三話(二)
眠たげに目を擦り続けるアーデルハイトをベッドに戻してやった後に、ツァハリーアスは彼女の部屋を出た。廊下に出るやいなや、彼の目に飛び込んできたのは、若い女中。先ほど彼がアーデルハイトを起こすように頼んだ者とは違う。
確か彼女は、とツァハリーアスは記憶の奥底を漁る。邸の前で行き倒れていたのだ。
仕事もなければ金もないと途方に暮れていたから、この邸での仕事を与えた娘だ。名前は、「私、マリーアと申します」
以前はとても親切にしていただいた上にお仕事まで与えてくださいまして云々、と話し始めたマリーアに、ツァハリーアスは「あぁ、うん」と素っ気ない答えを返した。
彼女には既にこれ以上無いほどの感謝の言葉を貰っているのだ。過剰な感激は却って重たくも感じられる。
貰いすぎたところで、それに釣りを返すことが出来ないからだろうか。
ツァハリーアスの困惑を感じ取ったのか、マリーアは話題を変えた。彼女がここで彼を待ち構えていたのは、感謝を再度述べるためではなかったらしい。
「あのお嬢様なんですが」、とマリーアは心配げに言った。お嬢様と言うのはアーデルハイトのことだろう、とツァハリーアスは判断する。「どこかお体が悪いのではないでしょうか」
突然の内容に彼は、しばし言葉を失った。
「……どうしてそう思うんだい」
「お嬢様は小食すぎますわ。お顔の色も優れませんし、もしも何か悪い病気だったらどうしましょう」
マリーアは実に心配げに眉根を寄せた。ぎゅっと握ったエプロンに皺が走る。
ツァハリーアスは思わず笑んだ。
世の中には、と彼は思う。そう悪い人ばかりではないのだ。セラピオンのようにアーデルハイトを指差す者がいる一方で、こうやって知り合ったばかりの女中が心の底から心配してくれる。
けれど、マリーアの言葉は彼に一考を要した。病気。確かに彼女の顔色は冴えないし、女中の言う言葉が正しいとすれば、食も細い。体だって決して頑強そうには見えないし、そもそもあの荒れ地で何を食べてどうやって暮らしていたのかも分からない。体調が悪い可能性は充分にある。
さらに彼女は、それを他者に訴えるような性格をしてはいないだろう。もしかしたら、あの日光への過剰とも思える嫌悪もまた、何かしらの病気の症状なのかもしれない。
「病気、か」
ツァハリーアスの呟きに、マリーアが大きく反応した。
「いやいや、まだ病気だと決まったわけじゃないさ。でも可能性は考えてみても良いかもしれないね。ねぇ、君、君さえ良ければアーデルハイトの担当になってくれないかな。彼女の身の回りの世話をしつつ、体調を見ていて欲しい」
「勿論構いませんわ。けれど、見ているだけで良いのでしょうか」
医者が必要だ。それもセラピオンの説く世迷い事に流されぬ医者が。あの牧師はああ見えて、この街ではかなりの名望を得ているのだ。その彼に楯突くような医者は、おそらくこの近辺では見つかるまい。だが。
「医者に目星はついているんだ。アーデルハイトを診て貰えるように頼んでみるから、それまで君が注意して見守っていてくれないかな」
やる気も充分にこっくりと頷くマリーアを見ながら、ツァハリーアスは懐かしい友人の顔を思い浮かべていた。
最後に会ったのは、もう八年も前になる。友人に別れを告げる暇もなく慌ただしく帰国した日が最後で、そしてそれっきりとなった。けれど噂だけは聞いていた。
友人は本人の希望通りに医者になったらしい。それもなかなかに有能な。
昔懐かしい友人に向けて、久しぶりに手紙を書くとしよう。ツァハリーアスはそう決めていた。あの男ならば迷信なぞ笑い飛ばしてくれるだろう。それに彼は依頼の手紙を無下にするような冷たい男でもない。
手紙の書き出しを悩みながらも、ツァハリーアスはまだ気楽な身分だった昔を思い出し、楽しくそして同時に切ない気持ちが胸の底からわき上がってくるのを感じていた。