「家族は?」
「母と二人暮らしです。先日まで猫もいたんですが、ある日を境にプツリと家に帰ってこなくなりました」
「今日の占いは?」
「はわわ……12位です」
「明日の天気は」
「ええと……は、は、は晴れたらいいなと思います」
「なるほど。ありがとうございました」
少年はそれらの情報を聞いた後、会場の周りを少し歩き回ってから、言った。
「給仕さんは、百パーセント犯人ではありません」
男を百パーセント犯人だと宣言した時と全く同じ抑揚で山之内少年は言い放った。
「僕の推理が保証します。この方はただのお人よしのおっちょこちょいさんです。犯人さんに嵌められましたね。お可哀想に」
山之内少年は給仕を労わる様な声でそう言った。初めて給仕の青年の顔がほんの少し、本当に微細な変化ではあるが、救われたような表情を覗かせた。
「刑事さん。給仕さんはこれでいいでしょう。随分と具合が悪そうです。別室で休ませてあげて下さい」
「だが山之内君、彼が犯人ではないという証拠が……」
「時間の無駄ですよ」
「へ……」
刑事が素っ頓狂な声を挙げる。
「そんな回りくどい事なんてしなくて良いんですよ、刑事さん。証拠なら今から僕が証明してさしあげますよ。こちらの……」
そう言い少年は犯人候補の男を一瞥する。
「犯人さんが犯人さんであるという証明をする事で、給仕さんが犯人ではないという事を証明して差し上げますから」
「……」
そこまで自信満々に言われると刑事は何も言い返せなくなった。男は少年を睨み据えている。
まもなく少年の指示通り給仕は別室へと移された。その頼りなく沈んだ背中に会場皆の視線が注がれる。退室させるタイミングがもう少し遅れていたら彼は緊張に耐えられずその場で卒倒していたかもしれない。
隣に真由美がいない、と大屋は思ったが退室する給仕の青年に肩を貸して、介添えしていた。いつの間に……。
「さて、先程貴方がそちらのテーブルで話をされていたのを見たと言いましたが、僕はその会話を記憶していません。全く、これっぽっちもです」
自信満々で少年は宣言する。
「だったら……それが何なんだよ。何を自信満々でそんな意味のない……」
半ば激昂気味の男を手の平で制してから少年は、言葉を放った。
「ですが、あなたがいつ席を立ったのかは覚えています。午後6時17分42秒55です」
「な……」
周囲でざわめきが起こる。
それに構わず少年は刑事に質問をする。
「刑事さん。会長が倒れたのは何時でしたっけ?」
「……午後6時20分だ」
「正確には午後6時20分31秒28です」
「……」
少年が一体何を言っているのか、大屋には理解が出来なかった。いや、言っている事の意味は理解出来るのだが。つまり、少年が言っている事が真実なのかどうか理解出来なかったのである。
「パーティー開始時刻にあちらの女性が料理の皿を取り損ねて地面に落としたのが午後5時32分22秒63。刑事さんがこの屋敷に到着したのが午後7時02分52秒45です」
まるで今日の朝食の献立を思い出すかの様な口ぶりで少年はそれらの数字を吐き出していく。小規模だった周囲のざわめきはだんだんと大きくなり、たちまちに会場は喧騒で溢れかえる事となった。
「山之内君……一体それは」
刑事に問われ、少年は軽く微笑みを佇ませながら、事も無げに言った。
「僕はね、絶対時感を持っているんです」
―――― ―――― ―――― ――――
少女「おねえちゃん、行っちゃった」
――うん。心細いかい?
少女「はたらきもの……」
――うん?そうだね。しっかりしてるね。
少女「うん」
――その十字架のペンダント、パパとママから貰ったのかい?
少女「キレイでしょ?」
――大事なのかい?
少女「うん。すっごくすっごく大事だよ」
――そうかい。似合っているよ。
少女「うん。えへへ」
――――― 大屋メモ ――――
「絶対時感?山之内君。なんだねそれは」
突然湧いてきた耳慣れない単語に、会場全体の疑問を代表して、刑事がその意味を訊ねる。狐に抓まれたかの様な顔をしている大人の言葉に対して少年はというと、今何時ですか?今ですか?今は正午です。とでも答える程簡単に、冷静に応対する。
「簡単に言うなら、僕の体の中には時計が入ってるって事です」
「むう……」
どれだけ問いを重ねても、返答を聞いて更に疑問が増えるだけの事に頭を傾げる刑事。
そこに助け舟。乗客の中にいた某大学の有名な学者だという中年男性が、口を挟んだのだった。
「聞いたことがありますよ。高度な指揮者や舞台役者が持っている、時間を体で感じ、上演時間、演奏時間を自分の中でコントロール出来る能力があると。確かそれが……絶対時感」
その言葉を受け満足そうに頷く山之内少年。
「その通りです。時間に関する記憶でしたら完全に把握しています」
それをまるで簡単な事の様に肯定してみせるのだった。
「まあ、制限はあるんですが。会話の内容は覚えてなくても、『会話をした時間』は完璧に記憶しています。なんなら絶対の記憶力の方が欲しかったんですけどね。全ての物事を百パーセント記憶しているなんて、便利だと思いませんか?時間限定の能力なんで使い所が限られてくるんです。まあ、なんでしたら今の正確な時間をあててみせますよ」
そう言って少年は指を鳴らした。
「僕の手持ちの札は、時間です」
胸を人差し指で指す。その所作はその中にある体内時計を象徴とさせる。絶対時感。少年は少年だけに与えられたその能力で、犯人を追い込もうとしている。追い込んだ先に何が待ち構えているのか、それは誰も分からない。
「では、始めましょう」
平坦な声。だが、不思議と人を惹きつける響きだった。
「推理の、時間です」
推理が、始まる。