二話
夜は更けて、朝が迫りつつあった。
「この部屋を使うと良いよ。昔昔は我が家は大人数だったらしくてね、その名残の今は空いている部屋なんだ」
ツァハリーアスが説明しながら部屋を示せば、アーデルハイトは不思議そうに彼に問うた。
「ねぇ、どうしてそこまで親切なのかしら? 私は貴方に何の利益ももたらさないのに」
「うん?」
それは、とツァハリーアスは思う。それはきっと彼女のためなどではないのだ。
「言っただろう。領主の勤めだって。僕は良い人間でありたいんだよ。いや、良い人間でないといけないんだ。まぁ、あの石頭の牧師と意地の張り合いをした結果だって部分も、否めないけれどね」
少女が彼を見上げていた。「だから」、とツァハリーアスは続ける。「君が僕に感謝する必要性もない」
「貴方って、何だかとても面倒な人なのね」
皮肉にも聞こえる内容を、少女は感情の滲まぬ平坦な声音で呟いた。彼女の言う通りだ、とツァハリーアスは思う。
「君の身の上を見つけてあげるよ。でないと君も困るだろうし。それまで暮らせる程度には、身の回りの品も用意しよう」
彼の提案に少女は大きく溜息を吐く。
「何度も言うけれど、私には見つけるべき身の上なんてないわ。払うお金もないから、貴方の親切は受けられない」
「そんなわけないだろう。ジムプリチウスじゃあるまいし。いや、物語の中の彼だって、手本となる隠者がいてこその野良暮らしだったしね。一人で生きられる人間なんていない」
「でも私はずっと一人だったわ」
「そうかな? なら、君のその見事な服はどうしたんだい」
「知らない。きっとどこかで貰ったのよ」
「それはないね」、とツァハリーアスは断言した。「そんな美しい衣裳はそうそうないと思うよ。まぁ、僕も特別詳しいわけじゃないけれどね」
ほら、見せてごらん。とツァハリーアスが促せば、アーデルハイトはおずおずとその袖を彼に示した。
大きく折り返された袖口には、ぎっしりと施された銀糸の刺繍。凝視しても破綻を見つけることが出来ないほどに、熟練の手練れによって周到に糸が刺されている。
だが僅かにほつれた場所を見つけた。白い布からほぐれて浮く銀色の糸は、不思議にツァハリーアスの脳をくすぐった。
込み上げてくる嫌悪感の意味も分からぬままに飲み込んだツァハリーアスは、無理に少女に微笑む。
「やっぱり僕には良く分からないね。けれど、詳しい人に鑑定してもらえば、この刺繍がどこの流行か分かるだろう。それが判明すれば、もしかしたら君の身元についての情報になるかもしれない」
「そう」。少女の声には期待の色は見えない。「全てが空回りに終わっても悲しまないでよね。私はもう忠告したわ」
まだそんなことを、とツァハリーアスは呆れる。彼女のこの頑なな態度は、一体どうしてなのだろうか。
「君の有り難いお言葉は、ちゃんと受け取ったよ。それで、何か必要な物はあるかい?」
彼の言葉を受けて、アーデルハイトは窓へと歩み寄った。
大きな窓ガラスから差し込むのは月光。窓も開いていないのに、部屋中の蝋燭が消えた。少女の髪が銀色に輝き、青い瞳は灰色に沈む。
熱心にカーテンを品定めしていた少女が振り返った。魅惑的な赤い唇。血のような。
ツァハリーアスは己の思考力が奪われつつあるのを感じた。人間が人間である理由は、この思考力であるはずなのに。足下の現実が不安定になる。自分の立つ場所がどこなのか、見失いそうだ。
「親切な伯爵様にこれ以上の親切を乞う必要性はないみたい」と、ツァハリーアスの思いなど知らぬ少女は彼に笑んだ。
「これだけ厚いカーテンならば、きっと日光を遮ってくれるでしょう。私、太陽がとても嫌いなの」
その発言はまるで太陽を怖れる吸血鬼のようだ、とツァハリーアスは感じる。だが彼は結局何も言わなかった。
「もう朝も近いけれど、眠ると良いよ。ベッドはいつだって使えるように用意してあるからね」
彼女に宛がってやった部屋から出ようとして、そこで彼は振り返った。
少女はまだ窓の前でカーテンを弄っていた。その隙間から見えたのは、闇にうっすらと浮かぶ低木。
そして、その上に蹲ったカラス。全身真っ黒なはずのカラスに、白いブチが見えた気がした。