三話(一)
今日もまたフォークで肉だけを皿の脇にどけながら、ツァハリーアスは特に興味も持てぬセラピオンの話を聞いていた。彼が熱心に説いているのは教会の補修費について、だ。
彼の所属する教会はこの街で一番大きく、それと同時に一番古いものであった。セラピオンが説明する教会の惨状を頭に描こうとツァハリーアスは努めてはみるが、ここ数年間一度も見てすらいない建物の細部を思い出すのは、不可能であった。
セラピオンは身振り手振りを交えて、必死に説明を続けている。まだ若さの残る彼は今、教会の実質トップだ。より年上の牧師もいるのだが、そちらは病気を患い業務を担うのはほぼ不可能になっている。
「君の言いたいことは分かったよ」
眠気に倒される前に、とツァハリーアスは強引にセラピオンの話を遮った。
「確かに教会はこの邸と同じくらい古いものね。邸の方は何度も増築修復を繰り返して来たけれど、教会の方は今まで放置に近い。傷んでいるだろうことは想像に難くないよ」
毎週日曜日の説法すら聞きにこない伯爵様に何が分かるのか、とでも言いたげなセラピオンの視線をツァハリーアスは黙殺した。
領主は領民の宗教的な模範にもなるべきだ。そうは分かっていても、ツァハリーアスにはセラピオンの説法を聞くために教会に足を運ぶ気にはなれなかった。
違う。問題は彼の説法ではない。参列している住民達の無言の圧力に晒されるのが怖いのだ。辛いのだ。
己が無力で無能な領主であることを実感するのが恐ろしいのだ。十五年前の怨嗟は深く、伯爵位が息子のツァハリーアスに移った今も、住民からの信頼を取り戻せてはいなかった。
「修復費のことは考えておくよ」
「是非お願い致します。住民たちからも寄付を募ってはおりますが、伯爵からも支援をいただければ、大変助かります」
あぁ、そうです。と、セラピオンはさも今思い出したと言わんばかりの口調で続けた。
「今日ここに来る途中で、わたくしは白いブチのあるカラスを見ましたよ。他の普通のカラスに突かれておりました。やはり『普通』とは異なる存在は、排斥されてしまうものなのですね」
普通とは異なる。それが誰を暗示しているかは明白だ。ツァハリーアスの眉間に深い皺が刻まれる。
「まさかセラピオン氏。人間とカラスが同等だとでも言うつもりではないだろうね。その白いブチを持つカラスとて、好きでそんな柄をしているわけでもないだろうに、それだけで問答無用で排斥されてしまうだなんて、悲劇だとしか言えないね。カラスと同じ程度の狭い了見しか持てない人間がいるとは僕は思いたくないけれど、君はどうだい?」
「好きでそんな柄をしているわけではない、ですか。さて、それはどうでしょうな」
曰くありげなセラピオンの言葉が、ツァハリーアスの喉に引っかかった。
昼食の最後の一品までしっかりと食べてから、ゆうゆうと帰って行くセラピオンの背中を見送るやいなや、ツァハリーアスは女中を捕まえた。問うのは、彼が保護している少女のことだ。
「あのお嬢様なら、今日も日中はお起きになられないのでは。この邸に来られてからもう数日経ちますが、一度だって日中にベッドから出て来られたことはございませんよ」
彼女の特異な生活リズムのことは、ツァハリーアスとて知っていた。邸に来たその日に「太陽が怖い」と言った通りに、少女はカーテンを閉め切り、日光とは接せぬ日々を送っていた。
それはまるで、吸血鬼そのもののよう。
「それは分かっているけれど、君、彼女を起こしてみてくれないかな。僕が呼んでいると伝えて欲しい」
伯爵様の命ならば仕方がありません、とアーデルハイトへの嫌悪感を隠す気配もなく、女中は彼女の部屋の方向へと消えた。
しばらくして戻ってきた女中は、アーデルハイトは起きたことは起きたものの、部屋からは絶対に出たくないと言い張っていると彼に伝えた。不機嫌さを露わにする女中に肩を竦めながら、ツァハリーアスは「分かったよ。僕の方が行くことにしよう」と応じた。
そんな、伯爵様がわざわざ行かれることは、と更に不満を重ねて訴えようとする女中に軽く手を振って、ツァハリーアスは廊下を歩き始める。
窓ガラスの向こうには、邸の外側に向かって広がる庭園が望めた。何人もの庭師の手によって維持されるそれは、人工的なフランス式の庭だ。生物独特の曲線を許さず、全てを幾何学的な配置で埋めたそれは、生き物であるはずの植物を無理矢理に型に嵌めた不自然極まりない光景であった。
彼らも、とツァハリーアスは思う。好きでこんな直線的な姿をしているわけではない。対してあの少女はどうなのだろうか。
「アーデルハイト、起きているかい?」
己の到着を知らせるために、部屋の入り口でツァハリーアスは声を掛けた。
応対する少女の声はない。だが女中は彼女は起きていると言っていたのだ。構わないだろうとツァハリーアスは彼女に宛がってやった部屋へと踏み込む。
時刻は昼だと言うのに、部屋は暗い。カーテンは厚く下ろされ、どこからも太陽光が入って来ないからだ。
換気すらしていないのだろう少女の部屋は、空気が重く澱んでいる。
なんと不健康な空間なのだろう、とツァハリーアスは眉を顰めた。使用人たちはこの状態のまま放置していたのだろうか。
だとしたら、酷い職務怠慢だ。例えアーデルハイトのことが気に入らないとしても、彼女は確かに主人であるツァハリーアスの客であるのに。
換気をしようとツァハリーアスが窓に近寄れば、年齢の割には低く落ち着いた少女の声がそれを止めた。
が、ツァハリーアスは彼女の言葉を無視して、カーテンを開け、更に窓をも開けた。停滞していた部屋の空気が揺れるのと同時に、ベッドをすっぽりと覆う厚手のカーテンの向こうから、少女が姿を現した。
「伯爵様は横暴ね。寝ていた私を叩き起こすだけではなくて、勝手に部屋に太陽を迎え入れるだなんて。ここは私の部屋なのでしょう? 訪問客を選ぶ権利は、私にだってあると思うのだけれど」
白い寝間着姿の少女は、真実太陽を恐れているかのように、近くにあった肩掛けを頭から被ってしまった。
怯える彼女は酷く顔色が悪い。青白い皮膚、血の気の無い唇。それは死人そのものだ。
彼の驚愕に気が付かぬ少女は、「ねぇ、伯爵様。カーテンと窓を閉じて、太陽を追い出してくださらない?」と彼に頼む。
ツァハリーアスは短く「駄目だ」とだけ答えた。
彼は必死に頭から、気味の悪い想像を追い出そうとしていた。少女は死人のように顔色が悪いだけだ。実際に死者なはずがない。
その証拠に、彼女は動いているし、こうして話してもいる。死んだ者にはそんなことは出来ない。吸血鬼。
浮かび上がってきたセラピオンの言葉を、ツァハリーアスは否定する。彼女の死人の如き不自然な色白さは、不健康な生活のせいだ。そうに決まっている。人の形をした人ではない化け物など、存在しはしない。
「どうして」、とツァハリーアスは問う。「こんな不健康な生活をしているんだい。普通の生活をすれば、君は健康的な外見を手に入れられるし、それに他人にとやかく言われることもなくなる」
他者と違うことをするのはそれだけでリスクだ、とツァハリーアスは思う。
普通と違えば、その説明を求められるのだ。今日の昼食の席でセラピオンは言った。「普通」と異なる存在は、排斥されるのだと。
それは悲しいが現実だ。排斥されたくなければ、普通になれば良い。彼女は白いブチのあるカラスとは違うはずなのだ。
彼女は極々普通の人間であって、黒くなれぬ白いカラスとは違う。普通に生活すれば、普通の人間として扱ってもらえる。吸血鬼だ何だと後ろ指をさされることだって、なくなるのだ。
「白いカラス?」
唐突に少女が言葉を発した。知らない間に口に出していたのか、とツァハリーアスは驚く。だが彼の感情など知らぬ少女は、なるほどね、と呟いた。
「白いブチのあるカラスね。真っ黒な普通のカラスとは違う変わり種。そうね、確かに私と同じなのかもしれない。貴方は」、アーデルハイトの青すぎる瞳がツァハリーアスを射た。
「私が自ら好んで他人と違うように振る舞っているとでも思っていらっしゃるのかしら? 私だって普通になりたいわ。貴方たちのような普通に。けれど私は違う。貴方たちとは違うのよ。どうしたって同じにはなれないし、同じように振る舞うことすら出来ない」
少女は淡々と続ける。そこに含まれる感情は、とツァハリーアスは考える。諦めなのか、無関心なのか。それとも。
「私、ちゃんと最初に言ったわ。きっと後悔するって。貴方が今、後悔しているのなら、そう言って。私はすぐに出て行くから。最初から無理だったのよ。私がこんな普通の場所にいること自体が、間違っているんだわ」
「アーデルハイト」
ツァハリーアスは強く頭を振った。
「君のことを責めたいわけじゃない。僕は、君に普通の生活をして欲しいと思っただけなんだよ。吸血鬼だなんて誰にも言わせないような、そんな生活を」
「無理よ」、アーデルハイトの答えは素っ気ない。「私はこんなにも日光が怖いのだもの。光差す場所になんて、一歩たりとも出て行けない」
ねぇ、と少女は声音を一転させて問うた。
「それよりも吸血鬼って何? 以前にも牧師様に言われた気がするのだけれど、私、吸血鬼が何を意味する単語なのか知らないの」
ころりと話題を変えた少女に困惑しながらも、ツァハリーアスは答えてやった。
これほどまでにあちこちで騒がれている吸血鬼を知らないだなんて、と彼は思うが、その彼とて決して詳しくはないのだ。
「吸血鬼は」と、ツァハリーアスは言葉を探す。「名前の通り、血を吸う化け物だよ。日光を嫌悪し、夜だけ活動すると言われているようだね」
「日光を嫌悪し、夜だけ活動する」。ツァハリーアスの言葉をそのまま反復した少女は、にっこりと笑んだ。
無邪気に微笑む少女は年相応の幼さだ。だが、続けて発せられた言葉は不穏なものであった。「まるで私みたい」
機嫌の良さそうな少女に、ツァハリーアスは疑問を抱いた。
化け物に似ているだなんてのは、歓迎すべきことではないはずなのに。
「あぁ、そう心配しなくても大丈夫よ、伯爵」。アーデルハイトの血の気のない青い唇が、綺麗な弧を描く。「私は誰の血も吸ったりしないわ。ねぇ貴方、やっぱり後悔しているんじゃない? 私を拾ったこと」
ツァハリーアスを見上げるアーデルハイトの瞳は、空虚なガラス玉の如き青色。こんなに綺麗な青なのに、とツァハリーアスは思う。
彼女が青空を見ることは叶わないのだろうか。
彼女の瞳にかかる前髪をツァハリーアスは払ってやった。アーデルハイトの瞳が大きく見開かれる。
その縁には豊かな睫。この少女は、他人から見捨てられることに慣れているように、彼には思えた。もしかしたら彼女は今までに何度も他人に裏切られ、見捨てられてきたのかもしれない。
それもきっと彼女自身にはどうしようもない、その特異な体質のせいで。
可哀想だ、とツァハリーアスは素直に感じた。同時に己のふがいなさも。
誰かの役に立ちたいと口では言っているくせに、実際はどうだ。結局は他の人間と同じように、彼女を責めている。
白いカラスにだって、生きる権利はあるはずなのに。他者と違うからと排斥されるのは、白いカラスの、そしてアーデルハイトの責任ではない。
「妙なことを言って悪かったね。君がそんなに太陽を恐れているとは、知らなかったものだから。いいや、これは言い訳でしかないね」
ツァハリーアスは己が開けた窓とカーテンを閉めた。
太陽が追い出されてしまえば、元から採光に優れない部屋はすぐに薄闇に満たされる。
そんな彼にアーデルハイトは溜め息を落とした。それは己の不憫を嘆くものではなく、彼に憐憫を注ぐかのような。
「私が」、と少女は口を開く。「私が他と違うことは確かなのよ。そのせいで貴方が何かしらの不利益を被るのなら、私は」
「アーデルハイト。前にも言ったと思うけれど」。ツァハリーアスが強引に彼女の言葉を遮った。「僕は誰かの役に立ちたいんだ。それが僕の生きている理由でもある。それとも、僕では君の役には立てないかな?」
アーデルハイトの瞳が曇った。
いや、それは部屋が暗くなったせいなのだろうか。それとも、俯いたせいで彼女の長い睫毛が瞳に影を落としたためなのか。
「そんなことはないわ、伯爵。感謝しているのよ、本当に」
「君に感謝されるほどのことをしてはいないけれどね。だから、感謝するのは君の身元が分かるまで取っておいてよ」。ツァハリーアスはアーデルハイトに微笑みかけてやる。「それに君に今出て行かれるのは困るよ。君の服の鑑定のために呼んでいる職人が到着した時に、僕は一体どんな顔をしたら良いんだい?」
それもそうね、と少女が笑ったことにツァハリーアスは安心した。
彼女は身寄りも身元も判然としない、宙ぶらりんな身の上なのだ。不安でないわけがない。けれど、と彼は思う。
もう少しまともな生活を送る努力をして欲しいものだ。なにせ彼女は、こんなにも美しい娘なのだから。
アーデルハイトが眠たげに目を擦った。その瞳は色鮮やかな青。波打つ豊かな髪は濃い金色。血の気のない青白い皮膚は、それでも陶器の如き滑らかさを誇る。
これだけ天然痘や梅毒が流行る時代にあって、その被害の痕跡すら見つけられぬ肌は酷く珍しい。整いすぎた顔と相まって、彼女には独特の雰囲気がある。
母の胎内から血みどろで生まれ落ちる人の子などとは違う、最初から完璧な存在。有無を言わせぬ、その存在感。
「さっきから何?」
少女の怪訝そうな声で、ツァハリーアスは我に返った。彼女の細いけれども、確かな意志を感じさせる眉が、片方跳ね上がっている。
どうやら意識せぬ間に、目の前の少女を凝視していたらしい。
「ああ、もしかしてこれが気になっていたのかしら」
ツァハリーアスの視線を勝手に解釈した少女は、先ほどから被ったままになっていた膝掛けを頭から外した。
黄金色の髪が零れる。その動きにつれて、大きすぎる寝間着の襟元が開いた。そこから覗くのは彼女の露わな鎖骨と、その左下に位置する俯いた百合の如き形状の痣。
ツァハリーアスは安堵した。少女の皮膚に刻印されたその小さな瑕疵は、彼女が完璧な存在などではなく、不完全な人間に過ぎぬことを証明していた。そんなことは、いちいち確認せずとも明白な事柄のはずなのに。